hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

「死について」問答(Q&A)一覧

2023/11/09

7歳の子どもに「死」をどう説明するか

いつも問答を拝見させていただいております。私もこれまで娘を亡くしたことに関わる自分自身の心の持ち方について何度もご助言をいただきました。今回は、7歳の子どもに娘の死をどう説明したらよいのかをお示しいただきたいのです。 その子は私の姪の子ども(男児)で、娘は彼が生まれたときからずっと可愛がっており、彼もまた娘をとても慕っていました。彼が4歳の時に娘は亡くなりましたが、感受性の高い彼は娘の死を理解してはいるけれど、なぜいなくなってしまったのかが受け止めきれていないのです。娘の三回忌が過ぎたころ、彼は私にだけ問いかけました 「○○ちゃん(娘の呼び名)は若いのになんでお星さまになっちゃったんだろう?」 「何で死んだの?」ではない表現に彼の寂しさと優しさと娘への思いの深さを感じ、答えが出ませんでした。「○○は優しくてみんなが大好きだったから、お空のみんながこっちに来てよーって言ったのかもねー」と答えましたがとっさに思いついたので納得できるものではなかったでしょう。 大好きな人の死をごまかしではなく、でも 現実を傷つけずに話すことにはどうしたらよいでしょうか。

有り難し有り難し 4
回答数回答 1
2023/09/27

死別シングルマザー

夫と死別し、半年経ちました。 死後の手続きなどでバタバタと、忙しくしていましたが、この頃PTSDの症状がでて、とうとう仕事にいくこともできなくなりました。 一ヶ月の休職ですが、休んでる間に収入の不安、子どもたちのこと…色々と考え過ぎてよけいに具合が悪くなっている気がします。 職場からは、また笑顔で戻ってくることを待ってますと温かい言葉を掛けてもらっているのですが、夫を看取った病院が職場の直ぐ側であることや、救急車が頻繁に通ることなどから、正直一ヶ月休んだところで復帰する元気があるかわかりません。何も前に進めない自分に自己嫌悪の毎日です。お金の不安と、パートナーを失くしたことから『風俗』で働いて少しでもお金を…と浅はかな考えも拭えません。時間が長く感じます。こんな姿を夫が見たらなんて思うだろう。夫じゃなくて、不器用な私が先に亡くなればよかったのにとまで考え込んでしまいます。周りには自分のように30代で配偶者を亡くした人はおらず、まるで腫れ物のように感じます。他の家庭を見ると、赤ちゃんが生まれた…家を建てる…夫婦仲良く子育てできてて自分にないものばかり目に映り、生きづらいです。

有り難し有り難し 6
回答数回答 1
2023/09/05

「周りの人間の死」への向き合い方

「周りの人間の死」への向き合い方が分からず、恐らく変な方向に価値観が向かってしまい、常に一定の苦しみを抱えてしまっています。 無理やり挙げるとすれば、恐らく一番大きなきっかけは、2年前に母の母である祖母が急死されたことだと思います。大きな病気やケガもなく元気に畑で過ごしていた祖母の急死に頭が追い付かず、又様々な状況を理由にしばらく会えなかったことや、恩返しなども出来なかったと感じたことによる後悔と主に、「人は急に死ぬこともある」といった至極当然のことに恐怖を覚える様になりました。 その"急死"は脳内で"事故死"等に変換されたようで、現在は「自分が何か人に頼むことで事故死するかも」といった恐怖をもってしまっています。私が親に頼んだ買い物の道中で死ぬかも、私が選んだ待合場所のせいで、指定した時間のせいで友人が死ぬかも、と思うと、所謂"普通の価値観"で人に頼る事、あまつさえ意見や提案事の提示も難しくなってしまいました。 正直自分の死は大して怖くはありません。ただ、もしそういった状況で知人が亡くなってしまえば、仮に明らかに自分のせいではなくとも「自分がこの人を殺した」と思ってしまうに違いないと感じています。又そういった気持ちを抱えてその後の人生を全うできるとは到底思えません。 バタフライエフェクトのレベルで「人の死に関与したくない」といった気持ちが大きくなってしまい、生き苦しさを感じてしまっています。 この価値観が、俗にいう「変・ずれている・間違っている・過剰」ということは頭では理解できているつもりです。ただ、どうにも心がこういった考えを除いてくれません。 もし仏教などを用いて少しでも楽に生きることが出来るのであれば、と思い、相談させていただいている次第であります。ご意見をお伺いできますと幸いです。よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 2
回答数回答 1
2023/08/27

