仏教が好きです。 お浄土や浄土宗、浄土真宗の教えに詳しくないのですが、お浄土に行けば逢いたい人に逢えるとは本当なんでしょうか? 人間なら誰しも逢いたい人はいると思いますが、誰もが寿命を全うしたら、逢いたい人に逢えるなんて有難い教えですね。 お浄土についてもっと知りたいのですが、お浄土って一体どんなところだと云われているのですか? それから、お浄土に行くにはどうすれば良いですか?生前の行いが評価されるのですか? 質問がたくさんあって申し訳ありません。 初歩的な質問ですが、お坊さまのご見解をお尋ねしたいとおもいまして質問させていただきました。 宜しくお願い致します。
大切な方が亡くなりました。 これは宗派によって考え方も違うと思いますが、禅宗の和尚さんにお参りをしてもらいました。 四十九日を終えて、六道に生まれ変わったと言ってみえました。 六道に生まれ変わった、六道の中には人間界もあって、どこかに生まれ変わっているのでしょうか? 空から見守ってもらっている?と思っていたら違うのでしょうか? お盆や何回忌に追善供養をするというのは、地獄にいる前提なのでしょうか?人間界に生まれ変わっていたら、人間界に生まれ変わった誰かに追善のお経がとどいている。ということでしょうか?
夜遅く申し訳ございません。 僕は今年26歳になります。浄土宗総本山知恩院おてつぎ運動にも参加しています。 毎日勤行は行っています。 家族親族にいつも言われるのは、なぜそこまで若いのに仏教に興味あるのか、仏教を信仰するのは年老いてからだと。 信仰の自由を知らないんですかね。歳が何歳でも、仏教、浄土宗の教えを信仰してもいいですよね。 なぜ浄土宗かといいますと、出身の高校が浄土宗系の高校であったため、浄土宗の授業がありまして、そこで興味を持ちました。 心理の学校の先生でも、融通念仏宗の僧侶をされながらカウンセラーをされておられる方がいらっしゃいます。 その先生とはすごくお話していて面白いのでいつもお話をしているんですが、僕がこの歳で仏教信仰するのはおかしいですか、と尋ねたところ、驚いてはいらっしゃいましたが、すごく受容してくださり、こちらとしては嬉しいという答えをもらえました。 しかし、まだ自分の中にはほんとにいいのかなという気持ちがあります。ひとりで法然上人二十五霊場の寺院を訪れ、参拝し、御朱印をいただくのが好きなんですが、やはりそこらへ行けば周りの目が気になります。 なんで若いのにここに来てるの、という目線を感じます。 最後に、この歳で自ら菩提寺を探し、浄土宗の教えを信仰することはおかしいことでしょうか。 長文、ご拝読ありがとうございました。 合掌
こんにちは。僕は浄土真宗を学ばせてもらっている者です。 二つの疑問があるのですが、お答えいただけると有難いです。 1,僕はよく称えたいと思った時に「なんまんだぶつ(そのまま救うぞ)」と呼び掛けてくださる阿弥陀仏のお声を聞き、「なんまんだぶつ(ありがとうございます)」と御恩報謝のお念仏を称えさせていただいていますが、浄土真宗のお坊さんは浄土宗のように朝(晩)何分と決めてお念仏を称えているのですか? 2,「考えない練習」などの著者の、元浄土真宗本願寺派のお坊さんであった小池龍之介さんという方がいるのですが、その方はヴィパッサナー瞑想を行ったことにより、僧籍を剥奪されたようなのですが、どう思いますか? 僕自身、hspという気質をもっていて、ストレス解消を目的として瞑想を行っているのです。呼吸や自律神経も安定し、とても素晴らしいと思うのですが、瞑想=自力であり、阿弥陀仏を疑っている、即ち「救われない」という思考になる方々がいるようです。 こういう方々は本願を聞き間違えているように思うのです。 瞑想を行えば救われないのではなく、「瞑想を行えば救われない」と考えるのが自力だと僕は理解しています。 阿弥陀仏の本願は「報恩念仏を称える者を救う」というものですよね。「瞑想を行えば救われない」なんて一言も書いていませんし、本願の内容を勝手に書き換えてしまっているのが問題だと思うのです。 正直僕が瞑想をしていることもあり、自分の行動を正当化したいという気持ちがあるのも事実ですが、瞑想を行うだけで僧籍を剥奪されるのかと、心底驚いて質問させていただきました。 二つ目の疑問が強調してしまいましたが、一つ目の疑問もとても重要なので、回答していただけると有難いです。
