現在、様々な宗派を学んでいるのですが、浄土宗・浄土真宗における還相回向とは、往生の後再び肉体を帯び菩薩として衆生を導くことなのか、往生の後仏となり肉体を帯びずに衆生救済の働きをすることなのでしょうか? ご教授頂けると幸いです。
母親が熱狂的なキリスト教徒で、小さい頃から、洗脳を受けてきました。神仏の存在は信じますが、キリスト教はもう信じてないです。仏様がよく、夢に出てきて、いろいろ慰めてくださる夢をよく見るので、亡くなった祖父の影響もあり、仏教に入りたいです。父親も仏教ですが、母親に合わせて、キリスト教の教会に通っていて、浄土真宗との二重です。父親の信仰自体は浄土真宗なのですが、昔は、父親も信仰があまりなく、悪い人だったので、私も、だいぶ、酷い目に遭いました。母親からメンタル的にも、身体的にも、虐待された、6年前に、一時的に私が不穏になった事があり、精神科のクリニックに行ったところ、精神科の勤務医として、6年ほどしか、大きい病院では、勤務せず、すぐにクリニックを開業していた、口の上手い先生で、私に統合失調症と診断し、それが、一人歩きしてしまい、他の病院でも、そこの医院からの紹介状のせいで、なかなか覆らず、合わない薬ばかりで、しんどい想いをしました。今のクリニックでは、ちゃんとしたお医者さんだったので、虐待によるPTSDと、もともとの双極性障害で、不穏になっていただけで、双極性障害の薬をしばらく飲んだら、治ると言われました。また、キリスト教でなく、仏教に変わったことがとても良かったと言われました。前の誤診の時も、母親がついてきていて、私の症状も、あること無いこと言っていたので、致し方ないのですが、6年も身体がしんどかったので、とても残念でした。仏教は、信徒を集めるために、奇跡を語ったり、祈らせたりして、叶わなかったら、本当に救いにならなかったからだと言われたりしないことが、凄い良いです。もともと、キリスト教の教会の方も、カトリックだったので、聖職者は一生独身の決まりがあり、なり手が集まりにくく、母親に言われて通っている私(通わなかったら、怒鳴られたり、殴られたりするので)を、シスターにしようとする、高齢者が多くて(教会に信者の納骨堂があり、そこの世話をするシスターが必要なので)、私が狙われたというのもあります。私は、シスターになる年齢制限を超えたみたいで、高齢者の信者が話しかけて来なくなったので、やっと自由になりました。浄土宗のお寺に通いたいのですが、関西圏内で近くにある良いお寺ありますか?2年半後、1人で関東に引っ越しするので、在籍は2年半で、それから、関東のお寺に移ります。
かつて人生の一時期、真宗寺院(お東)での聞法会に御縁を頂いたものであります。その際、阿弥陀様や祖先にお願いごとをしてはいけない、という御教導を蒙りました。それから歳月は流れ、今も仏教を信じてはおりますが、真宗に関しては結局、帰敬式を受けることなく、いわば「ひとり仏教」の形であります。数年前、父を喪い、はじめて仏壇を購入しましたが、上記の御教導が強く脳裡に残り、父へも祖先へも仏さまへも願い事はするまい、と強くおのれを戒めております。でも正直なところ、老いゆく母に安らかな晩年を…と願う思いが日ましに強まっております。いったいどうしたらよいものでしょうか。
