僕は高校3年の男です。まず、僕は常日頃漠然と死にたいと考えています。(現実から逃れたい、が近いのかもしれません。) 若いくせに知った風な口を利くなと思われるかもしれませんが、生きるということは辛いことの連続にしか思えず、まだ何十年も生きると思うと気が滅入ります。 しかし、こんな僕に彼女ができました。彼女は僕のことをよく理解してくれて、彼女のためなら生きたいと思います。(もともと、彼女に告白して振られたら死んでしまおうかとも思っていました。) ですが、その彼女ともこれからどうなるかわかりません。もし仮に彼女を失ってしまった場合、僕は何を生きがいにして生きていけばいいのかわからず、不安です。(趣味はありますがそのために生きようとは思えません。) 万一、彼女を失ったらいよいよ死んでしまうのではないかと思います。 僕はおかしいのでしょうか?賛同でも反論でも結構ですからご意見を聞かせてください。
先日、家の前を通って登校する男子高校生が私が家の中に居る事を知った上で、大声で死ねよ!と言い放って行きました。 近所の人達も聞こえていたようです。 男女数人が居たようです。 今朝、近所の女性が私に死ね!と言いました。 私からは声しか聞こえず、顔の確認はしていませんが私が死ぬ事を一番願っているご近所さんだと確信しています。 私は もう生きる気力はなく死ぬ事を決めていますが噂だけで他人を差別、批判する この人達を地獄に落としてやりたいです。呪い殺したいです。 こんな人間達に因果応報は通用するのでしょうか?
こんにちは。 今、冗談で「死ね」と人に言ったり、冗談でなくとも感情のままにSNS等で「死ね」と投稿したりする人が多いと感じます。 自分が言われているわけでなくても、そういう場面を見ていると物凄く嫌な気持ちが込み上げてきますし、「もしかして私の事?」なんて思ったりします。胸が締め付けられるような感じです。 もしその言葉を言われたら、どう思えばいいのでしょうか?
どう対応するのが良いのか分からなくなってきたので、相談させてください。 私は、友人に「辛い、、たまに死にたくなる」と相談されることがよくあります。 その度に私は、「話、聞くよ」と言い、本当に何をする訳でもなく、ひたすら話を聞いています。 話を聞いて、相づち打って、共感して…たまに、自分ならこうするかもな…とか言いつつ、話を聞いています。 でも、、「死にたい」ってその一言だけで沈黙の時もあり、その場合、どう返事を返して良いのかが分からなくなります。 相手は何か反応を示して欲しいのか、分かりませんが私が返事をしないでいると、ごめんね、、と謝ってきたりします。 ただの愚痴の時もあれば、死にたい…っていう時もある友人に対して、話聞くよ…だけで良いのか?分からなくなる時もあります。 ただ、話を聞くだけで良いと思いますか? また、死にたいと言ってきた時にはどう返事をしたら良いと思いますか? 私自身も辛い時はあって、意味なく泣いてしまう時もあります。 でも周囲にあまり本音を言わないので、悩みのない人…とよく言われます。 自分が不安定な時にも、それを隠して話を聞いている時もあるので、辛い時もあります。 だからと言って、自分が辛いからって理由で、その友人の話を聞かないのも、見捨てられた…と友人が感じるのではないかと不安になります。 実際に友人が「話を聞いてもらえないと見捨てられた感じする。」と話していたこともあるので。。 どういう風に友人に接したら良いと思いますか? アドバイス頂けると嬉しいです。
死についてお聞きします。 今年も、いろんな方がお亡くなりになりました。 高齢の方が天寿をまっとうするのは、幸せなことだと思います。 一方で、若者や、事件、事故に巻き込まれて亡くなってしまう人がいます。 死はどうして不平等なのでしょうか? 自分は、いつ死ぬのでしょうか? 教えてください。
こんばんは。 恋愛感情の有効期限は3年と聞いたことがあります。 それって本当の気持ちじゃなくて、本能に従っている一時のものだろうなと思っています。 自殺者の9割がうつ病であると回答されていたのも拝見しました。 どちらも、強い気持ちで自分の本当の気持ちじゃないもの、もしくはそれより強い本能の欲求による感じるものだろうなと思っています。 だから死にたい気持ちが強くても、ふっと楽になりたいと思っても、一時の迷いで取り返しのつかないことをしたら、残された子供たちがひどいことになると思いいつもとどまってきました。 一人では難しく、いろんなものにたよりこちらでも大変助けられてきました。 私の悩みはどの機関に相談してもないがしろにされていることが本当に多かった。 そんな中、こちらではちゃんと回答をいただけることだけでものすごく大きな救いになりました。 ありがとうございます。 