小学生2年生の娘が 死ぬことに対して恐怖を抱いているようです。また、生きてるのかということについても考えて、不安になっている様子です。 思い返すとここ数年で ペット(熱帯魚)が死んでしまったり、娘にとっての曽祖母が亡くなったり、死について考える事は何回かあったのですが、曽祖母は娘自身は会ったこともほとんどない近しい関係ではなかったので、それほどショックを受けるような感じではなかったです。 それでも、人が亡くなったらお葬式をして、お骨になるという事は少しショッキングだったのかもしれません。 私はいつ死ぬの? 死んだらどうなるの? 私は本当に生きてるの? 「まだ死なないから大丈夫だよ。 あなたが死ぬのは、ひいおばあちゃんぐらいの年齢になってからだと思うよ。」 「たくさんいい事をすると天国に行けるみたいだよ。」 などとも話してみたりもしましたが、なかなか不安は解消されないみたいです。 明日死んじゃうかもしれないと泣き始めることもあります。 生きてることについては うまく説明もできず 「自分が生きてるのかを今考えられてるってことはあなたが生きてるってことなんだよ。」と 「我思う故に我あり」のような事を伝えてみたりしても、小学生には、まだ上手く伝わりません。 死への恐怖 死後の話 生きてること どのように話してあげればいいでしょうか?
人は生き物は死んだら無になるのかならないのかその点について詳しく教えて下さい 私は正直言って死ぬのが怖いです
私は、若い内から真剣に死と向き合っていないと、いざ、自分が臨終を迎える時に後悔すると思うのですが、なぜ、大多数の人々は悠長に死から目を背けてお金とセックスのことばかり考えて生きているのでしょうか? 以下、ポエム。 曹洞宗(そうとうしゅう) 無我ひろき 坐禅(ざぜん)
私は何か辛いことがあった時、それは現在もですが、ふと死んでしまいたいと思うことがあります。 しかし、それとは反面、日々の暗い事件やニュースを見ていると死が物凄く怖くなります。死にたくないと強く思うのです。 どうしてこの人は殺されてしまったのだろう、どうしてこの人は事故にあってしまったんだろう、、、 けして皆悪いことをしていたわけじゃないのに、ちゃんと毎日を頑張って生きていた方もたくさんいるはずなのに、それでも簡単に生命が奪われてしまうことに恐怖を覚えます。 そう考え始めると、自分もどんなに頑張っていようがいつか事故に遭うかもしれないし、殺されてしまうかもしれない、、、と考えるようになり、人との関わりがとても怖くなってしまいました。 なぜ、どんなに頑張っていても寿命よりかなり早く亡くなってしまう方がいるのでしょうか?病気、事故、事件、、、様々なものがあると思いますが、それは何か意味があるのでしょうか? 若造の私にはいくら考えても答えは出ませんし、ただただこれからの人生に絶望し、怖くして仕方ありません。 拙い言葉で申し訳ありませんが、ご回答宜しくお願い致しますm(_ _)m
仏教では死ぬ瞬間の感覚をどのように捉えているのでしょうか? 死にたいわけではないのですが、幼い頃から希死念慮というか、死について考えることが多く、最近はコロナの影響で拍車がかかっています。 亡くなった方には聞けないし…。
よろしくお願いいたします。 あまり大きな声では言えませんが、わたしは「死は救い」だと思って日々を生きています。 例えばわたしが死んだ時、それが自殺であっても事故や病死であっても、「可哀想に」ではなく「お疲れ様!がんばったね!」と言って送り出してもらいたいのです。もちろん、わたしのワガママです。普通、大切な人が亡くなったらそんなことを言えるはずない、と承知しています。ですが、何故かわたしは死を救いだと信じて疑えないのです。 この考え方は、やはりおかしいのでしょうか?なので、誰にもわたしの考えを言えません。 わたしは、どこかおかしいのでしょうか?それとも同じ考えの方は結構いて、ただ出会えていないだけなのでしょうか? 宗教のことに疎く、この考えが悪いこととされているのか、思っても良いこととされているのかを知りたいです。
死について最近よく考えます。 飛び降りたい、死にたい、消えたい、悲しい、寂しい、いなくなりたい、さようならと、頻繁に思います。 衝動的な感情ではなく、死ぬという選択肢もアリかと思うのです。 不幸な人生を過ごすより、どれだけマシかと。 決して、精神病ではないです。狂気でもないです。 沢山努力して、頑張ってきた、必死に精一杯生きてきた。 それだからもういい、後悔はない、死ぬんでいいんだ、、、と思うのです。 死ぬのは怖い、苦しい、悲しいだけではなく、死は安らぎ、静穏、慰め、新たなスタート、でもあるように思ったのです。 新たに生まれ変わって、新しい命を生きるのも良いのではないかと。