浄土真宗について勉強しています。が、少々わからないことがあり、質問させていただきます。 諸法が無我であることを鑑みると、阿弥陀仏や極楽浄土も我ではなく実体的な本質を持たないということになるような気がしたんですが、お寺で聞くお坊さんがのお話からはあまりそういった印象を受けません。この点は、僧侶の方々はどのように理解されてらっしゃるのかお聞かせ願えたら幸いです。 唯信鈔文意や自然法爾章にそれに近いことが書いてありましたが、やはりお寺できく阿弥陀仏の救いの話とは若干の距離感を感じます。やはり阿弥陀仏や極楽は実体として捉えるのが主流なのでしょうか。
こんにちは。浄土真宗を学んでいる者です。僕はこれまで阿頼耶識というのは無意識のことだと理解していましたが、どうやら無意識は「意識」のカテゴリーに入るみたいですね。では魂なのかと考えましたが、魂は我の絶対化なので諸法無我という考えに反しています。そこで、ある本を見つけ阿頼耶識というものは「業を保管する意識だ」という記述を見つけました。しかも、業というのは永遠不滅だということですが、一体どういうことなんでしょう?魂と何が違うのか分かりません。永遠不滅というのも、諸法無我の法則に反してはいないのでしょうか?どなたかとても分かりやすく解説お願い致します。
歎異抄を読んで、他力でありたいと思うのですが、同時に生活していく中での恐怖や不安もあります。 この恐怖や不安を克服する方法を教えて頂けませんでしょうか?
こんにちは。僕はこれまで浄土真宗の道を求め続けてきました。 そして、ある日ふと、俺って何も分からないな。と感じました。ソクラテスの無知の知ではありませんが、実際、浄土は何か分からない。死後のことなのかもしれないし、真理のはたらきのことなのかもしれない。ブッダが生きていたら答え合わせもできるだろうが、もういない。 だとしたら僕がいくら輪廻や浄土を解釈したとしても、分かったつもりになって終わりだと気付きました。 輪廻という概念も精神世界と解釈する人もいますし、方便と解釈する人もいます。しかし、本当に死後の世界だったら?という不安がどうしても拭えない。 僕には何も分からない。分からないものは分からない。そして、南無阿弥陀仏という呼び声を思い出しました。阿弥陀仏はどんな劣った衆生も救うと誓っている。 だとしたら、僕が今いくら仏教の教えを理解しようとしても、知識欲を満たすだけのことです。しかも分かったつもりになっているだけです。 そこで気付きました。阿弥陀仏は「そのままでいい」と呼び掛けていたんだと。「そのまま」がそのまま救いだということに気付きました。死後がどうとかではなく、「そのまま」に任せるしかないんだと。 これがいわゆる二種深信なのではないかと思っています。 僕は仏教の教えの全てを否定しているわけではありません。確実に分かる事実もあります。自分が極悪人だということ、因果律(無常、縁起)、南無阿弥陀仏、そして分からないということ。 今あるこれらの事実を大切に生きていければ、それでいいのではないかと思っています。 それとも、このような考え方は求道をやめた者のすることでしょうか?
こんにちは。僕は浄土真宗を学ばせてもらっている者ですが、今までは「派」について考えたこともなかったのですが、大まかに「本願寺派」と「大谷派」があるようですね。しかも、往生観が大きく異なるようです。本願寺派は死後(現世でもありますが)の救いを重視し、大谷派は「縁起」の救い?を重視しているようですね。こう見ると、僕はどちらかというと大谷派になるようです。 しかし、大谷派の場合の「往生観」がよく分かりません。浄土は、この世の「法」を空間的に現した方便なのですよね。「法」の世界は、無分別の世界だと思うのですが、人間の分別心は消えないのですよね。機の深信により分別心が明らかにされたのに、法の深信では浄土(無分別の世界)に往生させると言う。矛盾している内容だと思うのですが、僕が間違っているのですか? 二種深信は同時に起こるものだと理解していたのですが、今の僕は機の深信だけが実感できている状態です。 お詳しい方、回答していただけると有難いです。
竹内まりやさんの「いのちの歌」が好きです。歌詞も曲も心にしみるものがあります。 ところで、竹内まりやさんは、見た目、あまり仏教徒ではない感じがするのですが、「いのちの歌」って仏教の教えに通じますか? あまり仏教の知識もないのですが、諸行無常とか諸法無我にも通じるのかなと自己解釈しております。 私自身、門徒ですので、特に浄土真宗の僧侶の皆さんにお聞きしたいと思います。よろしくお願いいたします。
浄土真宗では往生即成仏を説きます。これは非常にありがたいのですが、煩悩具足の凡夫たる私としては死ぬ前に涅槃、あるいはそれに準ずる安らぎの境地に至りたく思います。これは叶わぬ願いでしょうか?
