初めて質問をします。よろしくお願い致します。 先日、祖母が亡くなりました。それをきっかけに浄土真宗の教えを(ネットの情報からではありますが)学び始めました。 妙好人について書かれていることを読んで思ったことがあります。 他力信心を得ると言うことは、仏の悟りには至らなくても高いところの悟りに達しているように思い、阿弥陀様のお力を気づかせて頂くのは、簡単なことの様に説かれているものの難しいなと思っています。 他力信心によって死への恐怖や不安がなくなるのは、頭では理解できたかなとは思っています。しかし日常生活生活における死に直結しない様々な不安があります。なぜそれらも気にならないようになれるのでしょうか? ご助言をよろしくお願い致します。
初めまして。浄土真宗の思想についての質問です。 浄土真宗に「悪人正機」という思想がありますが、これはどんな悪人であっても阿弥陀仏様を信じれば浄土に往生することが出来るという意味なのでしょうか? もしそうなのだとしたら、数百万人を粛清した独裁者や数千億円を騙し取った詐欺師も阿弥陀仏様を信じてさえいれば浄土に往生することが出来るということになりますが、何だか不公平な気がしてなりません。 初歩的な質問ですいません。以前からずっと気になっていたので、この場をお借りして質問させていただきました。よろしくお願いいたします。
浄土真宗に興味を持って、1年半ぐらい聴聞をしたり仏書を読んだりしているのですが、疑いが晴れません 個人差があるのは承知しているのですが、一生信心が得られないのではないかと不安です どういう心構えでいたらいいのでしょうか?
浄土真宗本願寺派の教えについてご質問させてください。 3月に、祖母が亡くなりました。 実はそこで初めて、祖父母の宗派が浄土真宗 本願寺派であることを知りました。 表面的なことしか知らなかったため、浄土真宗の教えについて少し調べました。 なくなった瞬間に浄土へ導かれるため、今後行われる法要等はすべて現世に生きる私たち家族のためで、祖母にしてあげられることは何もないと理解しました(解釈が間違っているかもしれませんが) 祖母が安らかにいるのならばもちろんそれでよいのですが、これから祖母にできることは本当にもう何もないのでしょうか。 このコロナ禍の関係で、納骨そして新盆の法要に出席できず、お墓参りすらできていません。 祖母とのつながりが薄れていってしまうのではないか、とても心配です。 ご回答をいただけますと幸いです。 よろしくお願いいたします。
浄土真宗について勉強したり、時折り聴聞したりしています。 浄土真宗の念仏は報恩感謝の念仏であり、往生の因ではなく、信心の定まったところから自ずと発せられるもの、というふうに理解しています。 その点を踏まえて1つお聞きしたいのですが、信心が定まっているという実感はいかにして得られるものなのでしょうか。生き方が定まるというか道が見えるというか、様々な表現があるかと思いますが、そういった宗教的実存の転換というものはどのようにして起こるものなのでしょうか。 ちなみに、本で読んだ話ですが、曹洞宗のとある禅僧の方が、「自分が仏になる道を歩む最中、それが無理だと悟りったところに開けた仏教が浄土教をはじめとする他力の仏教であり、計らいを捨てて坐る禅にも通ずるところがある」とおっしゃっておられました。続けて、「前者から出発せずにいきなり他力を実感することはできないからこそ、計らいを捨てて坐るという実践が要請される」というようなことを述べてらっしゃったんですが、やはり「意識的に」そうした実感を感得することは不可能なのでしょうか。
よろしくお願いします。 私の父方の家は浄土真宗、母方は日蓮宗です。 私自身は幼稚園からキリスト教の学校に通わされました。 いかにも宗教感に鈍い日本人の家庭といったところでしょうか。 しかし、親も高齢になり、自分は長男でもあるため、家を継ぐことになるのですが、肝心の仏教の教えが全くわかりません。残された仏壇に対してどういう風に毎日向き合えばいいのか、どのような決まりがあるのか、無知な状態です。本を読んでも今まで葬式くらいの時しか自分は関わっていなかったため、自分一人になった時、どのようにすればいいのかわかりません。 親は毎日、仏壇にお供え物をしてお祈り(表現が正しくないと思いますが) しています。南無妙法蓮華経とか南無阿弥陀仏とか念仏を唱えていますが、 私はきっと人に教えてもらわないと意味が理解出来ないと思うのです。 どういう風に仏教を勉強してこれから向き合っていけばいいのでしょうか。 浄土真宗と日蓮宗の教えとは何でしょうか。宗派が違っても仏教はうまくやっていけるものなのでしょうか。それともうちの家が特殊なのでしょうか。 キリスト教ではカトリックとプロテスタントはかなり教えが違い、結婚生活を続ける上でどちらか一方に合わせるということを聞いたことがあります。 あと、非常に失礼な質問かもしれませんが下記教えてください。 親は時々身延山というところでお守りを買ってきています。有名なお寺なのでしょうか。 また、元嫁の母(義母、キリスト教)に、私の家は仏教ですよ、といったところ、仏壇に誰を祭っているのかと聞かれ、私は答えられなかったのでその質問をそのまま私の母に伝えたところ、誰を祭っててもいい、失礼な質問する人ね、とかなり怒っていました。その怒りの要因についても私は理解できないままです。 長くなってしまいましたが、もうアラフォーですが、自分のルーツと向き合うためにも仏教について少しづつ学んでいきたいと思います。 よろしくお願いします。 親も宗教観を押しつけるようなことはしてこないのでこちらからも質問はしにくい部分があります。
