死について質問です。 今の私にとって死とは、必ず行き着く先であるからこそ、明日すら計り知れない今を頑張る源となっているように思います。 小学生の頃はずっと死にたくないと思っていたのに対し、大学時代は死にたいけれど自分から死ぬ勇気はない、そんなことで周りに迷惑もかけたくないと思っていました。 また一度だけどうしようもない気持ちがいっぱいで手で首を締めた時、少しの吐血で非常に驚き、やっぱり自分から積極的に死を選ぶことはできないと実感しました。 そうして死の捉え方が変わっていきながらも、今は明日死んでも、五十年以上後に死ぬことになっても、いつでも悔いなく安らかに眠れるような気がしています。 一方で医療職に就き人の命を救う立場でありながら、このような死の捉え方をしていることには、どこか自分や他人に嘘をついている気がしてしまうこともあります。 お坊さんがたは、お葬式などで死者を弔う役目を果たされながら、死をどのように捉えておられますでしょうか? どうぞお聞かせ頂ければと思います。 宜しくお願い致します。
こんにちは。 今年、「私はこのために生まれてきた」と思えるような大きな仕事を、文句のつけようがないほど良い形で果たすことができました。自己満足だけでなく、社会にも大いに役立つ仕事です。この社会に生を受けた責任も、果たし終えたといえると思います。 だから30代半ばにして、私にとってはこの先は「余生」という感覚で、もういつ死んでもいいと思うようになりました。 生きていることが、絶対的に幸せだとは私は思いません。生きていれば、「知らなければ幸せだったこと」を知ってしまい、絶望に苦しまなければならないこともあります。生きるためにはお金が必要ですが、そのためにあくせく働いて「何のために生きているのかわからない」と思ってしまうのでは、目的と手段が入れ替わっているようにも思えます。 それに、今の私は人生の目的を最良の形で果たし終え、幸せの絶頂にいます。もし今、人生の最後の時が来たら「私の人生は最高だった!」と笑って死ぬことができるでしょう。それはある意味、理想の死の形ではないかとも思います。 親はいますが、伴侶や子どもはいませんので、「この子の行く末を見守るまでは死ねない!」というモチベーションもありません。フリーランサーなので、組織に対する責任もないです。親や友人は私にもしものことがあれば嘆き悲しむでしょうが、志半ばではなく充分に人生を謳歌し、社会にも確かな礎を遺して生き切った私を、誇りに思ってくれるのではないかとも思います。 でも、そんな縁起でもないことを考えてはいけない…という風潮もありますし、「長生きしたいと思わない」なんて生物としておかしいのではないか、そんな考えを口に出すことは人としてタブーなのではないか…と我ながら思ってしまうこともあります。 一方で、死生観は人それぞれ、一般論に振り回されても意味がないのではないか…と思う自分もいます。「逆縁なんて親不孝」「生きたくても生きられない人もいるのに」なんて定型文もありますが、そんなのはケースバイケースだと思います。 もちろん、私は「自殺したい」と考えているわけではありません。ただ漠然と「今お迎えが来てもいいな、そうなっても全然『死にたくない』とは思わないな」…などと思っているぐらいです。 私の考えは誤っているのでしょうか。誤っているとしたら、なぜなのでしょうか。 こんな私に、有り難いご教示をいただけたら幸いです。
はじめて相談させていただきます。 2児の母親でありながら、過食嘔吐をやめることができませんでした。 14才から25年間、過食嘔吐を繰り返してきました。コンプレックス(痩せたい)や自信のなさから始まり、その後は完全に依存性、でした。 子供もいますので野菜も多目に食事を作り、きちんととり、偉そうに『健康のため』と、子供には食事の大切さも語ったりしていました。 それ以外に吐くためだけに好きなものを好きなだけ食べ吐き出していました。子供の目がない時にです。 食事をとっているのでガリガリではありません。(157cm/48kg)ただ上半身は骨の浮き出た、下半身はぶよぶよの気持ちの悪い不健康な痩せ方です。 楽に吐ける体になり苦痛なく吐けていたので過食嘔吐が体に害があるとは考えられなくなっていました。 