浄土宗、浄土真宗の教義について質問させてください。ある本を読んでいたら浄土宗や浄土真宗の教義に良い事も悪い事も何もするなという教義があると書いてました。その本は宗教本ではないですが。本当にそういう教えがあるのでしょうか?あるとしたらなぜ良い事もしてはいけないのですか?お答えお願いいたします。批判、非難しているのではありません。
浄土真宗での水子供養の必要はないと、ネットで見ました。 中絶という事をしてしまいました。 自身の家が浄土真宗、大谷派です。法事等でお世話になっておりますお寺さんがいますが、聞く事は出来ません。 本当に、浄土真宗では水子供養の必要はないのでしょうか? また、他の宗派での水子供養をしてもいいのでしょうか? どうぞよろしくお願いいたします。 仏壇や、お墓に手を合わせる時は、必ずその子を思い南無阿弥陀仏と唱えております。
先日祖母が他界しました。故人は浄土真宗大谷派です。曽祖母の遠縁にこれまでお世話になっていましたが、住職の健康問題があり今回の葬儀も対応いただくことができず先行きがわからないこと、体調不良の以前からも車で40分ほどの距離の法要をお断りされていたこと、葬儀や法要の際に酩酊や二日酔いのような状態で途中で退席することがあり、今後お付き合いできるか不安な点が多々あります。 母(亡くなった祖母の娘)はこれまでのおてつぎのお寺に関係から、法名をお寺にお願いすることを躊躇っています。母は不安を要素があるお寺にお願いするなら、祖母の人柄を知った上でで「釋尼幸楽」としたいそうですが、またこの法名が問題ないのか心配だそうです。そもそも戒名についての前提知識がないのですが、お寺から「頂く」べきですか?そもそも故人の遺族が(宗派のルールについて調べた上で)法名をつけることはできるのでしょうか? また、これまでお世話になっていたお寺(曽祖母の関係者)から、曾祖父のお寺に変えたい、と母が希望しています。地区名(都道府県、市、地区名)はわかっているのですが、存命のものがおらずお寺の名前がわかりません。どうにかして見つけることは可能なのでしょうか?可能性のあるお寺に聞いてみることは可能なのでしょうか?
私の父方の宗派が浄土真宗です。私は浄土真宗の教えをよく、「これは心改めた死刑囚に対して最も有効な教えかもしれない」と思うことがあります。他の宗派では、仏性には思考・言葉・行動の全てが揃っていなくてはならないなら、せいぜい世界の幸福を祈るという「思考」しかできない檻の中の死刑囚に救いは無い…というような見捨てにも解釈できる説法をされたことがあります。私は身内に死刑囚が居るわけじゃないのですが、「心改めた檻の中の死刑囚でも罪を償う方法があるかどうか?」が、それが本物の宗教かどうかをジャッジできると本能的に予想したのだと思います。 さて、阿弥陀様はよく他の宗派では悪者扱いされています。「あのお方はあの世の管轄者だからこの世のことは救ってくれない、功徳も利益もない、阿弥陀様にすがることはただの来世に託した人生の諦めでしかない」などと言われます。 阿弥陀様は、この世でも大衆を救ってくださる方なのでしょうか? 無量寿経などの聖典にはなんと書いてあるのでしょう? 回答よろしくお願い申し上げます
初めまして 私は今福祉施設で働いているのですが、以前から仏様について学び深めそれを生きていく中で私も周りにも生かしていきたいと思っています。 働きながら学校へ行こうと考えましたが、浄土真宗大谷派はその中になく、何か教えていただける方がいらっしゃいましたらよろしくお願いいたします。
いつも私の独特な質問にお答えいただきありがとうございます。 大晦日の夜に仏様、ご先祖様に1年間のお礼と謝罪のために自分の部屋で(仏壇はありません)手を合わせようと思っていますが、不安なことがあります。 浄土真宗のサイトで「数珠を持たずに合掌をすることは仏様を手づかみにする失礼なこと」と書かれたものを読みました。 部屋で手を合わせる時にも毎回数珠が必要でしょうか? 私は独身で、実家(父方)は曹洞宗ですが母方の亡くなった祖父母は浄土真宗です。数珠の持ち方や念仏も違いますが、別々に手を合わせた方がいいでしょうか? 考えてみると、ご先祖様には曹洞宗や浄土真宗じゃないご先祖様もいらっしゃる・・・と思うと、どの宗派で数珠を持ち、どの念仏を唱えるのがいいのか、頭の中がごちゃごちゃになってしまいました。 また、仏様とご先祖様と亡くなった祖父母と、一度に手を合わせても失礼にはあたらないでしょうか? 不安な点が多くあり、たくさん質問してすみません。よろしくお願い致します。