仏教が好きです。 お浄土や浄土宗、浄土真宗の教えに詳しくないのですが、お浄土に行けば逢いたい人に逢えるとは本当なんでしょうか? 人間なら誰しも逢いたい人はいると思いますが、誰もが寿命を全うしたら、逢いたい人に逢えるなんて有難い教えですね。 お浄土についてもっと知りたいのですが、お浄土って一体どんなところだと云われているのですか? それから、お浄土に行くにはどうすれば良いですか?生前の行いが評価されるのですか? 質問がたくさんあって申し訳ありません。 初歩的な質問ですが、お坊さまのご見解をお尋ねしたいとおもいまして質問させていただきました。 宜しくお願い致します。
大切な方が亡くなりました。 これは宗派によって考え方も違うと思いますが、禅宗の和尚さんにお参りをしてもらいました。 四十九日を終えて、六道に生まれ変わったと言ってみえました。 六道に生まれ変わった、六道の中には人間界もあって、どこかに生まれ変わっているのでしょうか? 空から見守ってもらっている?と思っていたら違うのでしょうか? お盆や何回忌に追善供養をするというのは、地獄にいる前提なのでしょうか?人間界に生まれ変わっていたら、人間界に生まれ変わった誰かに追善のお経がとどいている。ということでしょうか?
夜遅く申し訳ございません。 僕は今年26歳になります。浄土宗総本山知恩院おてつぎ運動にも参加しています。 毎日勤行は行っています。 家族親族にいつも言われるのは、なぜそこまで若いのに仏教に興味あるのか、仏教を信仰するのは年老いてからだと。 信仰の自由を知らないんですかね。歳が何歳でも、仏教、浄土宗の教えを信仰してもいいですよね。 なぜ浄土宗かといいますと、出身の高校が浄土宗系の高校であったため、浄土宗の授業がありまして、そこで興味を持ちました。 心理の学校の先生でも、融通念仏宗の僧侶をされながらカウンセラーをされておられる方がいらっしゃいます。 その先生とはすごくお話していて面白いのでいつもお話をしているんですが、僕がこの歳で仏教信仰するのはおかしいですか、と尋ねたところ、驚いてはいらっしゃいましたが、すごく受容してくださり、こちらとしては嬉しいという答えをもらえました。 しかし、まだ自分の中にはほんとにいいのかなという気持ちがあります。ひとりで法然上人二十五霊場の寺院を訪れ、参拝し、御朱印をいただくのが好きなんですが、やはりそこらへ行けば周りの目が気になります。 なんで若いのにここに来てるの、という目線を感じます。 最後に、この歳で自ら菩提寺を探し、浄土宗の教えを信仰することはおかしいことでしょうか。 長文、ご拝読ありがとうございました。 合掌
こんにちは。僕は浄土真宗を学ばせてもらっている者です。 二つの疑問があるのですが、お答えいただけると有難いです。 1,僕はよく称えたいと思った時に「なんまんだぶつ(そのまま救うぞ)」と呼び掛けてくださる阿弥陀仏のお声を聞き、「なんまんだぶつ(ありがとうございます)」と御恩報謝のお念仏を称えさせていただいていますが、浄土真宗のお坊さんは浄土宗のように朝(晩)何分と決めてお念仏を称えているのですか? 2,「考えない練習」などの著者の、元浄土真宗本願寺派のお坊さんであった小池龍之介さんという方がいるのですが、その方はヴィパッサナー瞑想を行ったことにより、僧籍を剥奪されたようなのですが、どう思いますか? 僕自身、hspという気質をもっていて、ストレス解消を目的として瞑想を行っているのです。呼吸や自律神経も安定し、とても素晴らしいと思うのですが、瞑想=自力であり、阿弥陀仏を疑っている、即ち「救われない」という思考になる方々がいるようです。 こういう方々は本願を聞き間違えているように思うのです。 瞑想を行えば救われないのではなく、「瞑想を行えば救われない」と考えるのが自力だと僕は理解しています。 阿弥陀仏の本願は「報恩念仏を称える者を救う」というものですよね。「瞑想を行えば救われない」なんて一言も書いていませんし、本願の内容を勝手に書き換えてしまっているのが問題だと思うのです。 正直僕が瞑想をしていることもあり、自分の行動を正当化したいという気持ちがあるのも事実ですが、瞑想を行うだけで僧籍を剥奪されるのかと、心底驚いて質問させていただきました。 二つ目の疑問が強調してしまいましたが、一つ目の疑問もとても重要なので、回答していただけると有難いです。
