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安楽死の合法化

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今、安楽死について習っています。
私は、安楽死を合法化するのはいけないとおもいます。
もし自分が重い病気になって、安楽死が合法化されていたら、安楽死したいと思うかもしれません。
でも、まだその病気で死ぬとは限らないし、
今の医学からしたら治る可能性も十分あると思っているので、どんな理由があっても薬剤などで直接手を下して患者の命を断たせることはいけない。
そして、病気になって苦しくて、死んで苦しみから解放されたいと思うことはあるかもしれないけど、どんなに苦しくても、病気と向き合って頑張って負けずに闘ってほしいと思うので、安楽死は合法化しない方がいいと私は思います。
和尚さんは、安楽死についてどう思いますか?


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

それでも本当に死にたい人は死んでいる事実

今日も80人の方が自ら命を落としました。
年間3万人が自死を選択しているからです。
生きることが「辛い」と思い「こんなつらい思いをするのであれば死んでしまった方が良い」とすら思ってしまうのが悲しいことに人間の性です。
生きながらえたい、永遠い生きたいと思うのも人間のエゴ。
死んでしまいたい、今すぐ死にたいと思うのも人間のエゴ。
根柢にどちらも人間のエゴがあります。
分かりやすく言えば、自分が自分のエゴに支配されているのです。
自分が自分のエゴに支配されていると、エゴが生み出した虚妄の願いや思いに支配されます。
まずは、そこに向き合う必要があると思います。
生きたいと思うのも人間の自我。
死にたいと思うのも人間の自我。
仏陀、悟った人は、自分の思い・自我から自由になっています。
だからせいに過度に執着せず、自ら命を縮めることもせず、天命、天寿を全うします。
「人間だけが行う【人為】」というものがあります。
仏教の救いは、その人間の【人為】から自由になる心を得ることです。
自分の自我を鎮め得れば、無理矢理命を絶つ事もなく、自分だけ生き永らえようという心もなくなるからです。ここのところを参究なさってください。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

他人の痛みは計り知れない

難しい問題ですね。
はたから見ているとそんなに辛くないように見えても、本人の苦しみは死にたくなるくらい辛いものかもしれません。
安楽死と尊厳死も違うのかもしれませんが、かなり限定した条件下では、認めてもよいのではないかと、個人的には思います。

病気ではないですが、あなたがもしテロリストに捕まって、毎日毎日何時間も拷問されら、もう死んだほうがマシだと思ってしまうかもしれません。
それを誰が責められるでしょうか。
個人的には、悩み苦しみから解放されることは重要だと思います。
さまざまな選択肢があることは、良い面もあると思います。

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おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

苦しみの原因

そのとおりです。
本人はもちろん、ご家族も苦しい。
苦しみから逃れることは簡単です。
しかし何故病気になり苦しむのか、何故病気の家族を持たなければならないのか。
その理由を考えるのが宗教です。
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結果には必ず原因があります。
病気になる原因はもちろんですが、病気の家族を持たなければならない原因もあるのです。それは生まれる前の世界にまで遡ります。
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誰かに今の自分と同じ悲しみと苦しみを与えたことが原因となって、今その報いを受けているのです。
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悪い事をしたら罪を償うのは当たり前ですね。過去世の罪を償うために今苦しんでいるのです。
病気の苦しみから逃げるということは、過去世の罪から逃げることですから許されないことです。
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もし、身内を殺されたとしたら犯人には罪を償って欲しいですよね。罪を償うのが嫌で逃げていたら、僕だったら腹が立ちます。絶対に許しません。
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不運不幸困難から逃げるのではなく、あなたの言う通り、立ち向かわなければならないと考えます。

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おきもち

「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れることの出来ない世界であるという。絶対に逃れることが出来ないにも関わらず、「平等」によって或いは「楽」によって人間が救われるというのは矛盾である。 不平等で辛苦極まりないこの世をあきらめ死後に救いを求めるのも人間否定そのものでお話にならない。 平等というのは自分が助かりたいという思いから生まれた自己優先の魔界の教えである。仏教はそうではない。 人を助けることを優先にすれば自分も救われるという考えだ。 人のために活きることで不平等が不平等でなくなり、辛苦が辛苦とも感じなくなるのである。 世のため人のために働いてみる。 「有り難う」 その言葉で、人はそれまでの苦労が苦でなくなるのである。 これが仏教の真の教えである。 生温い癒やしなどまったく意味がない。 積極的に人生を切り開くための教えに耳を傾けるべきである。 お寺やこのようなサイトの利用は一回にとどめなければならない。何度も相談するということは、まったく良くない傾向である。 お坊さんから聴く「仏の教え」によって生きる力を得て、二度とお寺に相談する必要がない幸せな人生を手に入れて欲しい。 本来ならば実際にお寺に足を運び相談すべきである。ここでご縁のあったお寺さんに必ず足を運ぶべき。それが億劫ならばその程度の悩みだということ。本当に切羽詰まっている人は必ずお寺に足を運ぶ。 その観点からご自身の悩みがどの程度のものなのかを推し量ってみることも有効であろう。 それと仏の教えが必要のない質問は無視する。なんでも応えてくれると思ったら大間違いだ。

拙生も「安楽死」は合法化しない方が良いと思っています。

あゆみ様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「安楽死」につきましては、これまでにも下記の各問いにて少しく扱わせて頂いております。

http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/tag/安楽死

個人の尊厳の尊重の観点から鑑みても、「安楽死」は合法化しない方が良いと思っています。

仏教では、死は終わりではなく、今の肉体が滅んだ、その後も続いていく心の状態(心相続・心の連続体)をどうするべきか、もちろん、死を迎えるまでにどのように調えておくべきか、ということが大切となります。

ダライ・ラマ法王猊下様は、「安楽死」について、以下のように昔に述べられています。

「仏教の観点からすると、臨終の床にある人間が、肯定的な、善なる考えを抱く機会があるならば、わずか数分でも長く生きることは意味があり、大切である」

「死にゆく人が肯定的な、善なる考えを抱く可能性がまったくない場合、単にその命を維持するために膨大な金を費やしても、たいして意味は感じられない。しかし、いずれの場合も、個々の事情を考慮すべきだ。一般化するのは危険といえる」

この問題に関しましては、肉体と心は、別で考えるべきであると思っております。

肉体の働き・作用がほとんど無くなる、機能しなくなろうとしていても、存続していく心の状態を重視して、その赴きがより善いものとなるように、できるだけ本人も周りも努力することが大切となります。

とにかく、死にゆく者の「心」の状態を尊重し、どの選択がより善い心の存続のためになるのかを、周りの関係者も含めて、個々の事情を考慮して、慎重に選択していくことが必要であると存じております。それを法律で一律に決めてしまうというのは、やはり難しいものになるのではないだろうかと存じております。

川口英俊 合掌

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最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

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