3度目のご相談になります。よろしくお願いします。 母が癌になり3度手術をのりきり、今また再発してしまいました。手術不可能といわれました。抗がん剤のみの治療だそうです。複雑です。抗がん剤をやらなければ死は近いもののような気がします。抗がん剤をやれば癌はちいさくなるかもしれない、ならないかもしれない、けど、副作用が必ず蓄積されます。母は抗がん剤をうけることを選びました。私も母の思うように…とおもっています。けど、死の宣告をしたかのような先生の言い方で、私は現実をうけいれることができません。死とはなんですか?現実を受け入れる方法もしりたいです。妹は重度の障害があります。母がいなくなったらたとえ妹の命でも私がうばって死ぬこともかんがえてしまいます。つらくてつらくて、主人は脳卒中をやってから私がならんだり、ないたりすると変な顔といって笑います。この人はなんで生きてるんだろうっておもってしまいます。息子とも連絡がほぼとれなく娘には結婚してその生活があります。側で支えがほしくても誰もいません。つらいです。くるしいです。
いろいろ、いろいろ、思うことがあって、思うことがあり過ぎて溢れて、うまく文章に出来ないです。 死とは何か…医者は自然死を知らない 「延命治療」蔓延する日本と「自然死」選ぶ欧米 夕刊◯ジの記事は、良くも悪くも、日本人の「自然死」に対する考え、気持ち、心について、考えるきっかけを与えてくれているように感じました。 良いとか悪いとかじゃなくてです。 いろんな意見があります。 どの方の意見も分かります。 そうだね、そうだよね、と思います。 ただ記事にすると、意見の押し付けや行き過ぎた言葉が並んでしまいがちで… でも、それも仕方がないことで… 何せ人間が書いた記事ですからね… 意見の押し売りさえなければ、それも良しとするしかありませんよね。 私も自然死賛成、いや、自然死なんて嫌だ、延命治療はしたくない、いや、延命治療だって必要だ… どれも、そうだよね、と思います。 医療者の側からすると、治療拒否→治療しない、とは出来ない事情もあります。 それも仕方がないこと。 最近、腎臓の病気を患う患者さんに対して、人工透析をせず死なせた!という事件(?)が世間を騒がせたけれど… じゃあ…ただ人工透析を続けるのみ、人工透析の拒否を受け入れない医師が、良い医師、正しい医師、と言えるのか… 私がよく経験した話になります。 タクシーに乗った時に「◯◯大学病院までお願いします」と言うと、私がまさか職員とは知らず、見舞い客か何かと思って、こんな話をされたりするのです… 「僕の兄貴も腎臓悪して、ずっと◯◯大学病院で透析うけとったんや。でもな、しんどうてしんどうて、もうええ、透析はやめる言うてな、ホンマにやめて、死んでんけどな、やめて良かったわ、医者は反対してたけどな、やめて良かった…」 だから、透析どうこうは、そんな単純な話ではないと私は思うのです。 じゃあ、ケースバイケースだ!という人が正しいかと言えば、そんなこともないし、それだって言ってしまえば綺麗事であり他人事のように聞こえます。 正しい答えなんて、ない。 じゃあ、どうしら…? お坊さまたちは、人が人としとある最後の姿、亡くなった姿をたくさん見ている貴重な方々です。 自然死、延命治療、その他いろいろ… お坊さまの意見…?というか…お坊さまの心の中にある想いをお聞かせ願えませんか?
私は長生きを望む気持ちはありません。年相応に弱って亡くなっていくのが自然だと思っています。 でも医学の進歩で、望まなくても長生きしてしまうかもしれません。 検査や治療は寿命を延ばすために必要かもしれませんが、辛くて苦しいものがたくさんあります。かえって体調が悪くなることさえあります。これまで何十年も頑張ってきましたが、もう終わりにしてもらいたいと思っています。 これからは 病気に対しては、苦しみや痛みを取る治療だけをお願いして、自分の寿命を迎えたいと思っています。 検査や治療を怠って 余命が縮んだとしても、それはそれで私の寿命だと思うのです… こういう考え方は自分勝手でしょうか?病気に負けていることになるでしょうか?