配偶者側の親族で不幸が2年続けて向こうの宗派(浄土宗)の法事に参加してきましたが、自分は違う宗派(天台宗)で割と丁寧に細かく仏事をしてきたのであまりの簡素さに驚いた上、お坊さんにかなりの嫌悪感が湧いたので愚痴にならない様に気をつけますが相談させて下さい。 ・ご高齢(80)なのはわかりますが、毎度疲れた疲れた疲れたを連呼、「みなさんもおつかれでしょうから今日は〇〇(例:懴悔文などまとまり)はしませんから」とあたかもこちらの為のようにお経を省略(回を重ねるごとにどんどん短くなっていく) ・坊さんの送迎者にの2人きりの密室では法事に関する愚痴と嫌味を必ず言う ・ご子息の修行に連れてこられたこともありますがお坊さん1人分のギャラをしっかり取る ・家で葬儀、また田舎の村のため出棺の際に村中の方が黒装束をきて合掌してくださるのですが、鬱陶しいから目に入れたくないので窓を閉めろと言う 私の実家側でお世話になっているお寺のご住職の先代さんも現役さんも修行僧さんもそれは謙虚で有難く、尊敬させていただいているのですが、配偶者側のお寺には不信感と嫌悪感しかありません。 自分も将来配偶者側の宗派で…と思ったら本当に嫌でたまりません。 愚痴や嫌味はいつも送迎している喪主の方が 本当にストレスがたまって気の毒ですし しっかり修行させていないのか結局ご子息に継げずいつまでもお父様がお勤めされていますがこの親にしてこの子ありなのか。 合掌を鬱陶しいとはどういうことなのか。 早く帰りたい、疲れたばかりおっしゃってるのも良い気持ちにはなりません。 お経の省略が1番腹が立ちます。 自分のとこは故人のための勤めだとおもってますので本当にやるせないです。そもそもお布施もしっかりお支払いしていますのでその分はお勤めをお願いしたいです。 この寺や坊さんを指導や通報できるところはありますか? 自分の代の時はお寺を改める方向で親族に話が出来たとしても 【今の現状を"マシ"にすることや改善はできないのでしょうか?】 これからまだ忌明け初盆1周忌が待っていて憂鬱です。
救いを求めて、今年の1月から浄土真宗の勉強を続けて来ました。毎日、お勤めをしたり、お聴聞をしたり、お寺に通ったりしてきました。毎日お念仏を頂いてきました。半年がたった今、少しずつ「有難い」と思う時間が増えております。しかし、なかなか自分に集中することができないのが悩みです。正式な診断を受けた訳ではありませんが、恋愛依存症のような傾向があって、苦しくなることが度々あります。(今度、精神科を受診する予定です。)他人のことではなく、もっと自分の人生に集中したいし、全身で救いを感じたいというのが本音です。 そこで、姿勢を正して、呼吸を整えるのはどうかと考えました。自分の姿勢を整え、吐く息、吸う息に集中すれば、おのずと自分に集中できるようになるのではないかと思ったからです。また、姿勢や呼吸を整えると身体と心に良いとも聴きました。 ただ、ひとつ懸念があります。私は浄土真宗の門徒です。今のところ、禅宗に改宗する気はありません。浄土真宗の門徒が坐禅をしても大丈夫でしょうか。浄土真宗の御教えの中にはないことをするので、少し不安があります。…ご教授頂けますと幸いです。よろしくお願いいたします。
私は4歳のときに父を亡くしています。私の実家は浄土真宗大谷派を信じています。 今夫婦で住んでいる家には小さい遺影写真があり、飾ってあります。遺影が置いてあるだけなので、位牌などはなく、お仏壇もありません。 父を想っている気持ちが伝わればいいなと思い、浄土真宗大谷派の読経をしたいんですが(読経をすると気持ちがスッキリする感じがするという理由もあるのですが)、お仏壇や位牌がない場所の遺影の前で読経はやっていいのでしょうか? ちなみに読むお経は正信偈なのですが、ほかにも読むといいお経はありますか?
