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何を目指すべきなのでしょうか

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2008年くらいに、ふと、もう人生でやり残したことはない、という感じになり、それから7年間生きてきました。
その間に離婚も経験し、子供もいません。

お金もたくさんあるわけでもありませんが、仕事は普通に好きですし、友人たちにも恵まれています。

そういう人たちと旅行に行った帰りなどに、あぁ今日も楽しかったなぁと思うと、もうこれでやっぱり終わっても良いなぁと思ったりします。

積極的に死にたいと思ったことはほとんどほとんどないのですが、終わっても良いとはいつも思います。
こういう時には、どういう心持ちでいることが「よい」ことなのか、お言葉をいただきたいです。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

悟りと来世と他人のために

仏教の善は、自分と他人の悩み苦しみを減らす方向性です。
自分の悩み苦しみがなくなる究極は、悟り(煩悩がなくなること)です。
悟るためには、戒(生活習慣の修行)、定(精神集中の修行)、慧(真理に気づく修行)の三つの修行が基本です。
あとは、慈・悲・喜・捨の四つの心(四無量心)をはかりしれないほどに大きく育てるのも修行です。
また、煩悩が残ったまま死んだ場合は、輪廻転生すると考えられます。
ですから、同じ輪廻するなら悟りやすい環境に生まれかわりたいという仏教徒の人情で、浄土への往生を目指す信仰があります。
南無阿弥陀仏と念仏をとなえて極楽浄土への往生を目指す教えがあります。

以上は、自分のための善いことですが、それに加えて、他人の悩み苦しみをなくすために行動するのも善いことです。

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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

「ほりていく」生き方

まず、もうちょっと降りてきて下さい。(´-ω-`)
まず、自分の事だけずーっとやっていると必ず人生虚しくなります。
別れた奥さんにもっと尽くしておけばよかったとか思いませんか?
親にもっと尽くしておくべきだったとか、人に好かれるような生き方をするべきだったとか思いませんかね?理解し合える友をもっと持つべきだったとか、知音(ちいん)と呼べるような友を持つべきだったとか思いませんかね。
他者に利を提供する。
そういう生き方してみてくださいナ。
人生劇的に充実しまっせ。
自分を満たす為だけだとダメなんです。
人間は大きなアリなのです。
大きなハチなのです。
これが自論ですが、人間もハチや蟻のように、大きな個のために動かなければいけないのです。その大きな個とはあまりにもデカ過ぎて果てがありません。
SOビッグ 超デカ 摩訶摩訶∞XLです。
一言でいえば命と言ってもいいでしょう。
小さく言えば、人間。身の回りの方々。
中くらいに言えば、環境、平和、人権。
「利他」「利行」=他に利(やさしさ、たすけ、ちえ、すくい、よりそい、やすらぎ等)を廻らせる行為が無いと、人生虚しくなりますよ。
仏教の利他とは、強制でも、出家したからそうするとかいうものではなく、それをすることが人間の使命と言えます。
現に今、あなたが虚しいのは他者とのかかわりがありながらも希薄なのではないですか?
自分が頂いた事や、自分が学んだことをどんどん役立ててください。
他人がしてもらって喜ぶような事をどんどんやってみてください。
使命というと大げさに聞こえるかもしれませんが、それをする事で精神衛生面でも、心地が良いものなのです。
「ほりていく」とは、降りていく + ホリスティック + 自分を掘り下げる という意味です。
自分を周りから引き離し過ぎだと思いますよ。
皆と同じ立ち位置に降りていって、もっと自分のプライドをなくして、掘り下げて、社会全体の為に、聖なる生き方を求めてください。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

毎日が充実しているのではないでしょうか

生きるということは、いつか死ぬということです。
それがいつなのか誰にもわかりません。明日かもしれないし、10年後かもしれない、20年後かもしれないし、10秒後かもしれない。何にも保証がない世界に私たちは生きています。
ですから、いつ死んでしまうのか、多くの人は死にたくない、死ぬことが怖い、と感じ苦しむのです。

あなたは、すでにいつ死んでも悔いがないと言える人生を歩んでいらっしゃるのでしょう。
こういう心持でいることが良いのだということはございません。
ご自分で正しいと思われる道を進んでいけばいいのでしょう。
「積極的に死に向かおうとは思わない」ということで、安心いたしました。
どうぞゆったりとした気持ちで、充実した毎日をお過ごしください。

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おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

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