うまくいかない恋愛を前に常に間違える自分は相手を困らせ、自分も傷つくの繰り返しで、自分で判断するよりもまだいくらかよいか…と占いにはまって抜け出せなくおりました。(まだ抜けきってませんが。。) 恋愛に対して、よろしくないとか凶とかばかり出ていたのでしたが、それが念仏を唱えさせていただく契機になるのだから占いの上での人間的な欲望ベースの吉凶もあてにならないなと思えてまいりました。 悲しみ、不安、妬み、怒り、今はそうした感情が湧いてきたときに念仏を唱えさせていただきます。それから何もない時でもことあるごとに。 最近は、私につらく当たる上司も、報われず悲しい顔をしているあの人も、妬ましいと思ってしまった幸福そうなカップルも、馬鹿にして軽蔑してしまった人も皆、等しくともに極楽浄土へ向かい仏になるのだと思うとその方々の身の上にも念仏を唱えさせていただいている自分がおりました。 念仏をいただくとも阿弥陀様がもらすことなく私たちをお救い下さるというのになぜ、さらに勤行を重ねていらっしゃる方々がいるのかなんとなくわかった気がします。 この娑婆でこの私が今一歩、執着を離れ心穏やかに、(併せて周りの人も穏やかに)いられるためにもう一歩踏み込んでみたいと思っていますがまずなにをはじめたらよいでしょうか。 ただ、その行為自体にすがろうとか執着してしまうということは避けねばとは思います。 ちなみに、私の家自体は本家から離れ菩提寺もないのですが父方が大谷派、母方が本願寺派です。 (それにしても仏教は面白いですね。みんな根っこは同じでもお釈迦様の教えが多様に分かれていって、親鸞上人の教えもさらに多様に分かれていって。人の数だけ救われ方がある、のでしょうか?) ※すこしとりとめのない感じになってしまいすみません。
先日質問をさせて頂きました。 今回はお盆にあった事と、つい最近あった事についての質問です。 私は曹洞宗です。今年亡くなった祖母は禅宗から浄土真宗になりました。(祖父が浄土真宗だったからです) 祖母の新盆があり、お寺にお参りしてきました。 納骨堂には祖母の遺影を置いてきました。 広場でお経をあげられた後、お坊さんから精霊馬を置いている人は居ないかと聞かれ、皆さん手をあげず、私は自宅では飾って居ますが、手をあげませんでした。 その際、皆さんよく勉強されている、浄土真宗では飾らない、また、故人はお盆には帰ってこない、何故ならもう成仏しているから。と喜々として語られていました。 ちょっとショックでした。 確かに浄土真宗教義ではそうなのですが 言い方を変えると二度亡くなった感じに感じました。 曹洞宗の私は成仏した成仏してないに関わらず、お盆とはそう言う物だと思って居たからです。本来の教義からすると離れるのかもしれませんが、こちらから成仏した成仏してないの確認は出来ませんので、一律に帰ってくるものだと思うようにしていました。 正直今後宗派が違う祖母のお寺のお盆参りには行かない方が良いのかとすら悩みました。 先日祖母の月命日があり、お寺にてお経をあげてもらったそうです。こちらからお願いして頂いたそうです。祖母の納骨堂の前でお経を貰ったそうです。 既に成仏していると言う考えなのであれば、納骨堂の前でするのではなく、本堂の阿弥陀如来の仏像の前でするのではないのか?と思いました。 浄土真宗では納骨堂に意味があるのでしょうか?そこに居ないで阿弥陀如来に手を合わせるのであれば意味が無いのかと思ってしまいます。 そしてそのお寺では死後の菩提寺が無い人に対して浄土真宗になればうちのお寺で対応すると言うような手法を使われているそうなのですが、こういう事は良くあることなのでしょうか? あまり祖父母が浄土真宗としてのお参りなどをこれまでしてきていなかった事と、子供の頃から曹洞宗のお盆で慣れて居た事もあり、面食らって居ます。
最近、家族を亡くして仏教の本を読むようになりました。 浄土真宗では、浄土へ往生すると、またこの世へ戻り人々を救うとあります。 浄土へ往生できても、また苦しいこの世へ生まれ変わるのでは、救われた気がしません。還相が、前世で学べなかったことへの機会が与えられる慈悲ということでしょうか。また、現世に戻って生きるなかで、ある人にとっては、私の行動が救いになるということでしょうか。
私は浄土真宗の檀家です。しかしいくらか私のしている霊的ワークと食い違う面があるようなのです。 1 毎日全ての命が永遠に幸せに暮らせる浄土の到来を1日何十回と祈る →浄土真宗に祈りの習慣は無い 2 敬愛する阿弥陀さまを参拝する →「阿弥陀如来なんて死後しか助けてくれないから自分の死期を早めるだけだよ」と言う人が居る(主に創○学○など) 3 信徒として、マントラでもお題目でもいいから何か功徳を積みたい(「見返り無く人を愛することは当たり前」というポリシーが強いて言えばそれらしきものです) →「ただ阿弥陀さまを信じるだけで浄土に永住できるから何もしなくていいんだよ」と、キリスト教の一部のプロテスタントのような意見がある (浄土永住に向けた生きる道での修練を知りたい) 4 仏壇の仏像には曹洞宗のお坊さんに開眼供養してもらった →浄土真宗に開眼供養は無い ↑それじゃただのインテリアになってしまうのでは… これらについて深掘り解説をお願い致します。ここまで読んでくださった方も永遠に幸福でありますように