お世話になります。 当方、浄土真宗になります。 先日、母が亡くなり、七日七日の中陰をしております。 それで一つお聞きしたのですが、今度、その中陰と数年前に亡くなった家族の命日が近いのですが、一緒に供養のお経をお願いする事は可能なのでしょうか? 回忌法要の年ではないので、中陰のみをして頂く方が良いのでしょうか? 宜しくお願い致します。
うまくいかない恋愛を前に常に間違える自分は相手を困らせ、自分も傷つくの繰り返しで、自分で判断するよりもまだいくらかよいか…と占いにはまって抜け出せなくおりました。(まだ抜けきってませんが。。) 恋愛に対して、よろしくないとか凶とかばかり出ていたのでしたが、それが念仏を唱えさせていただく契機になるのだから占いの上での人間的な欲望ベースの吉凶もあてにならないなと思えてまいりました。 悲しみ、不安、妬み、怒り、今はそうした感情が湧いてきたときに念仏を唱えさせていただきます。それから何もない時でもことあるごとに。 最近は、私につらく当たる上司も、報われず悲しい顔をしているあの人も、妬ましいと思ってしまった幸福そうなカップルも、馬鹿にして軽蔑してしまった人も皆、等しくともに極楽浄土へ向かい仏になるのだと思うとその方々の身の上にも念仏を唱えさせていただいている自分がおりました。 念仏をいただくとも阿弥陀様がもらすことなく私たちをお救い下さるというのになぜ、さらに勤行を重ねていらっしゃる方々がいるのかなんとなくわかった気がします。 この娑婆でこの私が今一歩、執着を離れ心穏やかに、(併せて周りの人も穏やかに)いられるためにもう一歩踏み込んでみたいと思っていますがまずなにをはじめたらよいでしょうか。 ただ、その行為自体にすがろうとか執着してしまうということは避けねばとは思います。 ちなみに、私の家自体は本家から離れ菩提寺もないのですが父方が大谷派、母方が本願寺派です。 (それにしても仏教は面白いですね。みんな根っこは同じでもお釈迦様の教えが多様に分かれていって、親鸞上人の教えもさらに多様に分かれていって。人の数だけ救われ方がある、のでしょうか?) ※すこしとりとめのない感じになってしまいすみません。
先日質問をさせて頂きました。 今回はお盆にあった事と、つい最近あった事についての質問です。 私は曹洞宗です。今年亡くなった祖母は禅宗から浄土真宗になりました。(祖父が浄土真宗だったからです) 祖母の新盆があり、お寺にお参りしてきました。 納骨堂には祖母の遺影を置いてきました。 広場でお経をあげられた後、お坊さんから精霊馬を置いている人は居ないかと聞かれ、皆さん手をあげず、私は自宅では飾って居ますが、手をあげませんでした。 その際、皆さんよく勉強されている、浄土真宗では飾らない、また、故人はお盆には帰ってこない、何故ならもう成仏しているから。と喜々として語られていました。 ちょっとショックでした。 確かに浄土真宗教義ではそうなのですが 言い方を変えると二度亡くなった感じに感じました。 曹洞宗の私は成仏した成仏してないに関わらず、お盆とはそう言う物だと思って居たからです。本来の教義からすると離れるのかもしれませんが、こちらから成仏した成仏してないの確認は出来ませんので、一律に帰ってくるものだと思うようにしていました。 正直今後宗派が違う祖母のお寺のお盆参りには行かない方が良いのかとすら悩みました。 先日祖母の月命日があり、お寺にてお経をあげてもらったそうです。こちらからお願いして頂いたそうです。祖母の納骨堂の前でお経を貰ったそうです。 既に成仏していると言う考えなのであれば、納骨堂の前でするのではなく、本堂の阿弥陀如来の仏像の前でするのではないのか?と思いました。 浄土真宗では納骨堂に意味があるのでしょうか?そこに居ないで阿弥陀如来に手を合わせるのであれば意味が無いのかと思ってしまいます。 そしてそのお寺では死後の菩提寺が無い人に対して浄土真宗になればうちのお寺で対応すると言うような手法を使われているそうなのですが、こういう事は良くあることなのでしょうか? あまり祖父母が浄土真宗としてのお参りなどをこれまでしてきていなかった事と、子供の頃から曹洞宗のお盆で慣れて居た事もあり、面食らって居ます。
