浄土真宗(大谷派)について勉強を続けている者です。浄土真宗で得度や教師資格取得に挑戦したいのですが、所属寺をどう探せばいいのか分からず困っています。(家は代々臨済宗です)教えていただきたいです。
亡くなった夫は次男で、夫の実家は浄土真宗です。 夫の実家は飛行機で行く程の遠距離です。 夫の生前中、一緒に高野山へ行き 感動して、私達は真言宗になりましょうと2人で決めておりました。 なので、夫が亡くなった際の戒名もお経も真言宗です。 その事を友人に話したら、次男であろうと夫の実家の宗派と同じにするんだよと言われました。 最近、仏壇を購入しました。 仏壇内には真言宗の掛け軸も揃えたので、後は魂入れをしてもらうだけです。 当然、真言宗のお坊さんに魂入れをお願いしようと思っています。 夫の実家の宗派とは違う宗派って駄目なんでしょうか? ちなみに、私の実家の宗派は真言宗です。
いつも回答頂きありがとうございます。日蓮宗の檀家です。 4月28日に菩提寺の立教開宗、御施餓鬼法要に参加する予定です。 菩提寺に御供も持参したいのですが、何がよろしいでしょうか。 お盆の時期には自宅の精霊棚にお米とキュウリを賽の目に切ったものを御供えしましたが、今回は御寺様で、また立教開宗も兼ねているので、と思った次第です。 飲み物や果物、または参列者の方々にも配って頂けるような個装のお菓子などでしょうか。 僧侶皆さまのお立場から、これが良さそう、もしくは適さないものなど、ご意見頂きたくよろしくお願いします。
宗派が色々あることで、どうしても救われない気持ちになります。それぞれ宗派が違って、宗派によって違う念仏もあると思います。僕の実家(父方)は浄土宗で南無阿弥陀仏と言います。でも、母方の実家は宗派が違います。ですので、別の念仏をとなえます。浄土宗では、南無阿弥陀仏というものは極楽往生するという考えがあり、倶会一処という考えもあります。僕はこの教えがこの世での、唯一の心の拠り所です。ただ、母方の実家の宗派が違うということだけが気掛かりなのです。宗派が違うということは、となえる念仏は当然、違ってきます。つまり、僕は母方の祖父、祖母と再会できないということになると思うのです。その不安ばかり募って、勇逸あった拠り所もなくなりそうで凄く怖いです。
法然上人の直弟子の流れの宗派として現在、浄土宗(浄土宗も鎮西、証空の流れと捉える事ができると思います。)と真宗系があります。 しかし、浄土宗では、善導大師の著作も法然上人のお言葉もよく拝読し、両大師を仏壇でお祀りしておりますが、真宗系(全派までは分からないですが)では、親鸞聖人の著作を拝読し、親鸞聖人、蓮如聖人をお祀りしております。 そこで疑問なのですが、真宗系は善導大師、法然上人をお祀りしたり、お言葉を勤行でお読みすることはないのでしょうか? 同じ法然上人の流れなのに、真宗系は親鸞聖人の教えというイメージが強い様に思います。 派ごとに少しずつ違うかもしれませんが、ご教示いただけますと幸いです。
祖父母が浄土真宗です。叔父叔母も浄土真宗です。 昨年末祖父が亡くなりました。亡くなった理由に結構な影響を与えたと思われる人物が叔父、叔母です。 先日100か日法要が終わり、納骨堂に行きました。 そのお寺では線香に火をつける為にマッチとライターが置かれて居ますが、ライターが点火しませんでした。 マッチの燃えカス入れは無く、叔母が点火させたマッチの燃えカスをどうしようか叔父に話していた所、火をつけた線香を横に並べる器に入れればと言っていました。 お経の本の焼香の所は「を」が「お」になって居たり、納骨堂の仏像に御仏飯が備えられているのですが、明らかに乾燥しまくっている物でした。 浄土真宗では御仏飯はその日ごとに変えなくて良い物なのでしょうか? また、叔父がやろうとした燃えカスの件は浄土真宗では妥当なのですか? 私は燃えカスは完全に水に浸してから可燃物として処理しました。