浄土真宗について勉強しています。が、少々わからないことがあり、質問させていただきます。 諸法が無我であることを鑑みると、阿弥陀仏や極楽浄土も我ではなく実体的な本質を持たないということになるような気がしたんですが、お寺で聞くお坊さんがのお話からはあまりそういった印象を受けません。この点は、僧侶の方々はどのように理解されてらっしゃるのかお聞かせ願えたら幸いです。 唯信鈔文意や自然法爾章にそれに近いことが書いてありましたが、やはりお寺できく阿弥陀仏の救いの話とは若干の距離感を感じます。やはり阿弥陀仏や極楽は実体として捉えるのが主流なのでしょうか。
こんにちは。浄土真宗を学んでいる者です。僕はこれまで阿頼耶識というのは無意識のことだと理解していましたが、どうやら無意識は「意識」のカテゴリーに入るみたいですね。では魂なのかと考えましたが、魂は我の絶対化なので諸法無我という考えに反しています。そこで、ある本を見つけ阿頼耶識というものは「業を保管する意識だ」という記述を見つけました。しかも、業というのは永遠不滅だということですが、一体どういうことなんでしょう?魂と何が違うのか分かりません。永遠不滅というのも、諸法無我の法則に反してはいないのでしょうか?どなたかとても分かりやすく解説お願い致します。
歎異抄を読んで、他力でありたいと思うのですが、同時に生活していく中での恐怖や不安もあります。 この恐怖や不安を克服する方法を教えて頂けませんでしょうか?
こんにちは。僕はこれまで浄土真宗の道を求め続けてきました。 そして、ある日ふと、俺って何も分からないな。と感じました。ソクラテスの無知の知ではありませんが、実際、浄土は何か分からない。死後のことなのかもしれないし、真理のはたらきのことなのかもしれない。ブッダが生きていたら答え合わせもできるだろうが、もういない。 だとしたら僕がいくら輪廻や浄土を解釈したとしても、分かったつもりになって終わりだと気付きました。 輪廻という概念も精神世界と解釈する人もいますし、方便と解釈する人もいます。しかし、本当に死後の世界だったら?という不安がどうしても拭えない。 僕には何も分からない。分からないものは分からない。そして、南無阿弥陀仏という呼び声を思い出しました。阿弥陀仏はどんな劣った衆生も救うと誓っている。 だとしたら、僕が今いくら仏教の教えを理解しようとしても、知識欲を満たすだけのことです。しかも分かったつもりになっているだけです。 そこで気付きました。阿弥陀仏は「そのままでいい」と呼び掛けていたんだと。「そのまま」がそのまま救いだということに気付きました。死後がどうとかではなく、「そのまま」に任せるしかないんだと。 これがいわゆる二種深信なのではないかと思っています。 僕は仏教の教えの全てを否定しているわけではありません。確実に分かる事実もあります。自分が極悪人だということ、因果律(無常、縁起)、南無阿弥陀仏、そして分からないということ。 今あるこれらの事実を大切に生きていければ、それでいいのではないかと思っています。 それとも、このような考え方は求道をやめた者のすることでしょうか?
こんにちは。僕は浄土真宗を学ばせてもらっている者ですが、今までは「派」について考えたこともなかったのですが、大まかに「本願寺派」と「大谷派」があるようですね。しかも、往生観が大きく異なるようです。本願寺派は死後(現世でもありますが)の救いを重視し、大谷派は「縁起」の救い?を重視しているようですね。こう見ると、僕はどちらかというと大谷派になるようです。 しかし、大谷派の場合の「往生観」がよく分かりません。浄土は、この世の「法」を空間的に現した方便なのですよね。「法」の世界は、無分別の世界だと思うのですが、人間の分別心は消えないのですよね。機の深信により分別心が明らかにされたのに、法の深信では浄土(無分別の世界)に往生させると言う。矛盾している内容だと思うのですが、僕が間違っているのですか? 二種深信は同時に起こるものだと理解していたのですが、今の僕は機の深信だけが実感できている状態です。 お詳しい方、回答していただけると有難いです。
竹内まりやさんの「いのちの歌」が好きです。歌詞も曲も心にしみるものがあります。 ところで、竹内まりやさんは、見た目、あまり仏教徒ではない感じがするのですが、「いのちの歌」って仏教の教えに通じますか? あまり仏教の知識もないのですが、諸行無常とか諸法無我にも通じるのかなと自己解釈しております。 私自身、門徒ですので、特に浄土真宗の僧侶の皆さんにお聞きしたいと思います。よろしくお願いいたします。
浄土真宗では往生即成仏を説きます。これは非常にありがたいのですが、煩悩具足の凡夫たる私としては死ぬ前に涅槃、あるいはそれに準ずる安らぎの境地に至りたく思います。これは叶わぬ願いでしょうか?