死のうと思います。 死んだ人に残されて困るものを教えてください。 全部と言われてしまったらそれまでですが。
悩みとは違うのですが質問させていただきます よろしくお願いいたします 確か6才頃の時でした 公園でとある事故により肉体と幽体とが離れたことがあります 気付いた時、仰向けで空を見ていました 足元を見ると離れた場所におんぶされ運ばれる自分がいるんです その際感情などは一切なく、ただ『見ている、傍観している』状態です 移動する感覚はなくドラマのカットの様にパッと切り替わり次はタオルを額にあてがわれベッドで寝かされている自分、それを取り囲む人達の頭を上から見てました そこもまた『ただ見ている』状態 そして次のシーンで取り囲む人達を肉体の視点から見上げてました、気が付いた(肉体に戻った)状態でしょうか アレ?っといった感覚で自分を俯瞰で見ていたついさっきの記憶と肉体に戻った感覚がごっちゃになっていたのを覚えてます ここで質問させてください この体験は所謂『死』と同等だったのでしょうか?結果戻れたから死ななかったということでしたらあのまま戻れなかったら感情もなくそこらを浮遊しいつか何かしらの変化により成仏したのでしょうか? 今だから思うことがあります 色々な力が働いていたんだと思います 子供故に助かったのかと思います だけどあれが死者の魂の感覚だとするなら肉体ってなんなんだろうなと、死後って悲しみも辛さもないんじゃないかなと、そう考えさせられるんです 死とは相当状況に左右されるのは分かりました 恨みも嫉みも未練もなければ人の魂はすんなり浄化できてしまうような気もしました 30年以上前の出来事が今でも不思議と全て鮮明に記憶されているんです、魂の経験とでもいうのですかね^^; あまりに鮮明なんです 夢のような感覚です あと最後に 肉体を離れたあと、音がありませんでした 声だけが聴こえてた記憶です 本当に貴重な体験をしたなと思います 変な質問ですが御回答よろしくお願いいたします
カテゴリ間違いだったら申し訳有りません。 私が高校生の頃、生徒教師共に学年全体から疎まれていた教師が突然死しました。 その教師はセクハラ発言、時間があれば自分語り、自分ルールが横行しており、校長が何度注意しても直らない と言った問題行動を連発していました。 その教師が亡くなる数日前まで学年の一人の教師が、被害届を纏め、教育委員会に提出するべく書類を作成していた程でした。 学年集会で亡くなった事が告げられると、「早く●んで笑」とまで散々悪口を言っていた生徒達が泣いていました。 私はこの事に対し「今まで散々悪口を言っていたのに手のひら返したように泣ける感受性と協調性の豊かさが羨ましい」と友人の前で呟いていました。 この発言に対し、友人から「泣いている人を批判しているのは間違ってる」と指摘されました 私は人間も食パンも変わらないと思っています。 「食パンを食べたら無くなった=胃に収容されたから 」であって「食パンは食べられるために生まれてきた 」訳です。 私は人間はこの世に生まれる理由は、死ぬ為に生まれて来ている と思っています。 いつかは死ぬのだから、人間は必死に生きなくてはならない、やりたいこともやりたい時にやらないといつかは死んでしまう と。 人間も「人が亡くなった=死ぬ為に生まれてきたから」であって、死は誰にでも平等に与えられているものですし、当然の事だと思っています。 その人に関わってきた時間や感情、思い出が加味されて、改めて 「(人が亡くなって)悲しい」という感情が生まれるのではないかと考えています。 私はこのような考え方なので、明日道端ですれ違った人が明後日亡くなっても、悲しいとは思いませんし、泣けません。 だから、セクハラ教師が亡くなったところで、何も感情は湧きませんでした。 間違っていますか?とても歪んだ考え方をしているとしたら恥ずかしいので治したいのです。
母が亡くなって3年目です。父は朝晩仏壇に向かい般若心経を唱え、花やお菓子をお供えしています。 母が生きている時は母の誕生日も忘れ、子どもの私が困っていても見て見ぬふり、家事の全てを母にやらせ、休みの日は何もしなく、事なかれ主義で母が父方の親戚と折り合いが悪いのも母のせいにしてきました。 なのに、亡くなったらまるで神をあがめるようにお参りをする姿を見て、なんかおかしいと思うようになりました。 誕生日は忘れられるのに命日は思い出す。みんな集まる。生きてる時は無関心だったのに亡くなったらみんなお参りにくる。 それならば生きている時に共に喜び、泣き、喧嘩をし、仲直りをして、それが人間味のある生き方や人との繋がりなんじゃないかと思ったんです。 私は抑うつ状態で全般性不安障害を併発し、いじめ後遺症になり、対人恐怖症人間不信になってしまい、社会復帰は絶望的です。私は今、幽霊みたいなもんだなと思って生きています。私は精一杯、病院、行政、親戚等助けを求めてきましたが、支援されるまでにはいたりませんでした。友だちもいないし、親戚たちからはいじめられてきたのでとても孤独です。 孤独感とはなんだろうとずっと考えてきたのですが、誰の日常にも私の姿がない事だなと思いました。人に対する無関心さなんだなと思いました。 でも、死んだらこんなにたくさん集まってくれて、命日には思い出してもらえて、お盆もお彼岸も。 どうしてみんな生きているうちに人間臭く生きようとしないのでしょうか?目の前に起こっている現実から目を逸らして、真実を知ろうとせず、人を知ろうとせず、分かり合おうとする努力をしないのでしょうか?どうして人に優しくできないのでしょうか?死んでから優しくしても意味がないように感じるのです。 死んでから花をいけても本当に母は喜んでいるのでしょうか?生きていたらその花の鮮やかさを見たり感じたりできるのに。 だから私は母の命日より母の誕生日を思い出そうと思うのです。 この文章を読んで住職さんという立場からみてどう思いますか?