ネットの他所でも投稿させて頂いており、マルチ投稿になってしまう事をお許し下さい(そのサイトでこちらを紹介して頂けました)。また場にそぐわない見当違いな投稿内容かも知れませんがその場合もお許し下さい。返答もこのサイトのシステムがよく分からないのですができる限りします。 <br> 母が他界→直葬で火葬直前に依頼した浄土真宗の僧侶さんに来て頂き短い読経を上げて頂く(お布施代3万包みました)(親戚関係者10人弱程度で見送りました)→地元のお墓に納骨した <br> で終わりのはずだったのですが、 <br> 県跨ぎの所に別居中の姉が母に戒名が無いのがいたく気に入らなかったらしく、持ち帰った遺骨で相談無しで姉の近場のお寺で母の戒名をして貰う(←父が同席していたので後で私が知った。戒名の大きい札のようなものも自宅にあります)→四十九日に私が依頼した住職さんにお墓の前で読経して欲しいとの事。 <br> 質問は ・この場合火葬前の読経はどういう扱いになるのか ・その読経をして頂いたお坊さん(住職さん)に再度依頼するのは失礼では無いのか。かなり憤慨されるようなことになってもおかしくないのではないか。別の浄土真宗のお寺に依頼した方が無難では無いのか。その場合宗教的にNGという事は無いのか。 <br> です。補足として、火葬のお坊さんとは家の距離も近く、お寺にも一度来訪しており今後も考えてあまり良くない感情を持たれたくないのです。 <br> ただ、県跨ぎの向こうの僧侶さんに着て頂くのはお車代や移動の負担を考えてやりにくいのも分かります。 <br> なので姉の方でこちらの地域の別の僧侶さんに依頼して貰ってはどうかと思ったのです。私が全く関与しないでやって貰った方がまだ筋が通るように思えるからです(姉に対しては怒りの感情はありません。戒名したいのならこちらに相談してくれればまだ良かったように思います。その方がまだ話の流れがある程度自然だったのでこちらのお寺にも相談しやすかったと思うからです)。 <br> なお姉が戒名したお寺は曹洞宗、20万円で戒名しています。
浄土宗です。 1,釈迦と阿弥陀如来はどのような関係なのでしょうか? 2、寺の本堂や家庭の仏壇に釈迦(釈迦如来)の像が無いのはなぜでしょう? 浄土宗出版の「毎日のおつとめ(日常勤行式?)」の四奉請には「・・・奉請 釈迦如来入場 散華楽 奉請 弥陀如来入場 散華楽・・・」とあります。 よろしくお願いいたします。
最近になり、死について深く考え始め、このままだと自分は無間地獄に落ちる身だと気づきました。それからというもの、生きるのが辛くなってしまい、座るのが辛くなってしまったり、ご飯を戻してしまったり、過去のトラウマの幻聴がずっと聞こえてきて泣くのをやめれなかったり、体調が悪くて学校に遅れて行く事が増えてしまいました。このままじゃ行けないとは本当に分かっています。死後が怖いからって今生きるのを諦めていけないのもわかっています。でも、浄土真宗に出会い、阿弥陀如来様の事を知れました。でもやはり疑蓋が外れません。どうしても疑ってしまうのです。阿弥陀如来様の救いはすぐ側にあるはずなのに、完全に信じることが出来ません。余計にがんじがらめになってしまいました。今ここで死んだら無間地獄に行くんだと思うと余計に焦ってしまう自分がいます。もう自分には無理なのかもしれないと思ってしまいます。もし皆様から疑蓋についてや浄土真宗の心構えなどあれば教えていただけると幸いです。
こんにちは。私は現在、浄土真宗の教義を勉強中の者です。 精神的に不安定な日が続いていましたが、お寺や仏教とのご縁ができたことで、少しずつ落ち着いてきました。家に仏壇はありませんが、基本的に1日2回、YouTubeのお坊さんの動画に合わせて、お正信偈と和讃をあげております。また、YouTubeでお説法に触れるなど、仏教のお勉強をしています。 ただ、最近は、「唱えなければならない」「お説法を聴かなければならない」というプレッシャーを感じ始めているような気がしています。それが少し自分を苦しくさせているような気もしています。 根底にあるのは、自分の完璧主義な性格ではないかと思っています。もう少し自分を許して、「唱える回数が減ることがあっても良い」「勉強できない日があっても良い」と思えたらいいなとは思ってはいますが、お勤めや勉強も自分の性格や実態に合わせたペースで大丈夫なのでしょうか。 何かお知恵をご教示頂けたらと思います。お願いします。