最近、家族を亡くして仏教の本を読むようになりました。 浄土真宗では、浄土へ往生すると、またこの世へ戻り人々を救うとあります。 浄土へ往生できても、また苦しいこの世へ生まれ変わるのでは、救われた気がしません。還相が、前世で学べなかったことへの機会が与えられる慈悲ということでしょうか。また、現世に戻って生きるなかで、ある人にとっては、私の行動が救いになるということでしょうか。
私は浄土真宗の檀家です。しかしいくらか私のしている霊的ワークと食い違う面があるようなのです。 1 毎日全ての命が永遠に幸せに暮らせる浄土の到来を1日何十回と祈る →浄土真宗に祈りの習慣は無い 2 敬愛する阿弥陀さまを参拝する →「阿弥陀如来なんて死後しか助けてくれないから自分の死期を早めるだけだよ」と言う人が居る(主に創○学○など) 3 信徒として、マントラでもお題目でもいいから何か功徳を積みたい(「見返り無く人を愛することは当たり前」というポリシーが強いて言えばそれらしきものです) →「ただ阿弥陀さまを信じるだけで浄土に永住できるから何もしなくていいんだよ」と、キリスト教の一部のプロテスタントのような意見がある (浄土永住に向けた生きる道での修練を知りたい) 4 仏壇の仏像には曹洞宗のお坊さんに開眼供養してもらった →浄土真宗に開眼供養は無い ↑それじゃただのインテリアになってしまうのでは… これらについて深掘り解説をお願い致します。ここまで読んでくださった方も永遠に幸福でありますように
浄土真宗の考え方で好きなものに 倶会一処というものがあります。 若くして父が亡くなって悲しむ母に、父とはお浄土でまた会えるよと伝えてあげたいのですが 浄土では仏になる、(煩悩をなくす)修行?をしているのだと聞きました。 そこで質問なのですが浄土にいったものに、 好きだった人という感情は、 父は母、母は父に会えたという感情は存在するのでしょうか? そんなドラマみたいな話、と思われるかもしれませんが頭で思い描いえがいてるような またあえたね!というような再会ができるのかが とても気になっています。 お答え下さると嬉しいです。 よろしくお願いします
当方、浄土真宗です。 今度、お寺の合同墓に納骨して頂ける事になりました。 規約を見ると「永代納骨冥加金」とありました。 それでお聞きしたいのが、そのお金をお渡しする際の封筒と表書きは何にしたら良いのでしょうか? 白い無地の封筒に上段に「冥加金」、下段にフルネームでしょうか? また、それは申込書と一緒に先にお持ちする事になっているのですが、納骨をして頂く日は、別途『御布施』を用意するものなのでしょうか? その場合も白の無地の封筒でしょうか? 色々調べてもはっきりと分かるものはありませんでした。 冥加料で、黄色の水引に「御布施」もあれば、無地の封筒に「御布施」もあったり、よく分かりませんでした。 無知な自分なので、出来るだけ失礼のない様にしたいと思っていたところ、こちらを見つけ、ご質問させて頂きました。 どうぞ宜しくお願い致します。
私は浄土真宗では無いのですが、今回母方の祖母が亡くなりました。お西さんでした。考え方と葬式での話になるのですがご了承ください。 浄土真宗では亡くなった後すぐに仏になるとありました。 そうすると、棺に手紙などを入れても結局遺族の自己満足で終わると言う事なのでしょうか。(冷たく考えればどの宗派でもそうなってしまうのかもしれませんが) 49日や各七日の考えも、故人の為ではないと言う事なのでしょうか? 私は父方が曹洞宗で子供の頃に習った話だと、こう言った法要は故人のためだったはずなのです。子供の頃の記憶なので完全に間違ってるかもしれませんが。 祖母にはとても愛されて居ましたし、私も大好きな祖母です。 祖母の為には何をしてあげれるのかと思うとちょっとわからなくなってきました。 今年は新盆ですが、お供えを故人の事を思って選んだ方が良いのか、適当で良いのか・・・ 私としては故人の事を思って選びたく思うのです。 