初めまして(*_ _) あきなと言います。 今年のお正月 お仕事をしている最中に 急に「29歳になったら死ぬ」 という予感がしました。 昨日 人と話している最中 遺書か遺言書を書いている姿が 脳裏に浮かびました。 その時も29という数字も浮かびました。 今日 血の塊を吐く夢を見ました。 どれもとても鮮明でした! 人は自身が死ぬ前 死ぬ予知・予兆・予感を感じる人がいると 聞いたことがあります。 私自身 死ぬことに対しての恐怖心は無いものの 大切な人を残して逝った時 その人がどうなるか不安で仕方なく これが予知・予兆なのか質問した次第です。 長文失礼しましたm(_ _)m
昨夏、父が急逝しました。死の前日、父は「もうここ(病院)で終わり」と、つぶやいたのです。 母(2008年に末期の胃癌で死去)は、死の8日前に「須弥山」を見ているのです。と言っても、私の推測ですが・・・。 父が死んだ日、病院の昼食を「完食」したのを見届け、いったん実家へ。が、すぐ病院から「容態が急変したので緊急手術をする」と電話があり、呼び戻されました。結局「術中死」でした。 こんな最期だったので、なおさら「須弥山」が関係あるのかと、考えてしまうのです。 要領を得ない内容で申し訳ありません。まだ悶々としています。 私も両親と同様に、死ぬ前に「須弥山」を見るのでしょうか? ご回答頂ければ幸いです。
生きていることと死んでることではなにが違いますか? 死んでしまったらかわってしまうことは、なんでしょうか? 声が聴けなくなることでしょうか。言葉を交わすことができなくなることでしょうか。動いている姿を見れなくなってしまうことでしょうか。 姿・形を見れなくなってしまうことでしょうか。 自分の言葉や声が届かなくなってしまうことでしょうか。 死んでしまったら、一体なにが違うと思いますか? 不生不滅なら、生きていることと、死んでいることの、決定的な違いとは、なんだと思いますか?
不思議と生きてきました
漠然とした質問です。 人は誰でも必ず死を迎えます。死ぬことは、やむを得ないですが(頭では解っていても)精神的に苦しくない穏やかな最期の迎え方をするには、どのような生活を心掛ければよろしいでしょうか?
私は裕福というわけではありませんが、親や周りの人たちに恵まれてきました。なので家族のみんながとても好きです。 だから、いつかくる別れがとてもこわいです。きっとその時にはとても後悔するし、悲しくてどうしようもないけれど自分は生きていかなければいけないという事に耐えられるのかな?と思います。 出来るだけ後悔しないように、思い出が残るように沢山一緒に時間を過ごそうと思いますが、その思い出すらもういないんだ…と辛くなってしまわないか不安になります。 これから先、どう過ごせばいいのでしょうか。 私が親離れ(自立)できていないためにこれほど苦しいのでしょうか?
