昨年の4月に夫をすい臓がんで亡くしました。闘病3か月、55歳でした。 発見時にはすでに末期で、本人も家族もあまりにも急なことで戸惑いの中あっという間に亡くなりました。最期は激痛を緩和させるために麻酔で眠らせた中逝ったのですが、その瞬間は仮眠をとってて気づかず、ちゃんとした会話もできず。 1周忌を迎えるのにその後も後悔することだらけで、引っ越しのどさくさで大事な形見の腕時計を無くしてしまったり、情けない限りです。 未だに夢にも現れず(鈍感で気づかないのかはわかりませんが)、夫は本当に安らかにいるのかどうか、まだ病院や前の住まいに迷っていないでほしいとか、仏壇に手を合わせて祈りますが、法事でお願いしているお坊様は自分の願いを言ってはいけないとおっしゃいます。こういう気持ちはどうしたらよいのでしょう。 正直実家の曹洞宗といろいろ違いすぎることも影響しているかもしれません。どうかアドバイスお願いいたします。
先日は、道を示して頂きまして有難うございました。 さて、今回は、この時期になるとフツフツと湧き上がるモヤモヤについてご教示願いたいと思い相談させて頂きます。 5年前に叔父(父の弟)が亡くなり父実家の宗派である浄土真宗本願寺派のお葬式をしたのですが、 叔父は此方の地元を離れ関東に住んでおりましたので、其方の浄土真宗本願寺派の導師様にお願いをしたのですが、お焼香の方が、まだ数十人単位 いらっしゃったのに『後は、ご自由に…。』と言って帰ってしまわれたのです。 お経も中途半端で、和讃を省いていました。 此方では正信偈の後に和讃が続くので、何だか いい加減な感じがしたのは否めません。 やはり、何より一番、モヤモヤするのは、お焼香の方が、いらっしゃるのに帰ってしまわれた事 その時は、恥ずかしいやら、情け無いやら、腹立たしいやらで、叔父を悼む気持ちも吹っ飛んでしまいました。 ですが、冷静になって考えてみると同じ宗派だからと言って地域が違えば作法も習慣も違う事もあるのでは?と思い相談させて頂きました。 関東の浄土真宗本願寺派の方、実際は、どうなんでしょうか? やはり、この導師様のように、お焼香の方がいらしても途中で帰るのが一般的なんでしょうか? それとも、この導師様が間違っていたのでしょうか? 叔父の命日が近付く、この頃になると毎年思い出して、モヤモヤします。 どうか、其方での正しい作法を教えて下さい。
今から数十年前、母が真宗の墓地を購入しました。 仏壇の無い家へ嫁ぎましたので、先祖様の宗派も何も分からず言われるがままにだったと思います。 先日、父が亡くなり少し迷いが有りましたが、そこのお寺から法名を頂きました。 生前父が先祖の位牌だけでも持って来ておきたいと私に言っておりました。 と、言うのも父は次男で墓守りする状況には有りませんか、長男が早くに亡くなり、そこのお嫁さんは現在83歳で認知症により施設に入所しております。子供もおりません。 そんな状況を父はずっと心配しており、母にも気を遣い気にしていたようです。 お墓はここから遠くにある為、将来的には永代供養となるかと思います。 父の希望である位牌だけでもこちらに持って来て、私がみていこうと思ってますが、先祖様の宗派が浄土宗の為、問題発生なんです。 父の意思を受け継ぎ、先祖様を守りたい思いで、一度は法名を頂いた真宗から浄土宗に改宗し戒名を頂きたいと思ってます。 この場合、墓地代の返金は無理なのでしょうか? 因みに墓石は建ててません。 改宗は四十九日前が理想でしょうか?葬儀の際に法名まで付けてくれた真宗のお坊さんに申し訳ない気持ちでいっぱいの上、父は行ったり来たりであの世で迷ってしまわないかも心配です。 家族で話し合った結果なのですか、母の事も考えると、どうする事が良いのか不安になってきました。 良きアドバイスをお願いします。
幼稚園が浄土宗のお寺でした。 幼稚園で小さな「のの様」の像を貰い、 家に飾っておりました。 が、思い返すと「のの様」について今も よく分からない事があります。 私の中では「子供の仏さん」みたいなイメージなのですが…本来はどうなのでしょうか?
49日まで霊として留まるということで、御霊前となるところ、浄土真宗ではすぐ仏となるため御仏前を使うと何かで見ましたが、 その他どのような特徴がありますか。 どのように故人を偲ぶのがよいですか? 気をつけることはありますか? 故人が宗派をすごく大事にしていたため、できるだけそれに寄り添った形で、供養したいと思っています。
お久し振りです。ゆうりです。いつもお世話になっております。 この度教育実習に行って父親の働きぶりを見て参りました。 進路には迷うところがありましたが、父親の背中を追ってみたいと思い、高校教師になりたいと思いました。 さて、それに伴って、私立高校に履歴書を送ろうと思ったのですが、その高校は教育目標に、「親鸞聖人の教えと信仰を基調として、事故の進呈を探求し、勤労と責任を仕損じ、世に出てこの人あればこそと言われる人材を養成することを使命とする。」と記されておりました。 この教育目標について、親鸞聖人の教えについて簡単にご教授いただけないでしょうか。 また、人を育てる教育においてどう繋がってくるのでしょうか?
お世話になります。 私の家の宗派は両親ともに浄土真宗です。 一人暮らしをしているのですが、ご先祖様を供養したく、小さな棚を作り、そこに今は、お水、お茶、お菓子をお供えしております。 ろうそくやお線香は火災の危険と火災報知器があるので、置けないのと。 お花をお供えしたいのですが、家をあけることが多いので造花を考えております。田舎者なので造花にかなり抵抗があるのですが、造花でもいいものなのでしょうか? もし『その程度しかできないんだったらやめた方がいい』というご意見等がございましたら、仰ってください。 よろしくお願い致します。
親しくしていた友人が若くして不慮の事故で亡くなりました。つい先日まで普通に接していたのに、いまだに信じられない気持ちです。働き盛りでまだまだやりたいこともあったろうに、まだ伸び盛りの子どもたちの成長も楽しみにしていたのに、といろいろ思うと残念でならず、彼の姿を思い出しては冥福を祈ってしまいます。 私は浄土真宗の本願寺派門徒ですが、真宗では冥福を祈らないという考えがあるのを承知しております。「祈りは自分の欲望実現の手段であり、人生無責任思想へ結びつく考えです」「死者を頭から不幸な世界と決めつけ、自分の祈りでその不幸から抜け出せるとうぬぼれている」、真宗僧侶の著書にもある通りかもしれません。 まだ、彼の死を自分が受け入れられず、自分の無念を死んだ友人の気持ちにすり替え、冥福を祈ることにっよって自己満足を得ようとしているだけなのでしょうか。それでも、いまはまだ冥福を祈ることしか、自分の気持ちをおくところがありません。これからどう気持ちを整理していけばよいでしょうか、アドバイスをお願いします。浄土真宗のお坊様のお答えをお待ちしております。