お世話になっています。浄土真宗についての質問ですが、浄土というのは死後の世界だと解釈しているのですが、どうも死後の世界ではないと解釈している人もいるようです。浄土真宗は、この「浄土」というのが大前提の教えなので、この「浄土」が分からなければ教えが根底から変わってしまうのですね。そこが悩みところです。 浄土真宗の教義について僕の一連の解釈を書きます。 1本願に疑い無くなるのが信心 2しかし、本願を信じられない 3信じられないのは煩悩があるからだ 4阿弥陀仏は煩悩ある者こそ救う 5そこで、「自分にできることはなかった」と自覚する(機) 6阿弥陀仏の浄土に救うという「働き」(本願)のみがある(法) これが一連の僕の理解です。僕は「異安心」なのでしょうか?すごく不安です。これはあくまで「死後」を前提にした解釈です。 浄土真宗の救いは、「自分の姿が明らかになることだけだ」と言う人もいますが、それだけだと何のメリットもなく、ただただ自分に失望するだけだと思うのです。しかし、自分の姿を知り、「だからこそ、死後、阿弥陀仏に救われるのだ」と解釈すれば、煩悩を受け入れることができ、様々なメリットがあると思うのです。 僕が浄土を死後の世界と解釈する理由は、浄土が死後の世界じゃないと、死後の解決にはなりませんよね。 自然の理法(仮の阿弥陀仏の解釈)におまかせするのも、解決になるのではないかとも考えましたが、それは「死の解決」であって「死後の解決」にはなりません。だいいち、自然は何をするのか分かりません。地震を起こしたり、コロナを起こしたり、そんな自然におまかせするのは、余計恐怖でしかないように思います。 ただ、死後の解決には死後の世界は必要なのですが、仏教には「無記」というものがありますよね。死後があるのかないのかは人間には分からないから、今を生きなさい。という内容だと解釈していますが、これも一理あると思っていて、浄土の教えは死後を説いているのか、いないのか、どちらでもないのか、分からないのです。これは、浄土真宗の一番重要なものだと思うのです。皆さんは「浄土」をどのように解釈しているのか気になって書きました。詳しい方、回答していただけると有難いです。 南無阿弥陀仏
浄土真宗のお勤めについてお聞きしたいのですが、正信念仏偈を読んだあとに御文章を読むのでしょうか? あと御文章は聖人一流章や信心獲得章など5つにわかれていますがどれを読んだらいいでしょうか? それとお仏壇の前でお勤めをする時の作法があれば教えてください。 最後に家のお仏壇が浄土真宗でありながら坐禅はやってもいい事なのでしょうか? よろしくお願いします。
お世話になっています。 最近、結構普通に使っていたのですが、気になる言葉を見つけました。それは「自力」と「他力」です。 僕は、この二つは捉え方の問題ではないかと思いました。 まず、大前提として宇宙は縁という繋がりがあり、主体的な実体はありませんよね。つまり、例え歩くという行為ですら、「歩かせてもらっている」わけです。このように考えるのが他力です。 一方の自力は、「自分が悟った」「俺が努力した結果だ」などと、全てが自分の力でやっていると思っている人達なのではないかと考えています。つまり、大前提に「自己中心性」があるわけです。 悟った→自力 悟らせてもらった→他力 生きている→自力 生かされている→他力 もう1つ、観点を変えた考え方として、他力=あるがまま、自力=思うがまま(自我意識)があるとします。 こういった解釈はどうなんでしょうか? これは少し極論かもしれませんが、仮に地獄という苦しい所にいるとします。 そこから脱出しようとするのが、自力です。あるがままの状態なんだから脱出する必要はないと考えて脱出しないのが、他力です。 そうなると、他力の生き方は人間のはからいが一切なく、どうしようもない気がします。生きる上ではやはり自力のはからいも重要だと思うのです。 それとも、自力や他力という言葉にあまりこだわらない方がいいんでしょうか?
