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死について

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高齢者の安楽死についてご意見をお願い致します。90歳になる身内の者が倒れ入院となった際、医師に言われました。平均寿命を超えているからもういいのではと。つまり、延命治療をせずに逝かせるということです。家族は反対し、できうる限りのことをしてほしいと願いましたが、いざ胃瘻をどうするかの際に、この医師は容態について虚偽の説明までして胃瘻を阻止しようとしました。

高齢者の医療負担が大きな問題となっていますが、この医師も口から食べられなくなったら寿命とは言うものの、だからといって家のように栄養を少しずつ減らして二三ヶ月で逝かせましょうだなどと私はどうしても疑問を拭うことが出来ません。

医師が捉える死と御坊様が捉える死とは違うとは思いますが、命を救うのが医療であって、そこに延命も何も無いのではと私は思ったりもするのです。蝋燭は燃え尽きてこそ終わりです。口から食べられない、平均寿命を超えていることから死に至らしめようと安易に考える医師に私は命に対する驕り高ぶりと恐ろしさを感じます。たとえ口から食べられずとも、今その目の前に尽きていない命があるのですから。


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お坊さんからの回答 6件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

医師への信頼感

トオルさま。なごみ庵の浦上哲也と申します。

90歳のお身内の方が入院をされたのですね。
質問文を読んで感じたのは、トオルさんが担当の医療者に対して信頼感を持てないのが、大きな要因なのではないか、ということです。

私もそこに居たわけではないのでトオルさんからのお話だけですが、「平均寿命を超えてるからいいのでは」「口から食べられなくなったら寿命」「二三ヶ月で逝かせましょう」というドライな言葉に、ご家族もトオルさんも傷つき、憤慨されているのではないでしょうか。

もし長い付き合いのある信頼している医師で、「○○さん、今までよく頑張ってこられましたね。皆さん、お疲れさまでしたと言って、お送りしてあげてはいかがでしょう。」と言うのであれば、また受け止め方も違うのではないでしょうか。

仰る通り、医師と僧侶の死に対する捉え方は違います。でも私はその医師は、僧侶と近い感覚をお持ちのように思いました。

医師は、死を否定します。それはもともと、医療が死を否定するからです。病気もケガも治して元気になりましょうね、というのが本来の医療のあり方だと思います。
しかし僧侶は、「どんなに医療が発達しようが、生命は必ず終わりを迎える。いかに死を迎えるか、それがひいては生を輝かせるのだ」というような考え方をする方が多いと思います。

トオルさんの仰るように、その医師が「平均寿命を過ぎてるからいいんじゃないですか」という安易な考えであれば、それはあまりにも患者や家族の気持ちを無視していると思います。
しかし、「何歳であろうが胃瘻や様々なチューブを繋げ、何が何でも延命をする」という方が、命に対す驕り高ぶりではないかと、私は感じます。

何にせよその90歳の方は、トオルさんやそのご家族に大切に思われていて幸せな方だな、と思います。その方が今後どうなっていくのが本人にとって幸せなことなのか、ご家族と冷静によく話し合ってお決め下さい。一度胃瘻や人口呼吸器を使えば、途中で止めることは出来ないのですから。

<追記>
お礼を拝見し、私など遠く及ばないほどトオルさんが深く考えておられることに気づけず、申し訳ない気持ちになりました。
私もトオルさんご一家も、90歳の方から多くを教えられているのだと思います。よく亡くなった方を仏と言いますが、その方はすでに仏として私たちを教え導いて下さっていると感じました。

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浦上 哲也
横浜市神奈川区で、新しく小さなお寺を営んでいます。 仏教の教え・浄土真宗...

無理に生かすことが本人の幸せかどうか

命を救うのが医療ですが命を長らえるのは違うと思います。
よろしければこちらをご覧ください。
http://news.livedoor.com/article/detail/6538475/
老人ホームの常勤医を務め数百例の自然死のお年寄りを見送ってきた方のお話です。
人間は必ず死にます。でもそれを長らえようとするのは、まわりの人がその人の死とお別れを受け入れたくないからではないでしょうか。

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一般家庭に育ち会社勤めをしていましたが28歳の時に得度。2年間の研修を終え...

