hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

何を目指すべきなのでしょうか

回答数回答 3
有り難し有り難し 13

2008年くらいに、ふと、もう人生でやり残したことはない、という感じになり、それから7年間生きてきました。
その間に離婚も経験し、子供もいません。

お金もたくさんあるわけでもありませんが、仕事は普通に好きですし、友人たちにも恵まれています。

そういう人たちと旅行に行った帰りなどに、あぁ今日も楽しかったなぁと思うと、もうこれでやっぱり終わっても良いなぁと思ったりします。

積極的に死にたいと思ったことはほとんどほとんどないのですが、終わっても良いとはいつも思います。
こういう時には、どういう心持ちでいることが「よい」ことなのか、お言葉をいただきたいです。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

悟りと来世と他人のために

仏教の善は、自分と他人の悩み苦しみを減らす方向性です。
自分の悩み苦しみがなくなる究極は、悟り(煩悩がなくなること)です。
悟るためには、戒(生活習慣の修行)、定(精神集中の修行)、慧(真理に気づく修行)の三つの修行が基本です。
あとは、慈・悲・喜・捨の四つの心(四無量心)をはかりしれないほどに大きく育てるのも修行です。
また、煩悩が残ったまま死んだ場合は、輪廻転生すると考えられます。
ですから、同じ輪廻するなら悟りやすい環境に生まれかわりたいという仏教徒の人情で、浄土への往生を目指す信仰があります。
南無阿弥陀仏と念仏をとなえて極楽浄土への往生を目指す教えがあります。

以上は、自分のための善いことですが、それに加えて、他人の悩み苦しみをなくすために行動するのも善いことです。

{{count}}
有り難し
おきもち


がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
このお坊さんを応援する

「ほりていく」生き方

まず、もうちょっと降りてきて下さい。(´-ω-`)
まず、自分の事だけずーっとやっていると必ず人生虚しくなります。
別れた奥さんにもっと尽くしておけばよかったとか思いませんか?
親にもっと尽くしておくべきだったとか、人に好かれるような生き方をするべきだったとか思いませんかね?理解し合える友をもっと持つべきだったとか、知音(ちいん)と呼べるような友を持つべきだったとか思いませんかね。
他者に利を提供する。
そういう生き方してみてくださいナ。
人生劇的に充実しまっせ。
自分を満たす為だけだとダメなんです。
人間は大きなアリなのです。
大きなハチなのです。
これが自論ですが、人間もハチや蟻のように、大きな個のために動かなければいけないのです。その大きな個とはあまりにもデカ過ぎて果てがありません。
SOビッグ 超デカ 摩訶摩訶∞XLです。
一言でいえば命と言ってもいいでしょう。
小さく言えば、人間。身の回りの方々。
中くらいに言えば、環境、平和、人権。
「利他」「利行」=他に利(やさしさ、たすけ、ちえ、すくい、よりそい、やすらぎ等)を廻らせる行為が無いと、人生虚しくなりますよ。
仏教の利他とは、強制でも、出家したからそうするとかいうものではなく、それをすることが人間の使命と言えます。
現に今、あなたが虚しいのは他者とのかかわりがありながらも希薄なのではないですか?
自分が頂いた事や、自分が学んだことをどんどん役立ててください。
他人がしてもらって喜ぶような事をどんどんやってみてください。
使命というと大げさに聞こえるかもしれませんが、それをする事で精神衛生面でも、心地が良いものなのです。
「ほりていく」とは、降りていく + ホリスティック + 自分を掘り下げる という意味です。
自分を周りから引き離し過ぎだと思いますよ。
皆と同じ立ち位置に降りていって、もっと自分のプライドをなくして、掘り下げて、社会全体の為に、聖なる生き方を求めてください。

{{count}}
有り難し
おきもち


丹下 覚元(たんげ かくげん)
今月の提唱 「菩提心をおこす」 菩提心をおこすということは、たとえ...
このお坊さんを応援する

毎日が充実しているのではないでしょうか

生きるということは、いつか死ぬということです。
それがいつなのか誰にもわかりません。明日かもしれないし、10年後かもしれない、20年後かもしれないし、10秒後かもしれない。何にも保証がない世界に私たちは生きています。
ですから、いつ死んでしまうのか、多くの人は死にたくない、死ぬことが怖い、と感じ苦しむのです。

あなたは、すでにいつ死んでも悔いがないと言える人生を歩んでいらっしゃるのでしょう。
こういう心持でいることが良いのだということはございません。
ご自分で正しいと思われる道を進んでいけばいいのでしょう。
「積極的に死に向かおうとは思わない」ということで、安心いたしました。
どうぞゆったりとした気持ちで、充実した毎日をお過ごしください。

{{count}}
有り難し
おきもち


禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺副住職。 悩みを吐き出す事で、ちょ...
このお坊さんを応援する