8月の下旬から少しずつ体調に異常が現れはじめました。最初の異常はのど~食道の異物感でした。それでも過食嘔吐を完全にはやめられず、しばらく様子を見ていました。 怖くなり、いよいよ初めて通院してから内視鏡の予約日までに、背中の痛みや食道の染みる痛みなど、『食道がんでは…』という症状が次々と現れ、恐怖と不安と、25年間胃酸を食道へ逆流させ続けた自分に絶望する日々が続いています。 不眠、下痢、食欲不振、微熱など自律神経失調症の症状も出ています。 もしかしたらこれもがんの症状なのかもしれません。逆流性食道炎では…とも思いますが25年間の行為が直感的にがんを連想させるのです。 子供を愛していたつもりでした。 未だに私に抱っこを求めてくる今年10才になるになる女の子と 私がちょっと見えなくなると、覚えたての言葉で不安げに私を探す今年3才になる男の子、 ママっ子でかわいい二人の子供です。 母親になっても過食嘔吐がやめられず、 子供から母親を奪ってしまうような行為を続けていた自分の愚かさに、死の恐怖に、もし私を失った時の子供の絶望に…心が潰されそうです。 検査まであと一週間、どのような心構えで過ごせばよいでしょうか。 病院の先生には全てを告白し、早めの検査を希望しましたが予約の都合で断られてしまいました。 母親と主人にも初めて全てを告白しました。今後サポートをしてもらいながら治療していく予定ですがまだ『今後』は描けません。
私は統合失調症で、下半身まひの障害者なのですが、過去に大量の殺生をしてしまいました。 そこで仏教について調べ始めたのですが、今度は不殺生の戒に囚われてしまいました。 病院にはちゃんとかかっていますし、薬もちゃんと飲んでいます。 しかし不殺生を守ろうとした結果、病院にも、法要にも、とにかく外出することができなくなってしまいました。 それどころか、車椅子の私には、後方も足元もよく見えず、タイヤの足回りなどは完全に見えないのです。これではいつ虫達を殺してしまうかわかりません。今では、外出はもちろんのこと、部屋で身動きすることすら困難な状態です。 完全な不殺生などありはしないと、承知の上での質問ですが、せめて無意味な殺生を最小限におさえたいのです。しかし、この「最小限」というのは、どの程度まで努力すべきなのでしょうか。 僧侶の皆様は、どのくらいまで気を付けていらっしゃいますか? 外出をしない雨季とは、いつぐらいまででしょうか。雨後も虫達は多いですよね? 車と歩道を行くのとでは、どちらを選ばれますか? お弁当の配達を頼んで、もしその配達員の方が殺生してしまったら、それは私の責任になるのでしょうか? また、薬の陰には実験動物の犠牲がありますが、薬を飲むのは不善行ですか? 夜間、電気をつけると虫達が集まってしまいそうで、電気をつけるのが怖いのです。 統失ゆえに極端な考えをしてしまっているかもしれません。 しかし本当に苦しんでいるのです。 どうかアドバイスをよろしくお願い致します。
先日健康診断を受けたのですが肝臓が悪い模様。 はじめてなのでとても怖いです。 仏様はわちを気に入って命をとろうとしてるのでしょうか? まだ現世でやりたいことがたくさんあるのに。 まだ死にたくないです。
「明日死んでも悔いのないように生きる」 という考え方と 「目標にむかってコツコツ努力する」 という行動が、どうしても矛盾してしまうように思います。 1日で達成できない目標がある場合、その過程で死んでしまったら悔いが残るように思えて、コツコツ努力できない自分がいます。 もし本当に明日死んでしまうのであれば、1日でやりきれる楽しいことを選んでしまうのが普通ではないでしょうか? 目標に向かって進んでいれば、道半ばで死んでしまっても救われるのですか? 教えて下さい。
看護師をしています 『もう死にたい 死ねる薬ないか 』と 治療にせっせと通われる患者さんが 多くいます。それなら薬も飲まず治療に来なければいいのに。医療費がもったいないと常々思います。笑顔で点滴やお話しを伺ってはいますが、心の中では もう早く死んじゃえ と酷いことを思ってしまいます。患者さんの言葉は本心でなく生に執着してることの裏返しだとは思うのですが、死んでしまえ と思う自分の腹黒さと傲慢さを 治したいのです。方法はありますか?