悔いの残らないよう、できる限りのことを

たとえロウや芯が尽きても、足してサポートしてあげればまだ灯り続ける命の火なら、私は消しません。
生きる可能性のあるいのちに対して、できることを精一杯してあげたい。そう考えるのは、家族なら当たり前のことです。
「生かすべき命」と「そうしない命」の線引きは、年齢や病状で測るものではないと考えます。

本人や周りがどんなに「生きたい、生かしたい」と頑張っても、いずれ必ず人のいのちは尽きます。そのときが本当の寿命と、私は思います。死を受け入れるのは、そのときでよいのではないでしょうか。

どうか悔いの残らないようになさってください。

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青森県生まれ、宮城県在住。ミャンマー語が好き。子ども3人。 お寺の生まれ...

いのちは本当は誰のものか

この問題には道元禅師が一つのヒントを出されています。
正法眼蔵 生死の巻に
「この生死は、即ち仏の御いのち也。
 これをいとひすてんとすれば、すなはち仏の御いのちをうしなはんとするなり。
 これにとどまりて生死に著すれば、これも仏のいのちをうしなふ也」
(意訳)
私たちの個々の命の生き死には、自分の命ではあるものの「仏の御いのち」であります。
すなわち自分化、わたくし化、個人によって所有化されるべきものではなく、天地自然の大いなる命の川の流れに任されるべき、大海の一滴水である。
これを自ら嫌い、捨ててしまうことも、仏の命の営みを損ない、失う、壊す事。
また逆にこの命に執着することも、仏の命の在り方を失うものです。

よって、個人の命であっても、個人の意思によって、人為的に延ばされたり縮められたりされること自体が、仏の命という大きな流れ、公の在り方から外れされせ、私的な在り方として存在させるてしまうものであるという風にも取れます。
道元禅師は「こうしなさい」とは直接的に示されてはあいませんが、私はこの教えには、命のありようはわたくし化されるべきものではない、と、いつの世の人も持っておくべき心構え,が説かれているように感じます。

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丹下覚元(たんげかくげん)
☎お悩み相談 質問 📞08020659278 どなたでも。

命を救う、とは。**至上主義に「もういい」はない。

トオルさん、こんにちは。気を揉む毎日ですね。

安楽死、尊厳死について。
仏教者としては明確なスタンスを取ることはできません。
と同時に、お医者様としては明確なスタンスを取らなければならない。
お医者様と仏教者。それぞれの行き着く先はどこでしょうか?すべては“命を救う”につきると思います。
死んでのちに“命を救う”とはなにごとか、という感じかもしれませんが・・。
死後のことは分かりません。分からないこそ、分かろうとしたり、想像したり、行動できるはずです。医療者でもなんでもない私たちが出来ることでもあります。

お医者様としては治療にかかわりますから、明確なスタンスを取らねばならない。身内・ご家族としては我がごととして関わっていく覚悟を示さねばならない。
トオルさんたちとお医者様との信頼関係・すりあわせによって、かならずや道が開けることを信じます。

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「~です」とは、「~だと、ぼくは思うのです」ということです。 回答は、書...

ブラックジャックの苦悩

トオル様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

愛する近しい人に対して、延命治療や安楽死・尊厳死を考えなければならない状態・・非常につらいお立場でありますことをお察し申し上げます。

延命治療の是非、安楽死や尊厳死に関することにつきましては、これまで下記の問いにも回答をさせて頂きました・・が・・拙生、いまだ明確な答えを持ち合わすことができておりませずにて大変に申し訳なく存じております・・

問い「後悔の毎日」
http://hasunoha.jp/questions/172

問い「最期に苦しむということ」
http://hasunoha.jp/questions/95

特に不殺生戒を説く仏教において、安楽死や尊厳死をどのように考えるべきであるのか・・

正しい看取りとはいったい何か・・

正しい死の迎え方とはいったい何か・・

とにかく・・死は終わりではありません。このことは、問い「死を考えてしまう」( http://hasunoha.jp/questions/318 )におきましても扱わせて頂いております。