浄土真宗の考え方で好きなものに 倶会一処というものがあります。 若くして父が亡くなって悲しむ母に、父とはお浄土でまた会えるよと伝えてあげたいのですが 浄土では仏になる、(煩悩をなくす)修行?をしているのだと聞きました。 そこで質問なのですが浄土にいったものに、 好きだった人という感情は、 父は母、母は父に会えたという感情は存在するのでしょうか? そんなドラマみたいな話、と思われるかもしれませんが頭で思い描いえがいてるような またあえたね!というような再会ができるのかが とても気になっています。 お答え下さると嬉しいです。 よろしくお願いします
当方、浄土真宗です。 今度、お寺の合同墓に納骨して頂ける事になりました。 規約を見ると「永代納骨冥加金」とありました。 それでお聞きしたいのが、そのお金をお渡しする際の封筒と表書きは何にしたら良いのでしょうか? 白い無地の封筒に上段に「冥加金」、下段にフルネームでしょうか? また、それは申込書と一緒に先にお持ちする事になっているのですが、納骨をして頂く日は、別途『御布施』を用意するものなのでしょうか? その場合も白の無地の封筒でしょうか? 色々調べてもはっきりと分かるものはありませんでした。 冥加料で、黄色の水引に「御布施」もあれば、無地の封筒に「御布施」もあったり、よく分かりませんでした。 無知な自分なので、出来るだけ失礼のない様にしたいと思っていたところ、こちらを見つけ、ご質問させて頂きました。 どうぞ宜しくお願い致します。
私は浄土真宗では無いのですが、今回母方の祖母が亡くなりました。お西さんでした。考え方と葬式での話になるのですがご了承ください。 浄土真宗では亡くなった後すぐに仏になるとありました。 そうすると、棺に手紙などを入れても結局遺族の自己満足で終わると言う事なのでしょうか。(冷たく考えればどの宗派でもそうなってしまうのかもしれませんが) 49日や各七日の考えも、故人の為ではないと言う事なのでしょうか? 私は父方が曹洞宗で子供の頃に習った話だと、こう言った法要は故人のためだったはずなのです。子供の頃の記憶なので完全に間違ってるかもしれませんが。 祖母にはとても愛されて居ましたし、私も大好きな祖母です。 祖母の為には何をしてあげれるのかと思うとちょっとわからなくなってきました。 今年は新盆ですが、お供えを故人の事を思って選んだ方が良いのか、適当で良いのか・・・ 私としては故人の事を思って選びたく思うのです。 また、納棺の際に他の遺族の連れ合いが壁に寄りかかりながら腕を組んで参加していたりしたのですが、お坊さん的にはこれってありなのでしょうか。 その連れ合いはまだ若いです。最近結婚したばかりなので、祖母ともそこまで面識がありません。 私からすると参加するのであればちゃんとした態度で参加した方が良いですし、そこまで人から見える場所に居る立場ではないとはいえそう言う事はやらない方が良いと思います。 これが母や叔母が憔悴しきって居てならまだ分かりますが、当日来たばかりで憔悴するような立場ではない人間なのです。 こうあるべきと言う考えが強いのかもしれませんが、ちょっと腑に落ちないのです。
浄土真宗の一部のお寺では、悩み事相談や自殺対策をされているさまですが、そのお寺に悩み事を解決し、前に進みたいと思いました。それで相談したのですが、阿弥陀如来様は救わない時がある、お断りする、自殺を勧められ警察に仲裁をして頂く、頭がおかしいんじゃないか、精神科へ行け、本願寺に行け、など、ショックを受けました。お陰で体力を失い、我が家もソーシャル・ディスタンスの孤独な最中、近々、法要を控えていましたが、取りやめる事にしました。浄土真宗が怖くなりました。他の宗派のお寺様に、オンラインで相談可能なところを探している最中です。そして、色々目処がつきましたら、我が家の宗派も浄土真宗から他の宗派に変えようかと思いました。よろしくおねがいします。
浄土真宗本願寺派の門徒ですが、まだ両親は健在で年に数回、お坊さんに月命日のお参りに来てもらっていますが、両親がお寺に参ることはしません。当然、永代経法要にも参ったことがなく御懇志も奉納したことがありません。 そんな状況で、息子である私が永代経法要にご聴聞しに参ってもいいのでしょうか? 又、その際私が御懇志を奉納しなければならないのでしょうか?