病気になって死を考えるようになった

現在,一人暮らしをしている中年男性です。 先日から病気をしています。病気になって,一人暮らしなので,闘病しながら食事,洗濯の家事をしないといけません。また,食事のための買い出しも必要で,誰か助けてくれないかと,常に考えています。 知り合いに食事を作って持ってきてください,といった厚かましいお願いはできないもので,そういったお願いができる知り合いがいるわけではありません。 闘病を続けながら,食欲もなく,痩せていくし,気力も失ってきています。 また,コロナ禍で,一人亡くなっていった方もこのようなつらい状況であっただろうと想像し,そのため可能であれば入院させていただいて,看病していただけないかと,勝手な思いが巡ります。 そして,こんなに苦しい状況なのに,これを乗り越えて「生きる理由」はあるのだろうかという考えが頭をよぎっています。 ある程度の人生は送ってきました。これから先もいろいろと楽しみもあると思いますが,生老病死は,四苦なので,病気を克服するのも,その後,克服した後に生きていくのも苦しいのだろうと,勝手に解釈をしたりします。 だったら,もうここでいいや,と思ったときは,死ぬことができたらいいなぁ,眠るときにこのまま目覚めなければいいな,と考えるようになっています。 自死については,以前は否定的ではありましたが,闘病の中で,それは個人個人の自由でいいのではないかと思うようになりました。 自死していった方は,苦しい中,生きることに耐えられなかったのだろうなと,共感できる心持になっています。 病気をして,手厚く看病してくれる人がいる状況であれば,それはそれで,心配してくれる人のために生きる理由があっていいのですが,そうでない私は,一人で非常に苦しい,不安です。そんな私が,命尽きるまで闘病するかもしれないという選択をして,生きる理由はなんでしょうか。 誰も助けてくれる人もいない,ただ病気と闘って,死を待つだけかもしれない。 最後は,一人,孤独死を迎えるのかもしれないと思うと,寂しく,不安です。 そういった中で,このサイトに行き当たりました。 取り留めない文章になりました。 回答をいただければ幸いです。

有り難し有り難し 13
回答数回答 2
2023/08/03

死んではいけない理由を教えてください

駄文につき失礼致します。 私は大学生です。 様々なストレスが重なりうつ病を発症しました。目下治療中です。 薬を飲み始めてからは落ち着きましたが、昔は希死念慮がよくありました。漠然と死んでしまいたいと思うことがよくありました。 投薬による治療や、様々な死生観等に関する書籍を読むうちに次のような価値観が形成されました。 死んでしまっては選択肢がなくなる。 生きているうちは選択肢が無数にある。 生きる事に行き詰まって選択肢がなくなってしまったと思ったら、死ぬことを考えよう。 これは今私が生きている理由の一つですが、この考えは一見生きることに前向きなようで死ぬことを否定していないのです。 言い換えれば、いつでも死ねると言う風にも捉えられます。 私は今のところ死ぬことは勿体無いと考え自殺を踏みとどまっていますが、自殺を否定する理由は未だに見つけられていません。 生きている限りいつかは死が訪れるものであり、やがては受け入れなくてはいけないものだと考えていますが、自ら死に近づく行為はいけない事なのでしょうか? 確かに、人が皆自殺を礼讃するようになれば人間社会は成り立たなくなってしまいます。 しかしながら生きることが権利ならば死ぬこともまた同様なのではないかとも考えてしまいます。 どなたかお力添え頂ければ幸いです。

有り難し有り難し 11
回答数回答 3
2023/03/28

『死』はなぜ否定されるのでしょうか?

なぜ『生きたい』などポジティブな事は肯定され、『死にたい』というネガティブな事は否定されるのでしょうか。 死ぬことは逃げですか、生きる義務なんてありますか。 もう何年も前からずっと死にたい思いがあります。年々増すばかりです。いつ死ぬのか、どんな風に死ぬのかしか考えられません。 朝昼夜に関わらずずっとあります。誰といようが頭から離れることはありません。 毎日自分を見失います。親も友達も私自身を見てくれない。理想の『私』以外は要らないんです。 勇気を出して泣きながら本音を話しても、何も変わらなかった。私の本音と涙はあの人らから見たらただの軽いものだった。 闘病により亡くなった方は頑張ったと肯定されます。生きる事全てが苦痛で仕方なくて自殺したのだとしたら逃げだと言われます。相談するべきだと。 どちらも苦しんでいるのになぜこんなにも違うのですか。 今の私は誰も自分自身も信じられない。本音を話そうにも言葉はでません。家族も友人もあらゆる事全てが私を追い詰めるんです。生きているのが怖いです。全てが私を苦しめる要因になるんです。死にたいです。なんで死んではいけないんですか。 否定されて生きてきました。 何をするにも否定されました。 死んだら悲しむ人がいるとかそんなの求めてません。それだって私の気持ちを否定する言葉にしか聞こえない。 したい事を見つける?もっと前向きな事を考える?信用できる人を見つける? それすらできないんです。この文章を書くのでさえ体力が必要なんです。 ずっと前から感動とか良い方に感情が動き難くなりました。マイナスな事ばかり考えています。人に気を使って神経すり減らす毎日。 こんな私に生きている価値なんてない。 だから死にたい。 なのにそれはダメな事と言われる。 死ぬことを肯定してくれないのはなぜですか。 あらゆる事からのストレスで苦しんで体調も崩して、死にたい思いしかないのに、無理して生きていなくちゃいけないんですか。 治る見込みのない病気やがんになってしまった方には、安楽死や尊厳死があります。 選ぶ権利がある。 自分を殺す事に関しては同じだし、私だってコレが治る見込みはない。自分勝手だから、迷惑だからダメなんですか。 うまく文章がまとめられくて長くなってしまった上に読みにくくて申し訳ないですが、答えていただきたいです。