現世利益を求めることは卑しい事でしょうか 特に浄土真宗では
浄土三部経が偽経や非仏説と言われている事についてどう向き合えばいいでしょうか。 自分はこれで阿弥陀様の信心を失ってしまいました。 事実としてお釈迦様が直接説いたわけではないことは、「歴史的」には分かっているそうですし、それでもお釈迦様以外の仏様が説いたので仏説と言われていたりと、結局どれが真実なのか分からなくなってきました。 浄土宗や浄土真宗のお坊様はこの事についてどう思っているのですか? そしてどうやって信じているのでしょうか。 自分はこの事で信心をもらえそうにないです。 回答お願いいたします。 この前までは単純に阿弥陀様を信じられていませんでしたが今度は大乗非仏説で信じられなくなっしまいました。
ご覧いただきありがとうございます。 数日前から浄土の教えについて学び始めた者です。 先に質問を記載させていただきます。 1. 阿弥陀様や往生を疑う気持ちがわずかでも残っている場合、念仏しても往生できないのでしょうか? 2. 阿弥陀様や往生を疑う気持ちをなくしていくにはどういった心構えや方法があるのでしょうか? 3. もし、この疑う心について掘り下げた聖人の書物やお言葉等がありましたら、ご教示いただけないでしょうか? 以下、経緯等です。 今、法然上人の『選択本願念仏集』を読んでいる途中なのですが、往生するためには三心を具えなければならないと書かれていました。 この点について『一枚起請文』では次のように書かれているようで、疑念を持たずに信じることで自然に具わるとのことでした。 > ただし三心・四修と申もうすことの候は、皆決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候なり。 ただ、正直に申し上げますと、本当に心の底から阿弥陀様と往生を一切の疑いなく信じることは、現時点ではできそうにないと思っています。 徹底できるのであれば、それはもはや凡夫ではなく聖人だと思ってしまいます。 初めて真剣に「南無阿弥陀仏」と口にした時は、ふと心が軽くなり涙が出てきたので、阿弥陀様は「いらっしゃるかもしれない」と思えました。 ただ、それも最初だけの出来事ですし、「かもしれない」という程度で留まっていますし、これを確信であると自分を騙すのも無意味だと思われます。 また、念仏も熱心に唱えられるわけでなく、気が向いた時に小声で口にするような怠け者です。 これまで色々な思想を試してみましたが、「本当に素晴らしい考えだけど自分には徹底して行うのは到底無理だ」と挫折し続け、紆余曲折で浄土の教えにたどり着き、希望を持って学び始めました。 ただ、そこでも自分には難しいという現実に直面してしまいました。 『徒然草』には「疑ひながらも、念仏すれば、往生すとも言はれけり」との文があるようですが、これも本当にそう法然上人がおっしゃられたのかは不明で、これまた自分には信じ切ることができません。 自分では何もできないにもかかわらず、かといって何も信じ切ることや頼り切ることができず、どんなことも徹底できない自分が浮き彫りになり、絶望しています。 どうか、ご助力いただけますと幸いです。
極楽浄土は単に死後の世界なのか、生きていても到達できる心の境地のようなものなのか、どちらでしょうか? 概論的に言うと浄土宗鎮西派では死後の世界であると説き、西山派、浄土真宗、時宗、天台真盛宗では死というプロセスを経なくても到達できる心の境地であるように説いているように思えます。 鎮西派はおおらかさが売りで細部の解釈は個々人に任すようなところがあると言われますが、極楽浄土は心の境地であるという受け取り方をする人が鎮西派にもいるのか。 また、浄土宗と時宗の狭間にいる一向派などはこの辺りをどう説いているのか知りたいところです。