どうか、祖父(祖母)様の心(相続)の赴きが、確かなるご仏縁を戴くことにて、お安らかでありますように、悟りへのお導きがありますようにとお念じ賜ることと併せて、問い「末期がんの父親にどう接したら良いかわからない」( http://hasunoha.jp/questions/227 )におきまして述べさせて頂いておりますように、「・・臨終に際して、穏やかに安心して心が落ち着いた状態を保てるようにとして、看取る者たちが、優しく温かい言葉を掛けてあげること、感謝や報恩の気持ちを伝えること、後顧の憂いを無くしてあげれるようにすることなどを通じて、できるだけ安らかに逝かせてあげれることが必要となるのではないかと存じております。・・」、として、その時まで、どうか優しく温かい言葉を掛け続けて頂けましたらと存じております。

「医師の驕り高ぶりと恐ろしさ」・・延命治療の抱えるジレンマ・・「いのち」と常に真摯に、真剣に向き合い続けるブラックジャック先生ならばこのような場合において、どのようになさられることでしょうか・・

拙生も、一僧侶と致しまして、これからも悩み考え続けて参りたいと存じております・・

川口英俊 合掌

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川口 英俊
チベット仏教 ツォンカパ大師中観思想・後期二諦説の研究

質問者からのお礼

ご回答いただいた皆様、誠にありがとうございます。

私のご相談の仕方が要領を得ていない部分もあり、どの点をお答えになればいいのか迷われたかもしれませんね。お許し下さい。

私の家の者に限らず、人は誰でも死にます。必ずその時が来ます。何をやってもです。しかし、今さまざまな理由から安楽死の法制化などの動きが出始めています。御佛が説く死とは何なのか? この世が生きて修行をする場なら、この世で負うべき苦もまた然り。それが死への苦しみであってもです。ですが、安易に安楽死となってしまうと、その者が苦しんで終わらすべき業?というか何ものかを放棄することにはならないのか。そのような疑問を持ったのです。

また、医師は純粋に何を診るべきなのかといった疑問もありました。根本を問うているのです。人を診るのではない、その人に宿る生命と肉体を診るのではと私は思っています。人を見たつもりでいるから、平均寿命だの、どうせ数年で逝く命だから、栄養を下げてなどと言い出す。しかし、そこに至るまでも生きているのです。老若にかかわらず生命はあるのです。それは同じ重さでなければなりません。同じ治療のはずなのに高齢者となるとやれ『延命』だのと騒ぎ出す。これもおかしいのではと。命の重さに差別をしているようなものと私は思ってしまうのですね。ましてや医師が患者を死に至らしめることを誘導することはあってはならないし、それを果たすために虚偽の容態の説明をするのも言語道断です。決してミスリードはあってはならない。

家は胃瘻をしました。人には順応性があります。毎日笑顔で過ごしています。言葉を話すようにもなりました。寝たきりではあるものの、これまでよりも多く顔を合わせ、意味は通じないものの言葉を交わしています。胃瘻をしていなかったら、医師の虚偽の説明に乗っていたら、既に今は亡き者となり、このような大切な時間(お互いを大切に思える時間)を決して持つことは出来ませんでした。胃瘻をしていても、必ず逝きます。何をやってもです。

私は自分の経験から、医師が容易に人の生き死にに介入することはあってはならないと現時点では思っています。なぜなら医師も完璧ではない。一つの治療をとってもマチマチです。本来なら生きられるべき者も、下手をすれば死を迎えることになる。ましてやそこに死に至らしめるという誘導があっては決してならない。あくまでも本人の意思、あるいはそれに代わるもの。すべての決定権は診られる側にあると私は思います。延命や医療費負担といった言葉があまりにも先行し、医療の根本を見失っているのでは? 