また、納棺の際に他の遺族の連れ合いが壁に寄りかかりながら腕を組んで参加していたりしたのですが、お坊さん的にはこれってありなのでしょうか。 その連れ合いはまだ若いです。最近結婚したばかりなので、祖母ともそこまで面識がありません。 私からすると参加するのであればちゃんとした態度で参加した方が良いですし、そこまで人から見える場所に居る立場ではないとはいえそう言う事はやらない方が良いと思います。 これが母や叔母が憔悴しきって居てならまだ分かりますが、当日来たばかりで憔悴するような立場ではない人間なのです。 こうあるべきと言う考えが強いのかもしれませんが、ちょっと腑に落ちないのです。
浄土真宗の一部のお寺では、悩み事相談や自殺対策をされているさまですが、そのお寺に悩み事を解決し、前に進みたいと思いました。それで相談したのですが、阿弥陀如来様は救わない時がある、お断りする、自殺を勧められ警察に仲裁をして頂く、頭がおかしいんじゃないか、精神科へ行け、本願寺に行け、など、ショックを受けました。お陰で体力を失い、我が家もソーシャル・ディスタンスの孤独な最中、近々、法要を控えていましたが、取りやめる事にしました。浄土真宗が怖くなりました。他の宗派のお寺様に、オンラインで相談可能なところを探している最中です。そして、色々目処がつきましたら、我が家の宗派も浄土真宗から他の宗派に変えようかと思いました。よろしくおねがいします。
浄土真宗本願寺派の門徒ですが、まだ両親は健在で年に数回、お坊さんに月命日のお参りに来てもらっていますが、両親がお寺に参ることはしません。当然、永代経法要にも参ったことがなく御懇志も奉納したことがありません。 そんな状況で、息子である私が永代経法要にご聴聞しに参ってもいいのでしょうか? 又、その際私が御懇志を奉納しなければならないのでしょうか?
私は阿弥陀如来様が大好きです。 毎日救っていただくことへの感謝として念仏を唱えています。ハスノハでもたくさんの問答を見るのが楽しみです。 ところが、先日、ハスノハで真宗のお坊様が「極楽浄土があると信じていない」人への解答で、「阿弥陀如来様や浄土というのは働きのことで、実際亡くなった人が浄土という場所で生まれ変わるということではないのだろう。だから浄土とはこの世での働きのことで、死後の世界としてあるわけではないと思う」「仏様というおとぎ話を使って今生での安寧を得るのだ。だから阿弥陀如来様が実在するか否かはどうでもよい」「自分も科学的に極楽浄土の世界は懐疑的」 という旨のことを仰っているのを拝見しました。一人ではなく何人かのお坊様がそういったことを仰っているのを見ました。 誤解していただきたくないのですが私はハスノハのお坊様方のことを尊敬しております。ですが少なからずショックでした。私は今生で死んだら、阿弥陀さまに迎えに来ていただいて極楽浄土に生まれ、そこで仏となる修行をできることを嬉しく思っていたからです。 また、何があっても阿弥陀如来さまがいつも一緒にいてくださることが喜びであり、心の支えです。 法話を聞いたりしていると、「阿弥陀如来様という素晴らしい仏様がいらっしゃる(=阿弥陀如来は実在する)」「死んだら極楽浄土にいき仏になる(=極楽浄土は実在する)」とお経も親鸞様もハッキリ仰っているように思います。 阿弥陀如来様や極楽浄土の存在を確信するのが、浄土真宗ではないのですか? 私が、元はキリスト教を学んでいたこともあって、阿弥陀如来様や極楽浄土への解釈が違うのではないかと不安です。 (極楽浄土と天国は、極楽浄土は阿弥陀如来様の国(他の仏様もそれぞれ浄土をもっていらっしゃる)。という違いだと理解しています) 私はこれからも阿弥陀様といつも一緒だと思っていても良いですか?
僕は真宗徒なのですが、法義が薄い土地なので、周りには真宗の人は誰もいません。 そこで質問なんですが、現代日本でぶっちゃけどれぐらいの人が信心決定してるんでしょうか?体感で教えてくださると助かります お坊さんも信じてないみたいな話も聞きますが… ちなみに僕は信心頂いてます
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