近所の池からとってきたおたまじゃくしがいます しかし普段私は家にいないので家内にまかせっぱなしです 水がかなり濁り、何匹か死なせてしまいました それをみて怖い気持ち悪い申し訳ないと思いましたが、残りのをどうしよう。水も変えなくてはと思った時 面倒くさいから放っといて殺そうと思ってしまいました。残酷な考えをしてしまった自分に驚いています。 命は全て等しく大切と思えないのっておかしいですか
タイトル通り、事故で死にかけました。 その時、はっきりと死を覚悟した感覚がつきまとって離れません。 寝ていても苦しくなって過呼吸のようになり目が覚めます。 こわくて仕方ありません。 そしてわたしの人生を振り返るようになりました。 たぶん幸せな人生でした。 つい5年前くらいまでは。何1つ疑うことなく生きてきました。でも5年前に4番目の子を産んでから劇的に変わりました。 4番目の子は重度の自閉症があります。 言葉は話せません。ガマンもしません。言葉は悪いけど動物のようです。 本能のままに生きています。 わたしはこの子がとてつもなく愛おしいです。 笑っていても泣いていてもです。 道路でもお店でもジタバタしながら泣きわめく子を周りの人は何事?と怪訝な顔をして見ていきます。 でもわたしはうらやましく思い自分を素直に表現する我が子を愛おしく思うのです。 でも、そんな我が子を見ながらわたしはこの子を幸せにしてあげられているのかと思ってしまうのです。 わたしは病気がちで休みの日も家にいることが多くつまらない思いをさせてはいないだろうか… わたしの勝手で離婚してしまったからこの子にもっとあげられるはずだった幸せを奪ってしまったのではないか… そんな時強く思うのです。 この子はなぜわたしを選んで産まれてきてくれたんだろうと。 わたしじゃなかったらもっと幸せだっただろうに… この子を本当に愛おしく思うからこそ苦しくなります。 そしてあの時、あの事故の時にわたしなんて死んでしまえばよかったのではないかという思いに取り憑かれてしまいました。 疲れてしまったのもあるのかと思いますが… 1人で思い悩むのにも疲れてしまいました。 何かお言葉がいただきたいです。
少年時代の友人が、「死ぬってどういう事とか考える?」と聞いてきました。 それに対して、私はドラマで聞いた言葉として、「死ぬのは老人の役目。」と答えた事がありました。 それから何年も何年も立って。 「死にたいなんて言う意味がわからない。」と言う人もいれば 「死にたい。」という人も。 たくさんの理由があり、死を言葉にせず「消えてしまいたい。」と言った人。 そして何も語らず死ぬ人。何も語らず死にはせず、生きてはいる人。何も選ばない人。 たくさんの方たちがあり、しかし、生きづらいからこそ、「死にたい。」「消えたい。」「選ばない。」に「生きたい。」が隠れているような気がします。 それぞれの方の境遇を、何とできるはずもなく、話ができても、心うちの全てを理解できるはずもない。 私もこういった方たちと同じ輪にいつ入るとも知れませんし、さほど距離もないようにも感じます。 こんな時、一体何を考え、何を成すすべきか、また為さざるべきか。 俯瞰できているような、そこにそのまま立っているような。 漠然とした私の思考に、幾つかの道筋を立てて頂きたいのです。お解り戴けるでしょうか。
看護師をしているのですが、お看取りするたびに心がザワザワします。見込みもなく、苦しいだけの無駄な延命治療。正直、もう死なせてあげてよと思う事も多いです。死人に鞭を打つようで、やってる側は心身共に疲労困憊です。 医療現場の経験を踏まえて、命って自分だけの物でもはいんじゃないのかなと感じるようになりました。お坊さんとしてのご意見聞かせて下さい。命って誰のものですか?