そんな疑問から御仏の世界では死をどのように捉えているのか。安楽死によってもたらされるものが本当に寿命なのか? 他にも疑問はつきません。私は人の生き死にを救って下さるのは神佛に仕える皆様方ではと思っているのです。死ぬということは、実は死ぬことを御佛あるいは神に許されたから。そんなことを思ったりもするのです。素人考えなのでわかりませんが。私は御佛に仕える皆様方の世界においても、大いにこの命というものを、尊厳死や安楽死というものを議論していただきたいと願ってやみません。死んで良かったと思えるのは、恐らく皆様方のお力無くしてはないだろうと思えるからです。御仏の代理人とでも言いましょうか、医師のみならず、そこに皆様方のお声もあれば、私などは逝くことを許されたと感じ、安楽死というものを選択するかもしれない。

私は安楽死を全否定はしていません。ただ、相談内容に書いたような医師がいるのも事実なのです。そのような医師に人の生き死にを委ねる気にはなれないのですね。驕り高ぶりと傲慢さしか感じない。そのような者に大切な人の命を容易に終わらせてほしいとは決して思いません。生きながらえるにも意味がある。無論、本人とその家族が望んだ上でですけどね。家も今の状態になって、漸く皆その時の覚悟を持てるようになりました。逝く日を覚悟しながら、顔を合わせてはお互いに笑い感謝の日々を過ごしています。胃瘻をして良かったと思っています。

人に迷惑をかけられないからと、本心とは別に安楽死を訴える者もいます。家がそうでした。家族なら本心を汲んであげたいと思うのが当然でしょう。命を全うするとはどういうことなのでしょうか? 人の生き死にに、人の手が加わっていいものなのか。それは神仏が決めることではないのか。本当に疑問は就きないのです。

長くなってしまいました。仏教という御仏の教え、法に立つ者として、皆様方のお考えをお聞きしたかったのでございます。私の相談内容が的を射ておらず申し訳ありません。それでも皆様のご回答で私も更に考えるきっかけとなりました。

本当にありがとうございました。これからも何卒よろしくお願いいたします。

追記:上記のお礼の投稿ですが、長過ぎて改行をすると投稿ボタンが押せなくなり、仕方なく行間を詰めました。読みにくくて申し訳ありません。いくつかに分けて投稿するところまで頭が回りませんでした。

誤解のないように記しますが、一番良くないと思われる風潮が、「胃瘻=拷問」という決めつけです。本人あるいはそれに代わる意思が再優先に考えられるべきで、私はそれを勿論第一に考えていますし、そうあるべきだと思っています。が、上記に記したお礼のように、それは仏教の世界ではどうなのか。安楽死を選ぶということは自死には当たらないのかなど疑問がさまざまに湧いてくるのです。苦しんで死ぬのも負わされたものならば、それを放棄することにはならないのか。などなどですね。

ありがとうございました。m(_ _)m

追々記:

丹下 覚元さま(すみません、ご住職様とお呼びしたらいいのか他の呼び名があるのかわからないので)、まさにそのお言葉を私は得たかったのだと、拝読して思いました。私の根底にあるのもそう。人の生き死にに未熟な人間が介入する、ましてやそれを操るようなことがあっていいものか。それが根本の疑問であり、そこには覚元さまが言われるように、『御仏のお命』という思いがあったのだと思います。

医学がいくら進んでも、この命は神仏に賜ったもの。この世でしっかり修行せいよと与えられたもの。そのような考えを私はどこかに持っていたのだと思います。だからこそ、相談内容に記した医師のあり方に不審と疑問を抱いたのでしょう。

私の家は曹洞宗です。道元禅師のお言葉にそのようなものがあったのですね。勉強不足を恥じます。修証義を読まないといけないとも思っていたので、触れてみる良い機会となりました。ありがとうございます。

改めて、ご回答くださった皆様に暑く御礼申し上げます。

私のような弱き者は死に際して、やはり神仏のお導きをと願ってやみません。『天命』という言葉もありますように、やはり私は人間でありながらもこの生命は賜ったものだという感覚を抱いていきたいと思っています。そうすることが生命への畏れでもあるからです。そして、皆様がお示しくださったこと、執着してはすべてを損なってしまうということ。その通りだと得心いたしております。その見極めを個々に見抜いていかないといけませんね。それは自分にも自分以外の者にも無理があってはならない。

私はね、何をやっても逝く人は逝くと思うのです。何事にも普く神仏のご意思が働いているのだと思っているからでしょうね。でも、そこに執着が生じてはいけない。その執着と神仏のご意思を混同してはいけない。