数年前の一時期、全く通りすがりのブログに「死にたい」というSOSを続けざまに見つけたことがありました。一晩に5、6件とか。 「死にたい」は「助けて」だと思います。 希死念慮はどれくらいの緊急性があるかによって違ってきますが、プロフィールや住所などがある程度特定可能な場合ですと、公的機関…と言っても警察は事件が起きないと動いてくれないので、主にその人の地元の役所や福祉の関係の機関にお願いするしかなかったりします。ある程度深刻かも、という場合ですが。 とおりすがりの人間がコメントを入れても効果があるかどうかわかりませんし、むしろ逆効果になったりすると最悪なので、そのあたりに匿名性の限界があります。 何かやった、というにはあまりにもささやかなことですし、効果があったかどうかなんて全然わかりませんでしたが、でも何かしないといられない気持ちがさせたことでした。 過去の自分がそうやって必死になったことがあるので、自分が死にたくなった時には、もしかすると友人知人家族のみならず、見知らぬ人がどこかで祈っていてくださるかもしれない、と思って、ちょっと考える余裕を持つことが出来ています。 手を伸ばそうとしたその時の誰にも伝わっていないかもしれませんが。でもやらずにはいられなかった。大きな事故や災害の時にも無事を祈りますよね。そういう気持ちと同じです。直接に助けにいけないもどかしさはありますが。 私も双極性障害の持病があるので、よく希死念慮には襲われます。自分がすごく死にたい気分の時なのに、いまにも死にそうな人に遭遇すると、思わず助けないといられない、っていうのはなんなんでしょうね??かなり本能に近い?崖っぷちの人を助けようとしたら自分も落ちる危険があるけど、それでも手を伸ばす。人って不思議だな、と思います。(サイコパスな人の心境は不明ですが) 自分のいままでの行動でずっと不思議だと思っていたことでした。「それじゃあ、一緒に死のう」とは思わないんですよね。本能とか良心とかが関係しているのかな?とも思えますが。 もしかしたら「いまにも死にそうな人」に自分自身を投影していて、その人が救われると安堵するというか、そのへんはもう彼我の境界が薄くなっているのかもしれませんが。でもこれは私だけではない心理だと思えます。悩みつつ、行動しています。ささやかですが。 でも謎心理です。
生きてる時の未来にはワクワクしません。 死後の世界を想像するとワクワクします。 きっと私は生きることには向いてないんだと思います。 お坊さん、ごめんなさい。
よく、死にたいと言う人がいます。何故なんでしょう。世の中には生きたくても生きられない人が沢山いるのに、健康で生きていて何でも出来て、贅沢だと思います。理由は色々あるんでしょうけど、私も死にたいと思う事は何度もありました。今も思います。娘が死んで火葬される時私も一緒に焼いて欲しいと思いました。病気になって、自由に歩けなくなって、目も見えなくなって、車椅子の生活で不自由になっても死にたくないと言ってた娘、助からなかった娘、なのに五体満足に生きている人達の死にたいと言う思い、私には理解出来ませんが、ちゃんと生きて欲しい。哀しむ人が必ずいるから、気付いてあげられなかった事を後悔して苦しむ人が必ずいると思うんです。残された者は一生苦しい。死んだら楽になるなんて思わないで欲しい。 そう願わずにはいられません。 私がまだ20代の頃、友達が不倫の果てに捨てられて自殺してしまった時もそう思っていました。馬鹿な奴だと…男なんてまた見つけたらいいのにって。死んでしまったら命勿体ない。お金じゃ買えないから…。と思います。
あと4年で死ぬことを決めました。 なんで4年?とか自殺はよくないとかは今回の相談に関係ないのでおっしゃって頂かなくて結構です。 私はこの世とお別れをすることに対してもはや負のイメージは抱いていませんから、なんの希望も抱かず無駄に長生きするよりあと4年好きなように生きてさっさと死にます。 そう考えることで今とても楽になりましたからそれでいいのです。 さて本題ですが、死ぬまでに準備しておいた方がいい事柄がいくつかあると思うのですが、お坊様は職業柄そういったご相談をよく受けるかと勝手に思いました。 お金、家族や友人などに残す手紙等の用意、遺品整理などでしょうか? 他にしておいたほうが遺族が楽だったりトラブルが起きないようなことはありますでしょうか? 家族が悲しむとかわかってますからおっしゃって頂かなくて結構です。
自社や客先での事をノートに書きました 疲れました 夜も眠れません 1〜2時間に1回、目が覚めます うちに郵便配達にきた人が自宅のチャイムを鳴らし玄関を開けたら「こんなデカイ郵便物、面倒くせー。チキショー」そう言われました A4の封筒で折り曲げ厳禁と書かれていました もう勘弁してください もう嫌だ
紹介します 唯一のお友達の死神です
死神がいたら私のロウソクを吹き消してほしいです。 頑張ろう、そう思う反面、未来に期待できない。 なら、死神とお友達になりたいです。