安楽死の合法化
今、安楽死について習っています。
私は、安楽死を合法化するのはいけないとおもいます。
もし自分が重い病気になって、安楽死が合法化されていたら、安楽死したいと思うかもしれません。
でも、まだその病気で死ぬとは限らないし、
今の医学からしたら治る可能性も十分あると思っているので、どんな理由があっても薬剤などで直接手を下して患者の命を断たせることはいけない。
そして、病気になって苦しくて、死んで苦しみから解放されたいと思うことはあるかもしれないけど、どんなに苦しくても、病気と向き合って頑張って負けずに闘ってほしいと思うので、安楽死は合法化しない方がいいと私は思います。
和尚さんは、安楽死についてどう思いますか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
それでも本当に死にたい人は死んでいる事実
今日も80人の方が自ら命を落としました。
年間3万人が自死を選択しているからです。
生きることが「辛い」と思い「こんなつらい思いをするのであれば死んでしまった方が良い」とすら思ってしまうのが悲しいことに人間の性です。
生きながらえたい、永遠い生きたいと思うのも人間のエゴ。
死んでしまいたい、今すぐ死にたいと思うのも人間のエゴ。
根柢にどちらも人間のエゴがあります。
分かりやすく言えば、自分が自分のエゴに支配されているのです。
自分が自分のエゴに支配されていると、エゴが生み出した虚妄の願いや思いに支配されます。
まずは、そこに向き合う必要があると思います。
生きたいと思うのも人間の自我。
死にたいと思うのも人間の自我。
仏陀、悟った人は、自分の思い・自我から自由になっています。
だからせいに過度に執着せず、自ら命を縮めることもせず、天命、天寿を全うします。
「人間だけが行う【人為】」というものがあります。
仏教の救いは、その人間の【人為】から自由になる心を得ることです。
自分の自我を鎮め得れば、無理矢理命を絶つ事もなく、自分だけ生き永らえようという心もなくなるからです。ここのところを参究なさってください。
他人の痛みは計り知れない
難しい問題ですね。
はたから見ているとそんなに辛くないように見えても、本人の苦しみは死にたくなるくらい辛いものかもしれません。
安楽死と尊厳死も違うのかもしれませんが、かなり限定した条件下では、認めてもよいのではないかと、個人的には思います。
病気ではないですが、あなたがもしテロリストに捕まって、毎日毎日何時間も拷問されら、もう死んだほうがマシだと思ってしまうかもしれません。
それを誰が責められるでしょうか。
個人的には、悩み苦しみから解放されることは重要だと思います。
さまざまな選択肢があることは、良い面もあると思います。
苦しみの原因
そのとおりです。
本人はもちろん、ご家族も苦しい。
苦しみから逃れることは簡単です。
しかし何故病気になり苦しむのか、何故病気の家族を持たなければならないのか。
その理由を考えるのが宗教です。
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結果には必ず原因があります。
病気になる原因はもちろんですが、病気の家族を持たなければならない原因もあるのです。それは生まれる前の世界にまで遡ります。
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誰かに今の自分と同じ悲しみと苦しみを与えたことが原因となって、今その報いを受けているのです。
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悪い事をしたら罪を償うのは当たり前ですね。過去世の罪を償うために今苦しんでいるのです。
病気の苦しみから逃げるということは、過去世の罪から逃げることですから許されないことです。
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もし、身内を殺されたとしたら犯人には罪を償って欲しいですよね。罪を償うのが嫌で逃げていたら、僕だったら腹が立ちます。絶対に許しません。
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不運不幸困難から逃げるのではなく、あなたの言う通り、立ち向かわなければならないと考えます。
拙生も「安楽死」は合法化しない方が良いと思っています。
あゆみ様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「安楽死」につきましては、これまでにも下記の各問いにて少しく扱わせて頂いております。
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/tag/安楽死
個人の尊厳の尊重の観点から鑑みても、「安楽死」は合法化しない方が良いと思っています。
仏教では、死は終わりではなく、今の肉体が滅んだ、その後も続いていく心の状態(心相続・心の連続体)をどうするべきか、もちろん、死を迎えるまでにどのように調えておくべきか、ということが大切となります。
ダライ・ラマ法王猊下様は、「安楽死」について、以下のように昔に述べられています。
「仏教の観点からすると、臨終の床にある人間が、肯定的な、善なる考えを抱く機会があるならば、わずか数分でも長く生きることは意味があり、大切である」
「死にゆく人が肯定的な、善なる考えを抱く可能性がまったくない場合、単にその命を維持するために膨大な金を費やしても、たいして意味は感じられない。しかし、いずれの場合も、個々の事情を考慮すべきだ。一般化するのは危険といえる」
この問題に関しましては、肉体と心は、別で考えるべきであると思っております。
肉体の働き・作用がほとんど無くなる、機能しなくなろうとしていても、存続していく心の状態を重視して、その赴きがより善いものとなるように、できるだけ本人も周りも努力することが大切となります。
とにかく、死にゆく者の「心」の状態を尊重し、どの選択がより善い心の存続のためになるのかを、周りの関係者も含めて、個々の事情を考慮して、慎重に選択していくことが必要であると存じております。それを法律で一律に決めてしまうというのは、やはり難しいものになるのではないだろうかと存じております。
川口英俊 合掌