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死ぬ権利について

回答数回答 3
有り難し有り難し 29

不謹慎な質問をお許し下さい。

私は子どもには恵まれませんでしたが夫、家族と仲良く過ごしております。
このまま年をとれば親を看取り、夫を看取り、一人になるでしょう。
その場合、寂しさに耐えられないと思います。

なので何十年後かの日本では死ぬタイミングを自分で選択できればいいのにと思います。
いつ死ぬかわかっておけば、例えば自分の遺品の始末をする時間を持てますし、孤独でもその日までのがまんと思えば耐えられると思います。

周りに誰もいなくなった時。とても恐ろしいです。

こんな考え、自分でもずいぶんネガティブだなと思いますがおかしいでしょうか。

※現時点で自殺願望があるわけではありません。
将来の孤独がこわくて思いついた上記のような死ぬシステムについてどうお考えになりますか。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

いずれ、死にたければどうぞ、という時代になりますが……。

欧州の様子を知れば、そしてアメリカ各州の情勢をかんがみれば、日本にも尊厳死の流れはやってくると見当がつきます。

さらに、いまは最も年長の人でも70歳前の団塊世代が80歳になり90歳になれば、医療費および介護費の点から「死にたければどうぞ」ということになるのは明らかでしょう。だから死にたいときに死にたいなら、30歳代のあなたの望みは叶えられるものと思います。私は50代ですから脳死が人の死かどうか論議されていた時代からこんにちの流れをよく知っています。将来的には、死にたい人は合法的に死なせてもらえますよ。

だから、死ぬ時期を考えるのはやめて、いま生きる意義を見出すことに前向きであってください。生きる意義が見えていれば死ぬ時期のことは考えないはずです。電池が切れたとき動かなくなるのであって、何故生きるのかが見えていれば電池が切れるまで生きて続ければよいだけだということです。こう考えることに安心を得られれば死ぬ時期のことなど考えないはずなのですが。

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私はお坊さんといっても、ひと様に何か答えらしいものを提示できるような立派な...
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自分のルールを優先して生きないことが仏道ですよ

それはぶっちゃけあなたのルール。
これから先はきっとこうだろう、こうに違いないと思い込んでおられるだけ。
それはあなたのルール。
ところが、明日の行方すら誰もわからない。

隕石が落ちてきて死ぬかもしれませんし、
空から宇宙人やってきて連れてかれてしまうかもしれませんし、
外食先でキノコに当たって死んじゃうかもしれません。
物事は前向きに考えましょう。
隕石が落ちてきても打ち所が良くて孤独が感じられなくなって幸せになれるかもしれませんし、空から宇宙人がやってきて楽しい所に連れてってくれるかもしれませんし、外食先でキノコに当たって死ぬかと思いきや頭の中にお花畑ができてハッピーになるかもしれません。ケタケタケタ(笑)
そう考えると「あー、早く落ちてこねえかな、隕石。」「くー、早く来ねえかな、宇宙人」という思考にすらなるもので、人間って面白いですね。(笑)
細胞レベルでは毎秒数十回死んでます。数十回生まれ変わっています。
そんな考えもいっそのこと死んじゃったらどうでしょうか(笑)
もっと、楽しく、生きてください。
今、孤独ではなかったはずです。
孤独を思うから孤独になり、死に憂いを重ねるから、死が憂いを帯びるのです。
物事を自分の考えというソースの面でしか味わっていない様に感じました。
ソースの下にあるとんかつまで到達しておられませんな。
よかったら、坐禅会にお越しください。
思いのソースが塗りたくられていて、素材そのものをまだ味わっていない様に感じました。
素材そのものを味わうのがむっぽう。
ソースの方を味わうのが思想、我見、私的見解。

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わざわざそんな苦しまなくても、救われる道がある

自らの命の終わりを決めて、命を絶つなんて苦しいことをしなくても、生きながらに救われる道があるのです。それが仏教です。
死んでから救われても遅いでしょ。生きながらに救われたいでしょ。