先日、当寺で報恩講を行いました。今年はコロナでずっと中止にしていたお斎を出しました。私としては初めての報恩講でのお斎だったので分からないことも多く大変でしたが門徒の女性の方に助けていただきながら何とか終えることができました。 終わってから前住職と前坊守にお手伝いに来ていただいた方には「白い靴下とエプロンを渡さないといけない、それが常識だ そんなのも分からないのか馬鹿者!」ときつくお叱り(怒鳴り)を受けました。なお他の行事でお斎を出したときはエプロン等は自前のを使っていただいています。 特に浄土真宗の僧侶の方にお尋ねいたしますが、報恩講のときは白いエプロンと靴下でお斎を作っていただくのが規則なのでしょうか?(いわゆるお葬式や法事のお手伝いという感覚なのでしょうか)事前の引継ぎもなく誰からも教えていただいていないので驚いたのと共に自分の常識のなさを恥ずかしく思います。
浄土宗のお葬式は故人を極楽浄土に送る儀式とあったんですけど、直葬にしたら成仏できなくるのですか? あるサイトには家族の気持ち次第って書いてあったり、またあるサイトには戒名、読経なしの直葬や炉前読経とかの短い読経だけでは成仏できないとハッキリ書いてありました。 やっぱりお葬式って重要で、やらなきゃ極楽往生も成仏もできないんでしょうか? なんだか物凄く不安なので回答よろしくお願いします。
以前質問して阿弥陀様はどんな人を救ってくれると聞いて安心していましたが、他の宗派があると知るうちに 「本当に阿弥陀様はいるのだろうか。」 と不安になってしまいました。 浄土宗、浄土真宗以外の宗派で「念仏をすれば阿弥陀様に救われる」と説いてはいないのでもしかしたら阿弥陀様はいないんじゃないか、と思いました。 それでも阿弥陀如来様を信仰?している宗派もあるので阿弥陀様はいるとしても、じゃあなぜ「念仏すれば救われるので念仏しましょう」と説かないのだろう? 阿弥陀如来様はいるが、念仏しても救わないのだろうか?と思いました。 宗派によって教えが違うので 阿弥陀様は存在しているのかと不安です。 阿弥陀様を信じようと思っても、 「でももしいないのなら自分は地獄行きだ…」と不安になり信じれないのです。 後半わかりづらいのでまとめます。 1宗派によって教えが違うのはなぜでしょう? 2今度こそ阿弥陀様におまかせしていいでしょうか。必ず極楽浄土へ行き成仏できるでしょうか。 回答お願いいたします。
浄土真宗本願寺派の門徒です。父の墓を建てるのですが、知人から石の囲いをした方がいいと言われました。ですが、建てる予定の墓地は田舎なので、どこも石囲いをしていません。また、広さに規定があるため、石囲いをすると石碑が、小さくなり、かなり見劣りします。数十年後には、家の近くに移したいとも思っているので、あまり小さくしたくありません。石囲いは必要でしょうか?
現在、病名は診断されていないのですが心療内科に通い、薬を処方されています。 時々急に不安が襲ってきてどうしようもなくなることがあります。 そんな時、神様などを信じている人たちは祈る対象があっていいなと思ってしまいます。 私自身、浄土真宗の幼稚園に通ったりキリスト系の高校に進学していたりと宗教は割と身近にあり、神様や仏様はほんとにいるのかなあと考えることもあります。 でも一方で、宗教というと新興宗教の勧誘とか事件を起こしたりとか人間を悪い方向に持っていってしまうのではないかと心配になります。 個人的には神様や仏様など心の拠り所がほしいなと思っています。 ちなみに母方の家系は浄土真宗だと聞きました。 こういうことをお坊さんたちはどうお考えなのでしょうか。
昨年義母が他界しました 我が家は次男ですが、毎日の先祖供養だけでもと水とお花、お線香などをお供えさせていただいております 実家は浄土宗です その際に、お経も読みたいと思っているのですが、経を読む順番が分からずに困っています(浄土勤行集は入手致しました) 現在は、開経偈、般若心経、阿弥陀経、南無阿弥陀仏、懺悔文の順番で読ませていただいておりますが、我流です 実家が遠方なもので、中々伺う機会もご縁も遠い状況です 仏さまに失礼のないような御供養をしたいと思っております 御教示下さると幸いです