これからも残された日々を大切に、また施設に足を運び感謝の日々を送りたいと思います。

皆様、本当にありがとうございました。

「死について」問答一覧

亡くなった人の思いはあるのかないのか

今年四月に父が亡くなりました。 両親は私が五歳の頃に離婚をしました。 母に育ててもらいました。感謝しております。 私は今まで父の事をないものとして生きてきました。 帰ってこない、蒸発した父と教えられてきたので その通りだと思って生きてきました。しかし、本当は違いました。 父は母と離婚したのち、数年後に再婚しておりました。 そのことを親戚に聞きました。子供まで二人作っていたことも 知りました。正直ショックでした。そんな人だと思いませんでした。 それも父が死んでから親戚に電話口で聞かされました。 私は今まで二十年以上、何も知らずにのうのうと生きてきたのです。 馬鹿馬鹿しくなりました。そして情けなくもなりました。 自分に対しても、父に対してもです。 私は父のことが好きでした。今も好きです。 本当に好きでした。それなのに父は裏切った。 今も苦しいのです。私にはお父さんがいなかったのに その子たちには二十年以上、お父さんがいた。 一緒に生きてきた。一緒に生活をしてきた。 泣いたり、笑ったり、怒ったり、そんなこともあったのでしょう。 そんなふうに普通の家族としてその二人の子供はお父さんと一緒に いれたのです。しかし、私にはそれがなかった。 父は私のことを無いものとして生きてきました。 私のことを完全に無視しました。 しかし、私もまた同じでした。 私も父の事を無いものとして生きてきました。 そうしなければ、生きていけなかったからです。 封印して父の記憶消しました。父と私は似ています。 きっと父もそうだったのではないかと思います。 本当はつらかった。今も苦しいのです。 死んでから父のことが頭から離れません。 今まで生きている間は父のこと考えもしませんでした。 忘れているのではなかったのですが、封印したのです。 父に会いたいと思ったことも全くありませんでした。 しかし、父が死んでからそのことを聞かされてから 父に会いたくて会いたくて堪りません。 こんなに人を思う、こんなに誰かのことを思うのは、 私の人生の中で初めてです。自分がビックリしています。 毎日毎日父のことばかり考えています。 昔はあんなにどうでもよかったはずの人なのに。 もしかすると父も私のこと見ているのでしょうか。 父も私のこと思ってくれているのでしょうか。 私は何故だかそんな気がしています。

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死についてのさまざま

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人の死が受け入れられません

初めて相談させていただきます。 よろしくお願い致します。 先日、芸能人の方が自殺して 亡くなるというニュースがありました。 その人のファンなの?と聞かれると そうです!と胸を張って言えませんが、 ドラマやバライティ等の番組で その方の姿を見るのは当たり前だったので 自殺と報道された時は衝撃的でした。 言い方が悪いかもしれないですが、 その方が病気とかだったら まだ納得が出来たのかもしれません。 ですが、亡くなった原因が自殺と知って テレビの前でキラキラと輝く人が 自殺してしまって自分が知らない 業界にも闇があることを知り、 また、無力だけど自分に出来ることは 何かなかったのかなと考える日々です。 これからドラマにも出る予定で 映画も公開されてCDも販売するのに 理由は本人にしか分からないけれど 心が苦しいです。 追悼のサイトができて メッセージを送ろうと思っても その方のSNSを見ると 素敵な笑顔で笑っていて 亡くなったという実感がなく まだ生きてるのにと思ってしまって メッセージも送れません。 亡くなってるのは 頭の中で分かるってるはずなのに 心が追いつけず受け入れられません。 人の死に対面することは経験していて 気持ちが苦しくなったけど、 大切な人達の死を 受け入れることができていたのに 今回のその方の死は受け入れられません。 直接関わったこともない私が こんな気持ちになるのは おかしいことなのかもしれませんが、 気づくとその方のことを考えていて その方のSNSや動画をみて涙を流して なんとも言えない感情に襲われます。 どうすれば死を受け入れられますか?

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