そのためにとことん自分を追求し自分とは何かをはっきりとさせた方が、お釈迦さまです。曹洞宗でいえば、道元禅師さまです。

今ご自分だと思っているものの本質に気付き、本当はすでに救われているということに気付かれました。そして「人は生まれながらにして悟っている」ということの意味も知りました。

 そうした道を心から信じ追求していくことができるのだということを知っていてください。

実際にとお寺に行き、はっきりとした道が見えた僧と話してみてください。

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禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺副住職。 悩みを吐き出す事で、ちょ...
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質問者からのお礼

藤岡様
さっそくのご回答ありがとうございます。
生きる意義。夫や家族を支えるため生きると思っていました。するとじゃあ夫や家族がいなくなったら生きる意義がないじゃないかとも思えたのです。
もっと主体的にならなくてはなりませんね。
でも特に特技もなく平凡な私には、意義を見いだすのが難しそうです。
ボランティアとか趣味とか…?

尊厳死についてもご教授ありがとうございます。
死への定義や抵抗感も年代とともに移り変わりますね。世間に連動して仏教界も変わったりしたのではと拝察いたします。

邦元様
ご回答ありがとうございます。
お釈迦様も自分とは何か悩まれたのですね。
お寺に伺うのは敷居が高いので、初心者向けの仏教の本を探してみようかと思いました。

再度のお伝えになりますが、自殺願望があるわけではありませんのでお気を悪くされたらすみません。

丹下様

ご回答頂きましてありがとうございます。
明日何がどうなるか分からない、将来一人の生活を楽しむ可能性も充分にあるのですよね。
死ぬシステムなんて偉そうに考えましたが、いわゆる「ソース」をこねくり回しているだけのようです。

「死について」問答一覧

死別シングルマザー

夫と死別し、半年経ちました。 死後の手続きなどでバタバタと、忙しくしていましたが、この頃PTSDの症状がでて、とうとう仕事にいくこともできなくなりました。 一ヶ月の休職ですが、休んでる間に収入の不安、子どもたちのこと…色々と考え過ぎてよけいに具合が悪くなっている気がします。 職場からは、また笑顔で戻ってくることを待ってますと温かい言葉を掛けてもらっているのですが、夫を看取った病院が職場の直ぐ側であることや、救急車が頻繁に通ることなどから、正直一ヶ月休んだところで復帰する元気があるかわかりません。何も前に進めない自分に自己嫌悪の毎日です。お金の不安と、パートナーを失くしたことから『風俗』で働いて少しでもお金を…と浅はかな考えも拭えません。時間が長く感じます。こんな姿を夫が見たらなんて思うだろう。夫じゃなくて、不器用な私が先に亡くなればよかったのにとまで考え込んでしまいます。周りには自分のように30代で配偶者を亡くした人はおらず、まるで腫れ物のように感じます。他の家庭を見ると、赤ちゃんが生まれた…家を建てる…夫婦仲良く子育てできてて自分にないものばかり目に映り、生きづらいです。

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「周りの人間の死」への向き合い方

「周りの人間の死」への向き合い方が分からず、恐らく変な方向に価値観が向かってしまい、常に一定の苦しみを抱えてしまっています。 無理やり挙げるとすれば、恐らく一番大きなきっかけは、2年前に母の母である祖母が急死されたことだと思います。大きな病気やケガもなく元気に畑で過ごしていた祖母の急死に頭が追い付かず、又様々な状況を理由にしばらく会えなかったことや、恩返しなども出来なかったと感じたことによる後悔と主に、「人は急に死ぬこともある」といった至極当然のことに恐怖を覚える様になりました。 その"急死"は脳内で"事故死"等に変換されたようで、現在は「自分が何か人に頼むことで事故死するかも」といった恐怖をもってしまっています。私が親に頼んだ買い物の道中で死ぬかも、私が選んだ待合場所のせいで、指定した時間のせいで友人が死ぬかも、と思うと、所謂"普通の価値観"で人に頼る事、あまつさえ意見や提案事の提示も難しくなってしまいました。 正直自分の死は大して怖くはありません。ただ、もしそういった状況で知人が亡くなってしまえば、仮に明らかに自分のせいではなくとも「自分がこの人を殺した」と思ってしまうに違いないと感じています。又そういった気持ちを抱えてその後の人生を全うできるとは到底思えません。 バタフライエフェクトのレベルで「人の死に関与したくない」といった気持ちが大きくなってしまい、生き苦しさを感じてしまっています。 この価値観が、俗にいう「変・ずれている・間違っている・過剰」ということは頭では理解できているつもりです。ただ、どうにも心がこういった考えを除いてくれません。 もし仏教などを用いて少しでも楽に生きることが出来るのであれば、と思い、相談させていただいている次第であります。ご意見をお伺いできますと幸いです。よろしくお願いいたします。