浄土真宗の門徒です(大谷派)。菩提寺のご住職が法要で「人は死んでから7日毎に生を受ける」「早ければ二七日、遅くとも四十九日には次の生を受ける」「そして浄土にお進みになる」と仰っていました。(きちんと理解できていないので厳密には違うかもしれませんが…) 少しかじった程度の自分の記憶では人は亡くなったらその場で成仏する(浄土にお生まれになる)、浄土真宗において霊魂の概念はない(なのでお盆には帰ってこずお盆はお救いくださる阿弥陀様に感謝をする日)、なので生まれ変わりもないと思っていましたが、聞いた感じだと自分の認識が違うようです。浄土真宗においての生まれ変わり、もしくは死後はどう考えられているのでしょうか。ご教授いただきたくよろしくお願いいたします。
浄土真宗(大谷派)について勉強を続けている者です。浄土真宗で得度や教師資格取得に挑戦したいのですが、所属寺をどう探せばいいのか分からず困っています。(家は代々臨済宗です)教えていただきたいです。
亡くなった夫は次男で、夫の実家は浄土真宗です。 夫の実家は飛行機で行く程の遠距離です。 夫の生前中、一緒に高野山へ行き 感動して、私達は真言宗になりましょうと2人で決めておりました。 なので、夫が亡くなった際の戒名もお経も真言宗です。 その事を友人に話したら、次男であろうと夫の実家の宗派と同じにするんだよと言われました。 最近、仏壇を購入しました。 仏壇内には真言宗の掛け軸も揃えたので、後は魂入れをしてもらうだけです。 当然、真言宗のお坊さんに魂入れをお願いしようと思っています。 夫の実家の宗派とは違う宗派って駄目なんでしょうか? ちなみに、私の実家の宗派は真言宗です。
いつも回答頂きありがとうございます。日蓮宗の檀家です。 4月28日に菩提寺の立教開宗、御施餓鬼法要に参加する予定です。 菩提寺に御供も持参したいのですが、何がよろしいでしょうか。 お盆の時期には自宅の精霊棚にお米とキュウリを賽の目に切ったものを御供えしましたが、今回は御寺様で、また立教開宗も兼ねているので、と思った次第です。 飲み物や果物、または参列者の方々にも配って頂けるような個装のお菓子などでしょうか。 僧侶皆さまのお立場から、これが良さそう、もしくは適さないものなど、ご意見頂きたくよろしくお願いします。
宗派が色々あることで、どうしても救われない気持ちになります。それぞれ宗派が違って、宗派によって違う念仏もあると思います。僕の実家(父方)は浄土宗で南無阿弥陀仏と言います。でも、母方の実家は宗派が違います。ですので、別の念仏をとなえます。浄土宗では、南無阿弥陀仏というものは極楽往生するという考えがあり、倶会一処という考えもあります。僕はこの教えがこの世での、唯一の心の拠り所です。ただ、母方の実家の宗派が違うということだけが気掛かりなのです。宗派が違うということは、となえる念仏は当然、違ってきます。つまり、僕は母方の祖父、祖母と再会できないということになると思うのです。その不安ばかり募って、勇逸あった拠り所もなくなりそうで凄く怖いです。
法然上人の直弟子の流れの宗派として現在、浄土宗(浄土宗も鎮西、証空の流れと捉える事ができると思います。)と真宗系があります。 しかし、浄土宗では、善導大師の著作も法然上人のお言葉もよく拝読し、両大師を仏壇でお祀りしておりますが、真宗系(全派までは分からないですが)では、親鸞聖人の著作を拝読し、親鸞聖人、蓮如聖人をお祀りしております。 そこで疑問なのですが、真宗系は善導大師、法然上人をお祀りしたり、お言葉を勤行でお読みすることはないのでしょうか? 同じ法然上人の流れなのに、真宗系は親鸞聖人の教えというイメージが強い様に思います。 派ごとに少しずつ違うかもしれませんが、ご教示いただけますと幸いです。