はじめまして。できるだけわかりやすく書くようにいたしますが、途中文章がおかしな所があるかもしれませんがお許しください。 私の父方の祖父は、私が2才の時にがんで亡くなりました。姉達は憶えているそうですが、私は幼かった事もあり祖父の記憶が全くありません。祖母の部屋に飾ってある写真を見て、『あのおじさん誰?』と言ってしまった事があります。 それから私は大人になり、実家を出たので一年に一回は祖父のお墓詣りには行っておりました。昨年子供も生まれ、お互いの祖母や親戚に我が子が可愛がられている様子を見て、これまで祖父の死を意識した事がなかったのに急に祖父に会いたくなりました。一番はやはり、祖父にひ孫を抱っこしてほしいという思いからかもしれません。 それからというものの、今まで知ろうとしなかった祖父の事を父に聞いたり、写真をもらって持ち帰り家に飾っています。その写真を見るたびに寂しくなり、会っていっぱい話したい、聞きたい事がたくさんある、どうして早くに死んでしまったの?という様々な感情を抱きながら日々をすごすようになりました。 祖父からすれば、あのおじさん誰?と言われたし、20年以上時が経ち今更写真をもらって飾ったりして、ひ孫をきっかけに思い出して悲しんでいるなんてとても都合がいいなとあの世で怒っているのでしょうか? そして、日々祖父に会いたいという気持ちが大きくなるばかりです。 この気持ちはどう整理すればよいでしょうか。よろしくお願いいたします。
これは普段人に言えないことですし、こうして公にするとそれはそれで叩かれると思ってかなり悩んだのですが、正直に書くことにします。 私は自分が恵まれていないとか社会的責任を果たしていないとか、そういう負い目を感じています。どうにかしなければと思っているのですが出来ません(努力はしているのですが、やはり人から見れば甘えなのでしょう)。 それが高じて、他人と話をしていると「お前なんか死んでしまえ」とつい思ってしまいます。もちろん本気で死を願うわけではありません。相手は優しい方です。そういう方に対して口癖のように「死ね」と考えてしまうのです。 それを言葉に出すと本当に相手が死んでしまうのではないかと思って、口にはしません。じっと黙っています。でも、つい癖で「死ね」と考えてしまうのをなんとかしたいのです。どうしたら良いのでしょうか。
私は生きていたくありません。 でも、自殺する勇気がありません。 だから、病気とか事故とか殺人とかそういう事が起こらないかなと考えてしまいます。 自分で死ねないから、誰かに、何かにこの命を終わらせて欲しいんです。 私は頭がおかしいんだと思います。 でも、生きてる意味がわかりません。 だから、死んではいけない理由も分かりません。 毎日、毎日、ただ死なないから生きてる私に納得できる答えを下さい。 なぜ、死んではいないんですか? なぜ、生きてないといけないのですか?
初めて質問させていただきます。 夜、布団に入り、うつうつとし始めてこのまま寝られそうだなあと思った時、 突然ものすごく不安に襲われることがあります。 このまま眠って明日、起きられるのだろうか。 このまま目覚めないで死んでしまうのではないか。 もしこのまま目覚めなかったらどうしよう。 後悔ばかり残す生き方だったなあと。 そんなことを考えてしまいます。 不安を追い払おうと意味もない声を発してみたり、身体をかきむしってみたりして紛らわせます。 しばらくして疲れると眠りにはつけるのですが、時々そうなると心が疲れてしまいます。 どうにか落ち着いて生きていく方法はないのでしょうか。
介護の職場について早13年…。 こういう仕事ですので、 終末期や急変等で亡くなる方を 看取る事があります。 自分は、他の職員からすると、 看取ってきた回数は多いほうだと感じています。 今月に入って、夜勤中に 急変の方がお一人、終末期の方をお二人看取ってきました。まれにみる多さだと感じています。 自分としては、人が亡くなる事は悲しい事ですが、最期の時、家族でもない自分を選んで頂いたと感謝しています。 先日、亡くなった方を見送り、職員が出勤して来た際に「また◯◯君の夜勤の時?」と数人から言われ、とてもショックを受けてしまいました。 あたかも、自分が夜勤の時に、不幸な事が起きていると言われてるようで…。 人が亡くなる事って、そんなに悪い事でしょうか? よろしければ、お聞かせ下さい。 宜しくお願いします。
今、安楽死について習っています。 私は、安楽死を合法化するのはいけないとおもいます。 もし自分が重い病気になって、安楽死が合法化されていたら、安楽死したいと思うかもしれません。 でも、まだその病気で死ぬとは限らないし、 今の医学からしたら治る可能性も十分あると思っているので、どんな理由があっても薬剤などで直接手を下して患者の命を断たせることはいけない。 そして、病気になって苦しくて、死んで苦しみから解放されたいと思うことはあるかもしれないけど、どんなに苦しくても、病気と向き合って頑張って負けずに闘ってほしいと思うので、安楽死は合法化しない方がいいと私は思います。 和尚さんは、安楽死についてどう思いますか?