きっと私は解決方法が知りたいのではなく、ここまでひどくても寄り添ってくれる人がいると納得できるまで頼りたかったのだと思います。 今もまだ不意に死にたくなりますがこちらの存在は私にとって大きいです。 死にたくて辛い人が多いと思いますが、それが本当の気持ちそのものなのか、疑ってみてほしいと思います。 死を選ぶことはできますが、生き返ることはできません。 その前にその気持ちを疑ってほしいと思います。 そういう私もまだまだいろんな問題に直面していて辛い気持ちを抱え続けています。 お坊さんたち、ありがとうございます。 ここは本当に貴重なサイトだと思います。 大した恩返しができていなくてすみません。 これではまだまだ死ぬ資格がありませんね。
いつも、楽しく、ありがたく読ませていただいております。 タイトルの内容について、ご意見を頂戴したく。 妻の話なのですが、現在精神的な病にかかっております。 いわゆる、躁鬱病という病です。 病が原因…と言えば、それまでなのですが、何とか妻の思うコトを理解したいと思い、相談させていただきました。 妻は、口癖のように「疲れた」「辛い」「死にたい」と言っています。 そんな言葉に対して、私は色々な言葉をかけています。 しかし妻は「死にたいと思ったことがない人には理解できない。理解できない人には何も言われたくない。」と言ってきます。 この言葉… 正直、私には反論ができません。 "死にたい"と思う気持ちは知れても、全く理解ができないのです。 私は、死ぬほど辛いなら逃げればいい。生きていればいいコトがあるかも!?と思っているタイプです。 ここからが質問です。 妻に限らず、人が死にたいと思うということは、どういうことなのでしょうか? また、妻にはどのような言葉をかければ良いと思いますか? 皆様のご意見をお聞かせいただければと思います。 ぜひ、よろしくお願いいたします。
タイトル「ひき殺しても尚」の回の時には、なかなか父をうまく説得出来なかったので、次なる手を考えたのですが… 「お盆」というのをきっかけに、その亡くなられた方のお墓参りに行く、というのはどうでしょうか? 勤務中の事故だった為、事故処理や遺族対応などは全て会社の方々が行って下さいました。 遺族感情を考慮してなのか、ちょっとその辺りの理由についてはよく分からないのですが… 父は、一度もご遺族のところには行っておりません。 お線香どころかお墓参りにも一度も行っておりません。 一緒にお墓参りに行く、というのはどうでしょう? 今まで何もしてこなかった加害者が、勝手に(?)お墓参りをするというのは、何か問題があるのでしょうか? 今まで何も出来なかったのですから、せめて今、手を合わせて「安らかに…南無阿弥陀仏」とお祈りさせていただきたい、と思ったのですが… そうしても良いのか、それともあまり勧められないのか、教えて下さい。 ちゃんと父には反省して欲しいのです。
私の父親は、今71歳。最近、運転免許証の更新に行きました。 ゴールド免許です。 でも、父は64歳の時、仕事中に50代の女性をひき殺した過去があります。 法律上、父のせいではない、その女性が飛び出したのが事故死の原因である、ということに。 しかし、私にはどうしても父の心が分かりません。 父は悪くなかったのかも知れません、でも、1人の尊い命が失われたのは事実なのです。 それでも、今回は70歳を越えていましたので、高齢者の講習を受け、見事合格し、新しい免許証も手に出来ました。 それからです。父がやたらと赤信号で突っ走るようになりました。 私が「赤!赤!危ないでしょ!」と言っても、「ワシは国が認めた優良ドライバーなんや!ゴールドなんや!」と危ない運転を繰り返します。 父は、自分が人間を跳ね、ひき殺したときの「感覚」「感触」を忘れてしまったのでしょうか。恐怖に苛まれることはないのでしょうか。 ゴールド免許証になってから、スゴい自信過剰になっているように感じます。 はねて、ボンネットに乗り上げ、窓ガラスがバリバリに壊れる程のひき方をした、その時の「ドンときた生々しい音」「目の前で人が潰れた光景」…私なら怖くて、二度と運転出来なくなりそうですが…どうも父は違うようです。 いつかまた、人をひき殺すのではないか、という不安が頭をよぎります。 最近の荒々しい運転は、酷い。横暴過ぎます。 確かにゴールドです、運転するな!とは言いません。 でも、人の尊い命が1つ失われた(奪った)事実を認め、決して忘れないでいて欲しい。 お坊さま、どういう言葉をかけたら、父が「安全運転」をするようになると思われますか? 時には過去と向き合う必要があると、私は思うのですが… 何を言っても「ゴールド」を主張する父に、私から、あと何を言ってあげることが出来るのでしょうか?