「死について」問答一覧

死について考えてしまいます。

こんにちは。質問をさせていただくのは2回目です。29歳女性、看護師をしています。 今年の1月に祖父が亡くなりました。そして6月に私が入籍し、バタバタな上半期を過ごしてきました。 そして最近、亡くなった祖父母のことを思い出したり、今の夫が亡くなることを考えると涙が止まりません。 「死別という辛い体験をしたくない」「でも死はみんなに平等に訪れるもの」という2つで葛藤しています。 そんな私に夫は優しく寄り添ってくれて何も寂しくないはずなのですが、ふとした時に、悲しい感情が溢れ出てくるのです。 よく行く占いの先生に相談したところ「魂の質が高いのでしょう」「祖父の死と結婚が一気にきたから、結婚後に夫を失うことを恐れているのでは?」という見解でした。 それからは「涙が出るのは仕方ない」ただし、死は皆平等に訪れる仕方のないことであるため「死が訪れるまでは精一杯生きよう」という考えを持つようにしました。 (それでも涙は出てしまいますが…) お坊さんの方々はどのような考えをされるのか、また今の私にアドバイスをお願いしたくて相談させていただきました。 お忙しいとは思いますが、よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 15
回答数回答 2

ある考えに取り憑かれています

少し奇妙な話だと思われるかもしれませんが、お時間いただければ幸いです。 この頃2,3年ほど、頻繁に「死ななくてはならない」という考えが定期的にやってきます。しかし、死にたいわけではないのです。 死ぬということは私にとってはとても恐ろしいですし、いずれ死んでしまうのにわざわざ急ぎたくはないです。 「死ななくてはならない」という考えが出てくる流れは大概の場合 これからも周りの人に迷惑をかけ続けるのなら今のうちに死んだほうがいい、というものですが、これに反論するのは簡単です。 ①死ぬほうが迷惑 ②故意でない迷惑はかけ合って生きていくものだ。などです。 しかしこの「死ななくてはならない」(以下、この考えと表記します) という声はとてもしぶとく、どれだけ論破しようとしても、全て「自分を甘やかして死にたくないだけの言い訳」と思わせてきます。 例えば、「未来の自分が他人にかける迷惑を憂うなんて馬鹿馬鹿しい。そうならないようにいま目標に向かって進んでいるんだ」 と考えると、 「お前みたいなやつが将来どんな貢献ができるんだ。そもそもこんなことをうじうじ考えている時点で頭がおかしいのに、偉そうにほざくな」と、返してしまうのです。 暇さえあればこのような下らない問答を脳内で繰り返してしまうのです。 この考えは大抵非論理的ですが、しぶとく、なにより自己弁護している間抜けさが厄介です。 これだけは確かなことだと信じたいのですが、私は死にたくないです。 自己嫌悪が激しいわけでもなく、自分のこともそこそこ気に入っています。(と自分では思っています。)客観的に自分を見るのは難しいです。 ただ心配なのは、この考えに取り憑かれている時、死というものが軽く感じられてしまうのです。このことはとても失礼で軽蔑するべきだと思います。 おそらく私が恵まれた環境でのうのうと生きているから頭でっかちに考えるのですが、どうか決定的な「この考え」に対しての反論をいただければ幸いです。 なぜなら私はやるべきことがあり、頻繁に思考に時間を割くのが無駄だからです。 長文、拙文失礼いたしました。

有り難し有り難し 11
回答数回答 1

人生にステージはあるのか?

ガン告知から3年。先日、転移が悪化し完治はほぼ見込めず、病巣によって骨折もし、最近は死についてよく考えます。しかしピンときていないのか「死が怖い 死にたくない」というより「死後の世界はあるのか どう人生を閉まっていこうか」といったことが気になり、エンディングノートを書いたり、断捨離したりしてます。 先日、友人とコロナについてや、痛ましいと報道される有名人の人生の集結のニュースについての話になり、私も死についてや「一人で旅立っていくときのことを考える」ということを話すと「考えすぎは良くないよ」と言われました(励ましてくれたのかなと思います) 「私にとっては、この気持ちは日常で、あまり悲観的ではなく考えすぎっていう感じでもないんだよ」と伝えると、はいはい、という感じで流されました。ある友人は「それでも不遇な死はあると思う」と述べました。 理解されなかった気がして、些細な出来事ですがショックでした。 私は、死は死でしかなく、その死は不遇であるかどうか他人が言うものではないと思うのです。また、何かしてあげられればよかった、と必ず思うものですが、簡単に言うことでもないとおもうのです。私も他界した母に何もあげられませんでしたが、してあげられなかったと思いすぎるのも、亡くなった方に対して失礼なんじゃないかと。なら生きているうちにできたではずですし、まず亡くなった人がそれを望んでいたかもわからないし、他人が人にできることは限界があると思うからです。 病気になってから、どうも周囲とのズレを感じ、30代であんまりこんなことを考えている人も今までの交友関係だと少なくて、孤独を感じます。 そして「人生のステージが違うのだ」と思うようになってきました。 それは「私のほうが死に近いステージだからだ、きっと彼らもそうなったときにわかるだろう」というニュアンスもあります。 ふと「それはおごりではないか?」と思い質問させていただきました。 確かに病気や死は近づいた人じゃないとわからないものがあると思います。私が感じた寂しさや孤独を「人生のステージが違うから」と帰着させるのはおごりでしょうか?偉そうな立場からの勝手な帰着なのでしょうか? そして、死に不遇はあるのでしょうか? 人が人の死を不遇というのは失礼なことではないのでしょうか? 私が死について考えるのは「考えすぎ」なのでしょうか?

有り難し有り難し 12
回答数回答 1

関連する問答

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ

相談カテゴリ
-四苦八苦 SickHack!▼ 全カテゴリを見る

仏教駆け込み寺 自殺防止・DV・虐待・鬱 相談窓口のご案内
hasunoha YouTubeリスト 回答層YouTuberのまとめ

関連コンテンツ

縁切り供養寺大法寺