祖父母が浄土真宗です。叔父叔母も浄土真宗です。 昨年末祖父が亡くなりました。亡くなった理由に結構な影響を与えたと思われる人物が叔父、叔母です。 先日100か日法要が終わり、納骨堂に行きました。 そのお寺では線香に火をつける為にマッチとライターが置かれて居ますが、ライターが点火しませんでした。 マッチの燃えカス入れは無く、叔母が点火させたマッチの燃えカスをどうしようか叔父に話していた所、火をつけた線香を横に並べる器に入れればと言っていました。 お経の本の焼香の所は「を」が「お」になって居たり、納骨堂の仏像に御仏飯が備えられているのですが、明らかに乾燥しまくっている物でした。 浄土真宗では御仏飯はその日ごとに変えなくて良い物なのでしょうか? また、叔父がやろうとした燃えカスの件は浄土真宗では妥当なのですか? 私は燃えカスは完全に水に浸してから可燃物として処理しました。
ネットの他所でも投稿させて頂いており、マルチ投稿になってしまう事をお許し下さい(そのサイトでこちらを紹介して頂けました)。また場にそぐわない見当違いな投稿内容かも知れませんがその場合もお許し下さい。返答もこのサイトのシステムがよく分からないのですができる限りします。 <br> 母が他界→直葬で火葬直前に依頼した浄土真宗の僧侶さんに来て頂き短い読経を上げて頂く(お布施代3万包みました)(親戚関係者10人弱程度で見送りました)→地元のお墓に納骨した <br> で終わりのはずだったのですが、 <br> 県跨ぎの所に別居中の姉が母に戒名が無いのがいたく気に入らなかったらしく、持ち帰った遺骨で相談無しで姉の近場のお寺で母の戒名をして貰う(←父が同席していたので後で私が知った。戒名の大きい札のようなものも自宅にあります)→四十九日に私が依頼した住職さんにお墓の前で読経して欲しいとの事。 <br> 質問は ・この場合火葬前の読経はどういう扱いになるのか ・その読経をして頂いたお坊さん(住職さん)に再度依頼するのは失礼では無いのか。かなり憤慨されるようなことになってもおかしくないのではないか。別の浄土真宗のお寺に依頼した方が無難では無いのか。その場合宗教的にNGという事は無いのか。 <br> です。補足として、火葬のお坊さんとは家の距離も近く、お寺にも一度来訪しており今後も考えてあまり良くない感情を持たれたくないのです。 <br> ただ、県跨ぎの向こうの僧侶さんに着て頂くのはお車代や移動の負担を考えてやりにくいのも分かります。 <br> なので姉の方でこちらの地域の別の僧侶さんに依頼して貰ってはどうかと思ったのです。私が全く関与しないでやって貰った方がまだ筋が通るように思えるからです(姉に対しては怒りの感情はありません。戒名したいのならこちらに相談してくれればまだ良かったように思います。その方がまだ話の流れがある程度自然だったのでこちらのお寺にも相談しやすかったと思うからです)。 <br> なお姉が戒名したお寺は曹洞宗、20万円で戒名しています。
浄土宗です。 1,釈迦と阿弥陀如来はどのような関係なのでしょうか? 2、寺の本堂や家庭の仏壇に釈迦(釈迦如来)の像が無いのはなぜでしょう? 浄土宗出版の「毎日のおつとめ(日常勤行式?)」の四奉請には「・・・奉請 釈迦如来入場 散華楽 奉請 弥陀如来入場 散華楽・・・」とあります。 よろしくお願いいたします。
最近になり、死について深く考え始め、このままだと自分は無間地獄に落ちる身だと気づきました。それからというもの、生きるのが辛くなってしまい、座るのが辛くなってしまったり、ご飯を戻してしまったり、過去のトラウマの幻聴がずっと聞こえてきて泣くのをやめれなかったり、体調が悪くて学校に遅れて行く事が増えてしまいました。このままじゃ行けないとは本当に分かっています。死後が怖いからって今生きるのを諦めていけないのもわかっています。でも、浄土真宗に出会い、阿弥陀如来様の事を知れました。でもやはり疑蓋が外れません。どうしても疑ってしまうのです。阿弥陀如来様の救いはすぐ側にあるはずなのに、完全に信じることが出来ません。余計にがんじがらめになってしまいました。今ここで死んだら無間地獄に行くんだと思うと余計に焦ってしまう自分がいます。もう自分には無理なのかもしれないと思ってしまいます。もし皆様から疑蓋についてや浄土真宗の心構えなどあれば教えていただけると幸いです。