第二子の長女が生後9ヵ月で亡くなりました。四十九日を数日前に終えました。 元気でよく笑う娘でした。 旦那に留守番を頼んでいましたが、うとう寝てしまいその隙にお風呂の浴槽で亡くなっていました。 今は絶望の日々を送っています。 私にはもう一人、小学校低学年の息子がいます。とても妹を可愛がっていました。 旦那は私に気づかないように泣いているようですが、気付いています。 私は四六時中泣いていましたが、今は息子の前では泣かないように努めています。 そこで質問です。 息子は娘がいつも遊んでいたぬいぐるみを娘だと思って接しています。 気づけば、息子は死に大してあまり理解していないような気がします。 私は人はいずれ死ぬんだよ、遅かれ早かれ。たまたま妹は早かっただけなんだけどね。 こんな説明をしていました。 今後の未来もあるので、妹が亡くなったことをうまく説明できていなかったなと、ふと思いました。 小学校低学年頃の子供にどのような伝えると良いのでしょうか。
身近な人との死別を最近意識し始めました。就職という段階を経て自分が徐々に歳をとってきたからです。身近な人の死は数回経験しています。 なんとなく怖い嫌だなという寂しい気持ちとそれを意識したら普段接する時もいつか別れが来るんだなと複雑な気持ちになります。 また、普段通りすべきなのか特別何か意識して接するべきなのか疑問にも思います。 自分が幸せであることが孝行であるのはわかりますが、就職という次のステージを前にして環境に対する不安感がとても大きいです。自立することで不安感を軽減してあげることが孝行だとわかりますが自分の正直な気持ちがわからない、自分がどうやったら幸せ、生きていけるのかわからないという気持ちもあります。(おそらく毎日3食食べていけることが幸せだと思います。) 身近な人の死別を意識し出した際、その恐怖心をどのようにして受け入れ、考えておくべきなのか。孝行を果たすために自分の正直な気持ちをどのように見つけたら良いのか。この二点についてご相談させていただきました。何卒よろしくお願いします。
「いのちの停車場」(南杏子・著、幻冬舎)という本を、お盆の期間中に読みました。 ・「癌悪液質」 ・「疼痛緩和医療」 ・「疾患別死亡曲線」 ・「譫妄(せんもう)」 ・「下顎呼吸」 この本に出てくる言葉ですが、私の母(2008年死去)の場合は、ほぼ当てはまっていました。諸般の事情で、在宅介護が出来なくなり、最期は病院の緩和ケア病棟で看取ったのですが・・・。 当時は、「緩和ケア」等の考え方が、まだ緒についたばかりで、私も周囲も知識がありませんでした。少しでも知っていれば、こちらの受け止め方も、多少は違っていたと思います。 回答僧の皆様の回答でも、「死」に関するものが、多いですね。心(精神面)だけならば、hasunohaの回答で十分だと思いますが、医療面での知識も必要だと、改めて感じます。 答えのない質問をぶつけて申し訳ないのですが、回答僧の皆様は、主に在宅介護する家族に、「死を学ぶ授業」が、必要だと思いますか?
なぜ動物の安楽死は許されるのに人間の安楽死は許されないのですか? 私は死にたいので安楽死できる動物が羨ましいです…
死とは何ですか?人は、何のために死ななければならないのでしょうか。 生きることに目的や使命があるのはわかります。例えば、魂の修行のため、使命を果たすため、人生を謳歌するため、願望実現のため、など、いくらでも思い付くのですが、 死ぬことにも同じように、目的があるのでしょうか。 先日母を亡くしました。母自身、最後の瞬間でさえも諦めず、頑張ってくれましたが、力尽きてしまいました。 死は誰にでも平等に訪れるものですが、母はまだ50代と若く、母にはまだまだ叶えたい夢がたくさんありました。私も母と共に叶えたい夢や目標がありました。 「まだこの世にたくさん未練がある」と、亡くなる前言っておりました。まだ若い母には、生きる目的や理由が残されておりました。 それなのにどうして、この世を去らなければならなくなってしまったのでしょうか? また、母の場合は癌で苦しみ死に至りましたが、例えば事故死や殺人の場合も、なぜそのような形で死ななければならなかったのかも大変疑問に思います。 どうして、老衰のような、安らかな死に至ることができないのでしょうか…。
