不謹慎な質問をお許し下さい。 私は子どもには恵まれませんでしたが夫、家族と仲良く過ごしております。 このまま年をとれば親を看取り、夫を看取り、一人になるでしょう。 その場合、寂しさに耐えられないと思います。 なので何十年後かの日本では死ぬタイミングを自分で選択できればいいのにと思います。 いつ死ぬかわかっておけば、例えば自分の遺品の始末をする時間を持てますし、孤独でもその日までのがまんと思えば耐えられると思います。 周りに誰もいなくなった時。とても恐ろしいです。 こんな考え、自分でもずいぶんネガティブだなと思いますがおかしいでしょうか。 ※現時点で自殺願望があるわけではありません。 将来の孤独がこわくて思いついた上記のような死ぬシステムについてどうお考えになりますか。
随分と昔の話になりますが… 子供がまだ産まれて間もない頃、 笑われてしまうかも知れませんが、外出先で原因不明の心肺停止になり、ICUに運ばれ臨死体験をしました。 この時に単に復活した!というより、本当に生まれ変わったというか、リセットされた、一回しんだのに再び生かされた!という不思議な感覚で、心も体もスッ キリ感が凄くて、『おまけでもう一度もらった人生、何かしなくては!』と、無性にかきたてられる様に、心理学を勉強しカウンセラーの資格をとったり、それをふまえてボランティア活動に精力的に参加したり、今は、犬の保護活動を手伝わせてもらったりしながら、我が家にも保護犬が里子として来てくれて一緒に生活してます。 臨死体験の時に、祖父が現れて救ってくれたのですが、祖父は、神仏をとても大切にする人で、生きてる時に私にも『誰も見てない時こそ真面目にやるんだよ!』と教えてくれました。 だから、日々まっすぐ生きよう!人には優しくいよう!先祖や周りの人に感謝しよう!と生きてきましたが、なかなか思う様に生きられず、お金を騙しとられたり、DV、浮気されたりなども経験し離婚して、いまだに、困難やトラブルに巻き込まれてしまい、どう生きるべきか?分からなくなります。 私は、至らない所ばかりだし、見返りを求めて何かをするべきではない!と思って生きてるつもりですが、何か意味があって、私にオマケの人生をくれたのでしょうか? 傷つく事で、相手の痛みも分かるから!と、ポジティブに考えよう!と思ってきたのですが、理不尽な事や傷つく言葉を浴びると心が折れてしまい、今は、へこんでます。 心が苦しいときは、どう考えたら良いでしょうか? どうしたら、しあわせになれるのでしょうか?
2008年くらいに、ふと、もう人生でやり残したことはない、という感じになり、それから7年間生きてきました。 その間に離婚も経験し、子供もいません。 お金もたくさんあるわけでもありませんが、仕事は普通に好きですし、友人たちにも恵まれています。 そういう人たちと旅行に行った帰りなどに、あぁ今日も楽しかったなぁと思うと、もうこれでやっぱり終わっても良いなぁと思ったりします。 積極的に死にたいと思ったことはほとんどほとんどないのですが、終わっても良いとはいつも思います。 こういう時には、どういう心持ちでいることが「よい」ことなのか、お言葉をいただきたいです。
高齢者の安楽死についてご意見をお願い致します。90歳になる身内の者が倒れ入院となった際、医師に言われました。平均寿命を超えているからもういいのではと。つまり、延命治療をせずに逝かせるということです。家族は反対し、できうる限りのことをしてほしいと願いましたが、いざ胃瘻をどうするかの際に、この医師は容態について虚偽の説明までして胃瘻を阻止しようとしました。 高齢者の医療負担が大きな問題となっていますが、この医師も口から食べられなくなったら寿命とは言うものの、だからといって家のように栄養を少しずつ減らして二三ヶ月で逝かせましょうだなどと私はどうしても疑問を拭うことが出来ません。 医師が捉える死と御坊様が捉える死とは違うとは思いますが、命を救うのが医療であって、そこに延命も何も無いのではと私は思ったりもするのです。蝋燭は燃え尽きてこそ終わりです。口から食べられない、平均寿命を超えていることから死に至らしめようと安易に考える医師に私は命に対する驕り高ぶりと恐ろしさを感じます。たとえ口から食べられずとも、今その目の前に尽きていない命があるのですから。