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病気になって死を考えるようになった

現在,一人暮らしをしている中年男性です。 先日から病気をしています。病気になって,一人暮らしなので,闘病しながら食事,洗濯の家事をしないといけません。また,食事のための買い出しも必要で,誰か助けてくれないかと,常に考えています。 知り合いに食事を作って持ってきてください,といった厚かましいお願いはできないもので,そういったお願いができる知り合いがいるわけではありません。 闘病を続けながら,食欲もなく,痩せていくし,気力も失ってきています。 また,コロナ禍で,一人亡くなっていった方もこのようなつらい状況であっただろうと想像し,そのため可能であれば入院させていただいて,看病していただけないかと,勝手な思いが巡ります。 そして,こんなに苦しい状況なのに,これを乗り越えて「生きる理由」はあるのだろうかという考えが頭をよぎっています。 ある程度の人生は送ってきました。これから先もいろいろと楽しみもあると思いますが,生老病死は,四苦なので,病気を克服するのも,その後,克服した後に生きていくのも苦しいのだろうと,勝手に解釈をしたりします。 だったら,もうここでいいや,と思ったときは,死ぬことができたらいいなぁ,眠るときにこのまま目覚めなければいいな,と考えるようになっています。 自死については,以前は否定的ではありましたが,闘病の中で,それは個人個人の自由でいいのではないかと思うようになりました。 自死していった方は,苦しい中,生きることに耐えられなかったのだろうなと,共感できる心持になっています。 病気をして,手厚く看病してくれる人がいる状況であれば,それはそれで,心配してくれる人のために生きる理由があっていいのですが,そうでない私は,一人で非常に苦しい,不安です。そんな私が,命尽きるまで闘病するかもしれないという選択をして,生きる理由はなんでしょうか。 誰も助けてくれる人もいない,ただ病気と闘って,死を待つだけかもしれない。 最後は,一人,孤独死を迎えるのかもしれないと思うと,寂しく,不安です。 そういった中で,このサイトに行き当たりました。 取り留めない文章になりました。 回答をいただければ幸いです。

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死んではいけない理由を教えてください

駄文につき失礼致します。 私は大学生です。 様々なストレスが重なりうつ病を発症しました。目下治療中です。 薬を飲み始めてからは落ち着きましたが、昔は希死念慮がよくありました。漠然と死んでしまいたいと思うことがよくありました。 投薬による治療や、様々な死生観等に関する書籍を読むうちに次のような価値観が形成されました。 死んでしまっては選択肢がなくなる。 生きているうちは選択肢が無数にある。 生きる事に行き詰まって選択肢がなくなってしまったと思ったら、死ぬことを考えよう。 これは今私が生きている理由の一つですが、この考えは一見生きることに前向きなようで死ぬことを否定していないのです。 言い換えれば、いつでも死ねると言う風にも捉えられます。 私は今のところ死ぬことは勿体無いと考え自殺を踏みとどまっていますが、自殺を否定する理由は未だに見つけられていません。 生きている限りいつかは死が訪れるものであり、やがては受け入れなくてはいけないものだと考えていますが、自ら死に近づく行為はいけない事なのでしょうか? 確かに、人が皆自殺を礼讃するようになれば人間社会は成り立たなくなってしまいます。 しかしながら生きることが権利ならば死ぬこともまた同様なのではないかとも考えてしまいます。 どなたかお力添え頂ければ幸いです。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