こんにちは。私は現在、浄土真宗の教義を勉強中の者です。 精神的に不安定な日が続いていましたが、お寺や仏教とのご縁ができたことで、少しずつ落ち着いてきました。家に仏壇はありませんが、基本的に1日2回、YouTubeのお坊さんの動画に合わせて、お正信偈と和讃をあげております。また、YouTubeでお説法に触れるなど、仏教のお勉強をしています。 ただ、最近は、「唱えなければならない」「お説法を聴かなければならない」というプレッシャーを感じ始めているような気がしています。それが少し自分を苦しくさせているような気もしています。 根底にあるのは、自分の完璧主義な性格ではないかと思っています。もう少し自分を許して、「唱える回数が減ることがあっても良い」「勉強できない日があっても良い」と思えたらいいなとは思ってはいますが、お勤めや勉強も自分の性格や実態に合わせたペースで大丈夫なのでしょうか。 何かお知恵をご教示頂けたらと思います。お願いします。
現世利益を求めることは卑しい事でしょうか 特に浄土真宗では
浄土三部経が偽経や非仏説と言われている事についてどう向き合えばいいでしょうか。 自分はこれで阿弥陀様の信心を失ってしまいました。 事実としてお釈迦様が直接説いたわけではないことは、「歴史的」には分かっているそうですし、それでもお釈迦様以外の仏様が説いたので仏説と言われていたりと、結局どれが真実なのか分からなくなってきました。 浄土宗や浄土真宗のお坊様はこの事についてどう思っているのですか? そしてどうやって信じているのでしょうか。 自分はこの事で信心をもらえそうにないです。 回答お願いいたします。 この前までは単純に阿弥陀様を信じられていませんでしたが今度は大乗非仏説で信じられなくなっしまいました。
ご覧いただきありがとうございます。 数日前から浄土の教えについて学び始めた者です。 先に質問を記載させていただきます。 1. 阿弥陀様や往生を疑う気持ちがわずかでも残っている場合、念仏しても往生できないのでしょうか? 2. 阿弥陀様や往生を疑う気持ちをなくしていくにはどういった心構えや方法があるのでしょうか? 3. もし、この疑う心について掘り下げた聖人の書物やお言葉等がありましたら、ご教示いただけないでしょうか? 以下、経緯等です。 今、法然上人の『選択本願念仏集』を読んでいる途中なのですが、往生するためには三心を具えなければならないと書かれていました。 この点について『一枚起請文』では次のように書かれているようで、疑念を持たずに信じることで自然に具わるとのことでした。 > ただし三心・四修と申もうすことの候は、皆決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候なり。 ただ、正直に申し上げますと、本当に心の底から阿弥陀様と往生を一切の疑いなく信じることは、現時点ではできそうにないと思っています。 徹底できるのであれば、それはもはや凡夫ではなく聖人だと思ってしまいます。 初めて真剣に「南無阿弥陀仏」と口にした時は、ふと心が軽くなり涙が出てきたので、阿弥陀様は「いらっしゃるかもしれない」と思えました。 ただ、それも最初だけの出来事ですし、「かもしれない」という程度で留まっていますし、これを確信であると自分を騙すのも無意味だと思われます。 また、念仏も熱心に唱えられるわけでなく、気が向いた時に小声で口にするような怠け者です。 これまで色々な思想を試してみましたが、「本当に素晴らしい考えだけど自分には徹底して行うのは到底無理だ」と挫折し続け、紆余曲折で浄土の教えにたどり着き、希望を持って学び始めました。 ただ、そこでも自分には難しいという現実に直面してしまいました。 『徒然草』には「疑ひながらも、念仏すれば、往生すとも言はれけり」との文があるようですが、これも本当にそう法然上人がおっしゃられたのかは不明で、これまた自分には信じ切ることができません。 自分では何もできないにもかかわらず、かといって何も信じ切ることや頼り切ることができず、どんなことも徹底できない自分が浮き彫りになり、絶望しています。 どうか、ご助力いただけますと幸いです。