有り難し有り難し 60
回答数回答 3
2023/03/28

魂や死について

 二回目の相談になります。宜しくお願いします。  前回は、将来の衰えや死について想像してネガティブ思考が突然大爆発を起こしてパニック状態になって思い切り体調を崩していました。  今はこのサイトのお坊さんや色んな方からのアドバイスを受けて気持ちが改善に向かっています。ありがとうございました。  今回は「魂」についての話です。  死や魂についての相談は様々な掲示板で見る事が出来て、その回答に「身内やペット達とも魂は繋がっているので死後また会える」「今は魂が肉体に入っている状態で、肉体が亡くなったら魂は別の世界に行く」というものがあり印象的でした。  「今生きてるのは魂の修行中で、その様子を別世界のもう一人の自分が眺めている」という方も居ました。  「どうせみんなまた会えるんだし、怖がっていないで今を精一杯楽しく生きよう!」という話もあり、自分はこの話が心に響いて気持ちの切り替えが以前よりも大分スムーズに出来るようになりました。  様々な創作物や海外の番組等でも、魂やあの世という考えが見えて(海外作品の場合は日本語訳)、そういうものなんだなぁと考えると少し気が楽になります。  そこでふと思うのですが、私は巷で言われている心霊現象というものを体感した事が無いです。(守護霊が強いので守ってもらっているので感じずに済む、というお話を色んな方から頂きました)  周りの人が「今何かの霊が通った気がした」「存在を感じた」と言っても私は体感した事が無いのでいまいちピンときません。  神社が近くにあるので気軽に挨拶をしたり家の神棚掃除やお供えをしたりというのが昔からの習慣で、だらだらではなく信仰というか真面目に見返りを求めず感謝の念を今でも伝えています。神社などはそういう現象を感じる機会の多そうな場と思いますが、明確な感触というのは特にないです。手水を取って挨拶をしてスッキリ爽やかな気持ちにはなります。  実は私が感じていないだけで周りに存在しているのかなと考えたりもします。周りの人たちからそう教わったりもします。  いわゆる「霊感のある人」は、魂やあの世の存在を感じていたりするのでしょうか?  そんなの根拠が無いし存在しない、という考え方も理解できます。  普段、色んな方の霊、魂、あの世に関する考えを聞く機会が無いので、お話を聞きたくて投稿させて頂きました。  宜しくお願いします。

有り難し有り難し 4
回答数回答 1
2023/03/25

実際に死とどう向き合っていますか?

以前より、死の恐怖について相談をさせていただいており、大変お世話になっております。 たくさんの方から頂いたご回答はどれも暖かく、そして勉強になっております。ありがとうございます。 問答の中で、自分の弱い点や、認知や考え方の歪みがわかり、この方法で恐怖を緩和していこうという方向性は見えつつあるのですが、恐怖緩和に対するどの方法を行うにしろ、習得や納得(体でわかるまでやる、なども含め)には多くの時間を要します。死は人生の命題ですので、一年やそこらで恐怖が激減し、納得することはできないと考えます。 私は方向性としては、禅などの「体で納得」を目指したいと考えていますが、これこそ一朝一夕で身につくものではないですし、仕事等による時間の制約もあり、納得に至るには長年の修行が必要だと感じています。 そんな風に時間をかけてゆっくりと学びを深めてはおりますが、もちろんその間にも死への強い恐怖感は消えません。特に、楽しいことがあった日の帰り道や夜には、必ず「この思い出も自分の存在もいつか消える」という思いで気が狂いそうになり、パニック症状が出ます。 それを、娯楽へ走ったり、禅と宗派は異なりますがお念仏に頼ったり、お墓やお寺に行ったりと、一時凌ぎでやり過ごしているのが現状です。このように、最近は「いつか死ぬ」ということがいつも恐怖で気掛かりで、楽しい・嬉しいなどのポジティブな場面が心から楽しめないような感覚になっています。 前置きが長くなりましたが、 お坊さん方の中に、今に至るまでに修行をなされている間に私のように気持ちが揺れたり、恐怖でパニックになったりしたご経験をなされている方がいらっしゃいましたら、「ご自分が一旦、その問題(私で言うところの死の恐怖)への納得感を得られるまで」に、どのような心持ちや行動で過ごされていたのかをお聞きしたいです。 また、現在も私は死の恐怖緩和についての対処を学んでいる最中ですので、もし同じ問題に悩み、納得した方法や考え方があれば、併せて教えて頂けると嬉しいです。 お時間ある時で構いません。様々なご回答を聞きたいです。お手数をおかけ致しますが、ご回答頂けますと幸いです。何卒よろしくお願い申し上げます。

有り難し有り難し 13
回答数回答 2