こんにちは。質問をさせていただくのは2回目です。29歳女性、看護師をしています。 今年の1月に祖父が亡くなりました。そして6月に私が入籍し、バタバタな上半期を過ごしてきました。 そして最近、亡くなった祖父母のことを思い出したり、今の夫が亡くなることを考えると涙が止まりません。 「死別という辛い体験をしたくない」「でも死はみんなに平等に訪れるもの」という2つで葛藤しています。 そんな私に夫は優しく寄り添ってくれて何も寂しくないはずなのですが、ふとした時に、悲しい感情が溢れ出てくるのです。 よく行く占いの先生に相談したところ「魂の質が高いのでしょう」「祖父の死と結婚が一気にきたから、結婚後に夫を失うことを恐れているのでは?」という見解でした。 それからは「涙が出るのは仕方ない」ただし、死は皆平等に訪れる仕方のないことであるため「死が訪れるまでは精一杯生きよう」という考えを持つようにしました。 (それでも涙は出てしまいますが…) お坊さんの方々はどのような考えをされるのか、また今の私にアドバイスをお願いしたくて相談させていただきました。 お忙しいとは思いますが、よろしくお願い致します。
少し奇妙な話だと思われるかもしれませんが、お時間いただければ幸いです。 この頃2,3年ほど、頻繁に「死ななくてはならない」という考えが定期的にやってきます。しかし、死にたいわけではないのです。 死ぬということは私にとってはとても恐ろしいですし、いずれ死んでしまうのにわざわざ急ぎたくはないです。 「死ななくてはならない」という考えが出てくる流れは大概の場合 これからも周りの人に迷惑をかけ続けるのなら今のうちに死んだほうがいい、というものですが、これに反論するのは簡単です。 ①死ぬほうが迷惑 ②故意でない迷惑はかけ合って生きていくものだ。などです。 しかしこの「死ななくてはならない」(以下、この考えと表記します) という声はとてもしぶとく、どれだけ論破しようとしても、全て「自分を甘やかして死にたくないだけの言い訳」と思わせてきます。 例えば、「未来の自分が他人にかける迷惑を憂うなんて馬鹿馬鹿しい。そうならないようにいま目標に向かって進んでいるんだ」 と考えると、 「お前みたいなやつが将来どんな貢献ができるんだ。そもそもこんなことをうじうじ考えている時点で頭がおかしいのに、偉そうにほざくな」と、返してしまうのです。 暇さえあればこのような下らない問答を脳内で繰り返してしまうのです。 この考えは大抵非論理的ですが、しぶとく、なにより自己弁護している間抜けさが厄介です。 これだけは確かなことだと信じたいのですが、私は死にたくないです。 自己嫌悪が激しいわけでもなく、自分のこともそこそこ気に入っています。(と自分では思っています。)客観的に自分を見るのは難しいです。 ただ心配なのは、この考えに取り憑かれている時、死というものが軽く感じられてしまうのです。このことはとても失礼で軽蔑するべきだと思います。 おそらく私が恵まれた環境でのうのうと生きているから頭でっかちに考えるのですが、どうか決定的な「この考え」に対しての反論をいただければ幸いです。 なぜなら私はやるべきことがあり、頻繁に思考に時間を割くのが無駄だからです。 長文、拙文失礼いたしました。
うつ病患者です。命の重みが理解できません。 蚊やゴキブリは殺していいのに人や動物の命が大切なのはなぜですか? 特別誰かを害したい訳ではありませんが虫にはなくて 自分は大切と言われる命の重みの違いが理解できません。 同じ命であるなら等しく大切にするべきですよね。 正直祖父母が亡くなった今、母と飼い猫はいなくなったら寂しいと思いますが 他の人間(自分も含めて)に対しては別にそう心が動かないと思います。 だからどうこうというわけではありませんが無関心という言葉がピッタリです。 害したくもないが大切とも思えない、いつ終わるとしてもなんともない 自分には関係ない対岸にあるものという認識です。 映画や本を読んで感動して泣くことはあるので、感情がない訳ではありません。 それでも命が大切と言われるとやっぱりよくわからないなと思います。 虫の命は奪っていいのに、それに反して大切にされる自分や他人や動物の命。 この違いは一体どこにあるのでしょうか?そもそも命はなぜ大切なのですか? この質問にお坊さんならどう思われるかなと質問させていただきました。