私は阿弥陀如来様が大好きです。 毎日救っていただくことへの感謝として念仏を唱えています。ハスノハでもたくさんの問答を見るのが楽しみです。 ところが、先日、ハスノハで真宗のお坊様が「極楽浄土があると信じていない」人への解答で、「阿弥陀如来様や浄土というのは働きのことで、実際亡くなった人が浄土という場所で生まれ変わるということではないのだろう。だから浄土とはこの世での働きのことで、死後の世界としてあるわけではないと思う」「仏様というおとぎ話を使って今生での安寧を得るのだ。だから阿弥陀如来様が実在するか否かはどうでもよい」「自分も科学的に極楽浄土の世界は懐疑的」 という旨のことを仰っているのを拝見しました。一人ではなく何人かのお坊様がそういったことを仰っているのを見ました。 誤解していただきたくないのですが私はハスノハのお坊様方のことを尊敬しております。ですが少なからずショックでした。私は今生で死んだら、阿弥陀さまに迎えに来ていただいて極楽浄土に生まれ、そこで仏となる修行をできることを嬉しく思っていたからです。 また、何があっても阿弥陀如来さまがいつも一緒にいてくださることが喜びであり、心の支えです。 法話を聞いたりしていると、「阿弥陀如来様という素晴らしい仏様がいらっしゃる(=阿弥陀如来は実在する)」「死んだら極楽浄土にいき仏になる(=極楽浄土は実在する)」とお経も親鸞様もハッキリ仰っているように思います。 阿弥陀如来様や極楽浄土の存在を確信するのが、浄土真宗ではないのですか? 私が、元はキリスト教を学んでいたこともあって、阿弥陀如来様や極楽浄土への解釈が違うのではないかと不安です。 (極楽浄土と天国は、極楽浄土は阿弥陀如来様の国(他の仏様もそれぞれ浄土をもっていらっしゃる)。という違いだと理解しています) 私はこれからも阿弥陀様といつも一緒だと思っていても良いですか?
僕は真宗徒なのですが、法義が薄い土地なので、周りには真宗の人は誰もいません。 そこで質問なんですが、現代日本でぶっちゃけどれぐらいの人が信心決定してるんでしょうか?体感で教えてくださると助かります お坊さんも信じてないみたいな話も聞きますが… ちなみに僕は信心頂いてます
真宗大谷派の門徒です。昔読んだ『はだしのゲン』がきっかけで、龍樹菩薩の十二礼をお唱えしたいと思ったのですが、お東では最初(伽陀)と最後(回向文)のみ読まれていて、それも節が難しいので、お西様の節を動画を見て、勤行本を買って、何とかお唱えすることができましたが、何の問題ないでしょうか。私個人的にはお東、お西どちらでも良いと思っていて区別していません。
こんにちは。 作法のことで2点、教えていただきたいです。 様々な資料を拝見していますと、いろんな場所、場面で行う礼について、「軽く頭を下げる」など細かく書いてある場合もあれば、ただ「礼をする」「一礼」などと書いてある場合もあります。 そこで、細かく書いていない礼の場合は、具体的にどのように礼をするべきか気になりました。 例えば神社関連では「深い礼…手の平を膝まで下げて90度腰を折る」と書いてありますが、なかなか仏教関連での礼の作法は詳しいものが見つけられずでした… また、お寺で山門で礼をする際、参道を通る際は、端にいるべきでしょうか? お参りの際には賽銭箱の中央に立っても大丈夫でしょうか? 年の瀬のお忙しいときに申し訳ございません。
浄土真宗につきまして,質問させていただきます。 先日,母が他界し,仏壇を引き取りました。 仏壇の御本尊は,黄色い光が6本出ている掛け軸から,大谷派であることがわかりますが,「ウチは代々大谷派」,「ウチは代々東本願寺派」という,厳密な別があるのでしょうか? と申しますのは,墓石の横に彫られているものを見ますと,祖母の法名は「釋尼〇〇」,母の法名は「釋〇〇」で,前者は東本願寺派,後者は大谷派の法名のようで,なんとも気になるところです。 もう一つお聞きしたいのですが,仏壇に,「〇〇家先祖代々之霊位」という位牌が入っています。うらには,「昭和60年9月 施主 〇〇〇」と書かれています。〇〇〇は,すでに亡くなった私の父の名前です。 調べてみますと,浄土真宗は,お位牌は必要がないと書かれている記事がありました。仏壇が小さく,問題がなければお焚き上げをしたいのですが,いかがなものでしょう。 まとめますと, ・代々の宗派として,大谷派,東本願寺派は,厳密に区別しなければならないのか。 ・父がつくった位牌をお焚き上げしても問題はないか。 ということです。 どうぞ宜しくお願い申し上げます。