お世話になっています。浄土真宗についての質問ですが、浄土というのは死後の世界だと解釈しているのですが、どうも死後の世界ではないと解釈している人もいるようです。浄土真宗は、この「浄土」というのが大前提の教えなので、この「浄土」が分からなければ教えが根底から変わってしまうのですね。そこが悩みところです。 浄土真宗の教義について僕の一連の解釈を書きます。 1本願に疑い無くなるのが信心 2しかし、本願を信じられない 3信じられないのは煩悩があるからだ 4阿弥陀仏は煩悩ある者こそ救う 5そこで、「自分にできることはなかった」と自覚する(機) 6阿弥陀仏の浄土に救うという「働き」(本願)のみがある(法) これが一連の僕の理解です。僕は「異安心」なのでしょうか?すごく不安です。これはあくまで「死後」を前提にした解釈です。 浄土真宗の救いは、「自分の姿が明らかになることだけだ」と言う人もいますが、それだけだと何のメリットもなく、ただただ自分に失望するだけだと思うのです。しかし、自分の姿を知り、「だからこそ、死後、阿弥陀仏に救われるのだ」と解釈すれば、煩悩を受け入れることができ、様々なメリットがあると思うのです。 僕が浄土を死後の世界と解釈する理由は、浄土が死後の世界じゃないと、死後の解決にはなりませんよね。 自然の理法(仮の阿弥陀仏の解釈)におまかせするのも、解決になるのではないかとも考えましたが、それは「死の解決」であって「死後の解決」にはなりません。だいいち、自然は何をするのか分かりません。地震を起こしたり、コロナを起こしたり、そんな自然におまかせするのは、余計恐怖でしかないように思います。 ただ、死後の解決には死後の世界は必要なのですが、仏教には「無記」というものがありますよね。死後があるのかないのかは人間には分からないから、今を生きなさい。という内容だと解釈していますが、これも一理あると思っていて、浄土の教えは死後を説いているのか、いないのか、どちらでもないのか、分からないのです。これは、浄土真宗の一番重要なものだと思うのです。皆さんは「浄土」をどのように解釈しているのか気になって書きました。詳しい方、回答していただけると有難いです。 南無阿弥陀仏
浄土真宗のお勤めについてお聞きしたいのですが、正信念仏偈を読んだあとに御文章を読むのでしょうか? あと御文章は聖人一流章や信心獲得章など5つにわかれていますがどれを読んだらいいでしょうか? それとお仏壇の前でお勤めをする時の作法があれば教えてください。 最後に家のお仏壇が浄土真宗でありながら坐禅はやってもいい事なのでしょうか? よろしくお願いします。
お世話になっています。 最近、結構普通に使っていたのですが、気になる言葉を見つけました。それは「自力」と「他力」です。 僕は、この二つは捉え方の問題ではないかと思いました。 まず、大前提として宇宙は縁という繋がりがあり、主体的な実体はありませんよね。つまり、例え歩くという行為ですら、「歩かせてもらっている」わけです。このように考えるのが他力です。 一方の自力は、「自分が悟った」「俺が努力した結果だ」などと、全てが自分の力でやっていると思っている人達なのではないかと考えています。つまり、大前提に「自己中心性」があるわけです。 悟った→自力 悟らせてもらった→他力 生きている→自力 生かされている→他力 もう1つ、観点を変えた考え方として、他力=あるがまま、自力=思うがまま(自我意識)があるとします。 こういった解釈はどうなんでしょうか? これは少し極論かもしれませんが、仮に地獄という苦しい所にいるとします。 そこから脱出しようとするのが、自力です。あるがままの状態なんだから脱出する必要はないと考えて脱出しないのが、他力です。 そうなると、他力の生き方は人間のはからいが一切なく、どうしようもない気がします。生きる上ではやはり自力のはからいも重要だと思うのです。 それとも、自力や他力という言葉にあまりこだわらない方がいいんでしょうか?