不謹慎な質問をお許し下さい。 私は子どもには恵まれませんでしたが夫、家族と仲良く過ごしております。 このまま年をとれば親を看取り、夫を看取り、一人になるでしょう。 その場合、寂しさに耐えられないと思います。 なので何十年後かの日本では死ぬタイミングを自分で選択できればいいのにと思います。 いつ死ぬかわかっておけば、例えば自分の遺品の始末をする時間を持てますし、孤独でもその日までのがまんと思えば耐えられると思います。 周りに誰もいなくなった時。とても恐ろしいです。 こんな考え、自分でもずいぶんネガティブだなと思いますがおかしいでしょうか。 ※現時点で自殺願望があるわけではありません。 将来の孤独がこわくて思いついた上記のような死ぬシステムについてどうお考えになりますか。
随分と昔の話になりますが… 子供がまだ産まれて間もない頃、 笑われてしまうかも知れませんが、外出先で原因不明の心肺停止になり、ICUに運ばれ臨死体験をしました。 この時に単に復活した!というより、本当に生まれ変わったというか、リセットされた、一回しんだのに再び生かされた!という不思議な感覚で、心も体もスッ キリ感が凄くて、『おまけでもう一度もらった人生、何かしなくては!』と、無性にかきたてられる様に、心理学を勉強しカウンセラーの資格をとったり、それをふまえてボランティア活動に精力的に参加したり、今は、犬の保護活動を手伝わせてもらったりしながら、我が家にも保護犬が里子として来てくれて一緒に生活してます。 臨死体験の時に、祖父が現れて救ってくれたのですが、祖父は、神仏をとても大切にする人で、生きてる時に私にも『誰も見てない時こそ真面目にやるんだよ!』と教えてくれました。 だから、日々まっすぐ生きよう!人には優しくいよう!先祖や周りの人に感謝しよう!と生きてきましたが、なかなか思う様に生きられず、お金を騙しとられたり、DV、浮気されたりなども経験し離婚して、いまだに、困難やトラブルに巻き込まれてしまい、どう生きるべきか?分からなくなります。 私は、至らない所ばかりだし、見返りを求めて何かをするべきではない!と思って生きてるつもりですが、何か意味があって、私にオマケの人生をくれたのでしょうか? 傷つく事で、相手の痛みも分かるから!と、ポジティブに考えよう!と思ってきたのですが、理不尽な事や傷つく言葉を浴びると心が折れてしまい、今は、へこんでます。 心が苦しいときは、どう考えたら良いでしょうか? どうしたら、しあわせになれるのでしょうか?
2008年くらいに、ふと、もう人生でやり残したことはない、という感じになり、それから7年間生きてきました。 その間に離婚も経験し、子供もいません。 お金もたくさんあるわけでもありませんが、仕事は普通に好きですし、友人たちにも恵まれています。 そういう人たちと旅行に行った帰りなどに、あぁ今日も楽しかったなぁと思うと、もうこれでやっぱり終わっても良いなぁと思ったりします。 積極的に死にたいと思ったことはほとんどほとんどないのですが、終わっても良いとはいつも思います。 こういう時には、どういう心持ちでいることが「よい」ことなのか、お言葉をいただきたいです。