とても細かい内容になるのですが、気になった上に、なかなか答えが見つからなかったので質問させていただきたいです。 浄土真宗 大谷派の作法についてです。 《1》 仏壇、お寺、お墓などでの「南無阿弥陀仏」の回数は決まっていますでしょうか?大切なのは回数ではなく心だ、といったことを聞いたこともありますが、実際にお参りする際に、何度くらいにすればいいのか迷ってしまい、教えていただけましたら助かります。ちなみに現状は「南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ)、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と3回にしております。 《2》 お寺のお参りの作法についてなのですが、行き帰りに山門で一礼するのは、 【山門前と、山門を出てから】【本堂に向かい一礼】【手は合わせない】で合っていますでしょうか? 《3》 いろんな場面で礼をする際、なぜか目を閉じるクセがあるのですが、開けていても閉じていてもどちらでもかまわないのでしょうか? また、手を合わせる際には、どうでしょうか?お世話になっているお寺さんに、仏壇に手を合わせる際は目は閉じないと教えていただいたことがあるのですが、お寺やお墓などで手を合わせる際も同じく目は閉じないものでしょうか? 《4》 お寺などでお参りする際の念珠を出すタイミングを教えてほしいです。最初は手にしておらず、お寺ではお賽銭前に一礼する直前、お墓では手を合わせる直前に持ち、どちらも合掌を解いたらしまっているのですが、大丈夫でしょうか? 非常に細かく申し訳ございません。一度気になったらモヤモヤしてしまいまして…
先日、母が他界しました。49日まで実家へお骨がありますが色んな事情があり毎日通う事が出来ません。本当は毎日行って拝みたいのですが…。今は自分の家でお香を焚いたりして手を合わせています。 お聞きしたいのは、私の家で手を合わせる 事でも想いは届くのか、知りたいです。 浄土真宗では亡くなるとすぐに極楽浄土へ行く事が出来ると書いてあったので、何処にいても想いは通じるのかな。通じていて欲しいなと思います。
浄土真宗では仏法僧はどのように解釈されていますか? あるいは採用されていない考え方だったりしますか? 付け焼き刃の知識で申し訳無いですが 仏→お釈迦様 法→御仏の教え、真理そのもの? 僧→サンガの方たちみたいな出家修行僧集団? みたいな理解で良いのでしょうか…? 仏とは阿弥陀如来なども含む?としても浄土真宗では非僧非俗? そもそも浄土真宗では釈迦如来はどういう位置づけ? などの疑問があります。 お教えいただければ幸いです。
浄土宗を信仰していますが、先日ショックな文献に出会ってしまいました。 二祖・聖光房弁長上人の念仏名義集に 「臨終行儀と申すは一期の大事是に過たる無きたり。世の中の人の往生したるぞ、悪道に堕たるぞと申す事は、此の臨終にて知るなり。臨終の吉き人は往生したると知る、臨終の悪しきをば悪道に落ちたりと知るなり。」 とあります。 これはどうしても納得できません。日頃念仏をしているのにろくでもない死に方をした人が一人でもいたら、「念仏すれば阿弥陀仏は救ってくださる」という教えが崩れてしまいますし、現実的にそういう人が今までに一人もいないとは思えません。 念仏していたって死ぬ時に正念を保てるとは限らないし、保てていたとしてもこの目に来迎を見ることができるかはさらに自信がありません。来迎を見れなければ浄土に往けないと思うと、物凄い恐怖の中、死んでいかなければならないのではないでしょうか。 弁長さんなんでこんな暴言吐いちゃったの!?って気持ちです。 そんな疑問を抱えたまま時宗を勉強していたら、時宗では臨終とは死ぬ時だけを指すのではなく一瞬一瞬を臨終と心得、今この時に唱える平生の念仏がすなわち臨終の念仏である。 来迎が見えなくても三界虚妄のこと、惑障が邪魔をして見えないことだってあるが気にしなくていい。必ず往生できる。という教えに出会い、これだ!と思いました。 じゃあ時宗に改宗したらいいじゃんと言われそうですが、この弁長さんの発言以外は浄土宗が好きで、敬愛する徳川家康公と同じ宗派ということに魅力を感じています。時宗総本山清浄光寺より知恩院の方がずっと近くて行きやすいですし、何より近くに時宗の寺院がありません。 そこで、浄土宗檀信徒のまま、都合のいい所だけ弁長上人の言うことを無視して一遍上人の思想を取り入れるということをしてもいいでしょうか? それでも浄土宗檀信徒を名乗る資格があるでしょうか?