ガン告知から3年。先日、転移が悪化し完治はほぼ見込めず、病巣によって骨折もし、最近は死についてよく考えます。しかしピンときていないのか「死が怖い 死にたくない」というより「死後の世界はあるのか どう人生を閉まっていこうか」といったことが気になり、エンディングノートを書いたり、断捨離したりしてます。 先日、友人とコロナについてや、痛ましいと報道される有名人の人生の集結のニュースについての話になり、私も死についてや「一人で旅立っていくときのことを考える」ということを話すと「考えすぎは良くないよ」と言われました(励ましてくれたのかなと思います) 「私にとっては、この気持ちは日常で、あまり悲観的ではなく考えすぎっていう感じでもないんだよ」と伝えると、はいはい、という感じで流されました。ある友人は「それでも不遇な死はあると思う」と述べました。 理解されなかった気がして、些細な出来事ですがショックでした。 私は、死は死でしかなく、その死は不遇であるかどうか他人が言うものではないと思うのです。また、何かしてあげられればよかった、と必ず思うものですが、簡単に言うことでもないとおもうのです。私も他界した母に何もあげられませんでしたが、してあげられなかったと思いすぎるのも、亡くなった方に対して失礼なんじゃないかと。なら生きているうちにできたではずですし、まず亡くなった人がそれを望んでいたかもわからないし、他人が人にできることは限界があると思うからです。 病気になってから、どうも周囲とのズレを感じ、30代であんまりこんなことを考えている人も今までの交友関係だと少なくて、孤独を感じます。 そして「人生のステージが違うのだ」と思うようになってきました。 それは「私のほうが死に近いステージだからだ、きっと彼らもそうなったときにわかるだろう」というニュアンスもあります。 ふと「それはおごりではないか?」と思い質問させていただきました。 確かに病気や死は近づいた人じゃないとわからないものがあると思います。私が感じた寂しさや孤独を「人生のステージが違うから」と帰着させるのはおごりでしょうか?偉そうな立場からの勝手な帰着なのでしょうか? そして、死に不遇はあるのでしょうか? 人が人の死を不遇というのは失礼なことではないのでしょうか? 私が死について考えるのは「考えすぎ」なのでしょうか?
高校3年生です。 僕は、多分周りの誰よりも死ぬのに臆病です。 人は必ず死ぬ。その事実をなんとかして受け止めようと、色々模索していたところ、お釈迦さんの教えである「無常」に辿り着きました。 「世の中にある万物は変化し続け、ずっと変わらないものなどない」という様に自分は解釈し、自分の生き方に当てはめてみました。 しかし、ある疑問が出てしまったんです。 僕はあの世とか魂などというものを、あったらいいなとは思いますが、なかなか信じられないでいます。 それ故に、人は死ねば終わりだ、「無」だ、と考えているんです。 お釈迦さんも、死後のことについてはあまり説かれなかったと聞いています。 ならば、死んで「無」であったとしたら、 「無常」という考え方は果たして通用するのか自分には分かりません。 お坊さんなりの解釈やヒントを教えていただければ幸いです。
現在高校3年生です 受験を一通り終え人生の節目に立ったことと、時間がとても余っていて暇なこともあってか、ここ数日死について考えてしまいます。受験とコロナという状況も相まって自室という閉塞的な場所に長期間いて家族以外とあまり会えず精神状態が不安定なのかもしれません。 僕は今までとても幸せな生活を送ってきてこれまでの人生に後悔はありません。 だからこそ、いつか来る終わりが怖くて仕方ありません。 死については科学や宗教など色んな立場の人が色んな意見を出し合っていると思います。 今この世に生きている以上結局死後のことは何も分からないことも分かっています。 けれどあれこれ考えてしまいます。 もう大学生ですし結婚願望もあるので親と一緒に過ごせる時間やそして必ず来る親の死、自分の寿命が尽きた時の自我の消滅などを考えると怖くて仕方ありません。 僕としては自分が死んだら、親や兄弟、ペットとまた幸せに暮らしながら、自分の子孫などを見守り、時が来たらその子とも暮らしたりという、あの世での永遠を望んでいます。 これはとても都合のいい考えだと分かっていますが、こうでも考えないとおかしくなってしまいそうです。 もちろん死ぬまでは精一杯生きるつもりですが皆さんの考えを是非お聞かせ頂きたいです。
死んだら眠ったように意識は無くなりますよね? 本に、霊界へ行くだの魂は生きるなど 書かれておりますが、脳が停止すれば考えることができなくなるので なにも感じませんよね、、、??
先日、親友がこの世を去りました。 学生時代からの付き合いで、今年で23年の付き合いでした。 その親友に、半年ほど前にゲーム機を貸したまま亡くなりました。 可能であれば返してもらいたいとは思うのですが、故人の家族の連絡先を知らないのと、亡くなって直ぐに返してほしいとは言いづらいです。 こういった場合、故人実家に電話しようと思うのですが、亡くなってから何日くらい経過したら電話してもいいとかあったりしますか? また、返してほしいと伝える際に気を付けるべきことはなにかありますか?
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