浄土宗のお坊さんに質問です。 昭和十四年版『浄土宗法要集』の往生礼讃について。 下記のURLから飛んで頂けるとお分り頂けると思いますが、日中礼讃(コマ番号32/音聲部 P.59)の「南無至心歸命禮 西方阿彌陀佛 一一臺上…」の一節の前に「此間二節二礼略」と書いてあります。これは省略されているということですよね?この箇所以外にも省略が多々見られます。礼讃を読誦する時は、この省略された部分は飛ばしても構わないのでしょうか。 ご回答、よろしくお願い致します。 国立国会図書館デジタルコレクション『浄土宗法要集』 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1107908
こんにちは。 最近祖父が亡くなり、葬式も終わりました。 私は結婚していて、実家は浄土真宗、母方の実家は曹洞宗、嫁いだ先は禅宗です。 今まで浄土真宗のお葬式や法要などで実家の祖父母を供養してきましたので、浄土真宗のお坊さんの話をたくさん聞いてきました。 そのうちに、浄土真宗の考えに安心できるようになりました。 今回亡くなったのは曹洞宗の祖父です。 浄土真宗だと亡くなってすぐに浄土に行けるそうですが、調べると曹洞宗だと山を越え川を渡り裁きを受けて長いことかけて六道に分かれるのでしょうか? 今祖父はどこにいるのでしょうか。 49日までは祖父は修行をしているのでしょうか。 足も悪くなっていたのに山を越えて険しい道を一人で苦戦しながら行っているのではとすごく心配です。 寝たきりのままなくなった人でも、ちゃんと天国まで歩いていけるのですか? また、宗教が違っても天国で会えるのでしょうか? もう1つ引っかかるのが、私はお菓子の仕事をしているのですが、たまに祖父母が家に来たときにケーキがあれば出していましたが、最近は来る回数も減りあまり食べさせてあげられませんでした。 なので、シフォンケーキを焼いて棺に入れたかったのですが入れられませんでした。 クッキーだけは入れられたのですが。 そこで今はシフォンケーキは祭壇の前にお供えしてあるのですが、祭壇や仏壇にお供えすれば食べてもらえるのでしょうか。 もっと祖父にお菓子を食べさせてあげたかったです。 子供の頃はたくさん遊んでもらったのに、大人になってからは愛想が悪く、笑顔もあまり見せられませんでした。 曾孫には会わせてあげられたし、曾孫とは元気なときには楽しそうに遊んでいたのでそれが救いですが。 今からでも祖父に何かしてあげたいです。 亡くなってとても悲しいのに、普通にお腹が空いたり、普通に生活できてしまう事に罪悪感を感じ辛くなります。。
浄土真宗のお坊さんは、よく「引き受ける」という言葉を使います。 例 現実を引き受ける 悩みを引き受ける など よく分からないのですが、「引き受ける」とはどういうことですか?悩みを消そうとするのではなく、悩み自体を受け入れるということでしょうか? 僕は昔から生きることに虚しさを感じています。つまり、この虚しさはどうにもならないから、虚しさを引き受けるということでしょうか? しかし、「引き受ける」という意味?感覚?が分かりません。
あるホームページで「難しい教学の知識は、獲信した後でよい」という法話を聴聞しました。 気になったのが「獲信した後でよい」というところです。これでは他力ではなく自力なのではないかと。「信心は賜りたるもの」という考えに立った時、獲信できたと自覚できるものなのでしょうか。お聞かせください。
浄土真宗では追善供養が必要ないから行わないことは知っているのですが、永代供養も同様でしょうか? 調べたら浄土真宗では永代供養はしません!ということですが、さらに調べると納骨堂やお墓と絡めて永代供養を大々的に打ち出しているお寺も多く見受けられます。 供養の本来の意味を考えると浄土真宗において永代供養の語を使用することは問題ないのかなと思うのですが先生方はどうお考えですか? ちなみに永代供養と永代経の違いは承知しております
私は長年、極楽浄土に往生したら仏となることが定まるだけで、往生したその時から仏となるための修行が始まるものだとばかり思っていましたが、最近知り合いの浄土真宗のお坊様から「往生した瞬間から仏」ような内容のお話を聞かせて頂いて混乱しています。 釈尊の次に仏になるのは弥勒菩薩であってそれは56億年後の話だから、少なくとも極楽往生してから56億年は待たないといけないのかと思っていました。 宗派による解釈の違いなどを取り違えていたんでしょうか?浄土真宗として正しい認識をどのように持てば良いのでしょうか?ご教授下さい。