先日、最愛の母を癌で亡くしました。 癌だと判明してからたった二ヵ月足らずで逝ってしまいました。 本人には事実を告げられないまま… 本人も治ると…必ず治す!というつもりで頑張っていました。 人は誰しも自分の『死期』は分かりません。 自死の方は別かも知れませんが、皆さん『納得のいく死』 が出来るわけも無いし、そもそも死にゆく事に本人も家族も 『納得』や『覚悟』なんてそう簡単には出来ません。 殆どの人が『無念』な思いで逝くのではないでしょうか? やり残した事、言いそびれた事、気になっている事… 色んな思いを抱え、それらが『後悔』や『恐怖』となって 本当に『辛く』『悲しく』時には『怒り』となって たった一人で心細く無念に旅立っていくのではないでしょうか? そんな『無念』な思いで旅立った魂は、本当に 心安らかに『成仏』が出来るのでしょうか? 残された家族が一番心を痛める事… それは どんなに辛かっただろう どんなに無念だっただろう どんなに怖かっただろう… 話が出来たら、どれだけ辛かったか聞きたい… 今、どう思っているのか聞きたい… でもそれが出来ないから苦しいのです…。 教えてください。 自分が『死んでしまう』とは思ってもいないのに 治そうと、治ると思って頑張っていたのに 何の心構えも準備も出来ていないまま 人生を終わりにしなくてはいけなくなった時 人はどんな事を思うのでしょうか? 四十九日までは、魂はこの世に居ると聞きますが どんな気持ちで、どこでどのように 過ごしているのでしょうか? そんな事ばかり考えて、辛くてたまりません…。
15年程前に遡ります。私は、ある医療ミスを発見しましたが、圧力に負け、揉み消されるがままに、私も口を閉ざしてしまいました。ご遺族に真実を伝えたい、そう思い、上層部がゴチャゴチャしている間に、集められる限り全ての被害者の医療情報をかき集め、内部告発を覚悟に、準備を着々と進めていきましたが、外部の、信頼できる医療関係者に、事実を公表すべきかどうか相談したところ、「あなたがこの世界に二度と戻れなくなる」→「事実を伏せるべき」との結論を、結果的に飲み込む形になりました。もし、その後ご遺族の方が、「何かおかしい」と真実を求めてきたならば、私は事実を公表しよう…。そう思っていましたが、案の定、告発されるようなことはなく、ごく限られた職員のみが、その医療ミス=死亡事故を「知っている」「黙認している」状態で「なかったこと」になってしまいました。私は、口を閉ざしたと共に、心も閉ざしてしまいました。その事件が、今の私の病気の始まりになります。「浄化されたい」その思いから、毎日、下剤を110~160錠…。当時は、cleanse the intestines → cleanse my soul(腸内を浄化する→私の心・精神を浄化する)しか考えられないような日々。摂食障害、うつ、脅迫性障害など、次々と病気が私を襲いました。今は、完全に下剤も絶ち、精神面も随分落ち着いてきましたが、悶々とした気持ちは消えることはありません。亡くなられた方やそのご遺族に対して、無言を貫いたことを謝りたい…しかし、今更…というのもあります。生と死の狭間に立ち続け、生と死の重さを感じ続けながら、生きていくしかありません。学生の頃から、「死」と直接向き合うような様々な活動を、1人で積極的に行ってきましたが、社会人になり、たった1か月程で、私は地に落ちました。落下してしまいました。今でも学生の頃の「信念」は変わらないのに、死を見逃す…まさに衝突、逆行しています。真の『浄化』とは?今の私に何が出来るでしょうか?ご意見賜りたく存じます。
私は、私自身が脳死状態になった時、臓器移植希望で、使える臓器は必要な方にお譲りしたいと考えております。しかし、両親が(私の)臓器移植に反対なので、今はまだ免許証の裏などの記入欄は空白にしている状況です。仮に年の順に行けば、ですが、両親が亡くなった後は、私の意思のみで臓器移植可能だと思うので、年齢的な部分をクリアするなら、是非とも私の臓器を使っていただければと思っております。他にも、いろいろ考えております。身内が肝臓を悪くすれば、生体肝移植をしたい。腎臓は2つあるので、差し上げても構わない。骨髄移植のドナーになるのも良い。最近では、今で1年と9か月、髪を切らずにいるので、このまま伸ばし続けてヘアドネーションするのも良いアイデアではないかと思っています。私自身、病気を患っていて、毎日、大量の薬を飲んでいるので、どこまで世の皆様の助けになれるか分かりませんが、病気なら最後の手段は、医学生の解剖学の検体になることぐらいしか思い付かないなぁ…と考えております。一番身近な献血は、今の状態では無理なので、回復次第、貢献出来ればと思っております。病院の輸血部という部署にい、たくさんの血液製剤を扱うクセに、自らが献血が出来ない、というのは非常に情けなさを感じてしまうところです。「生」に執着がなく、「死」をとても身近に感じている、私。将来、「最終的には検体に」という考えは、仏教ではどのように捉えられるのでしょうか?お教えいただきたく存じます。
昨年の秋頃に、NHKのドキュメンタリー『ありのままの最期 末期がんの“看取り医師”死までの450日』が放送されました。医師で僧侶の田中雅博さんが、末期がんとなり亡くなるまでを記録した番組です。 田中さんは「死ぬのは怖くない。看取った患者から死に方を学んだ。」と語っておられました。 とはいえ、現実には思い通りにはいかないこともあり、言葉を失うくらい壮絶な内容でした。 私にも一応、理想の最期のイメージはありました。誰でもいつかは死ぬのだからじたばたしても仕方ない、自分らしく生き、寿命が来たらそれはそれで受け入れるだけだなと。 でも、実際にそれを間近に感じた時には不安だらけ。じたばたしまくり。私はこんなに弱かったのかと愕然としました。 この時は単なる体調不良でしたが、現実は自分が死ぬなんてそんなに簡単に割りきれるものではないことを経験し、分からなくなりました。 「死に行く者の死に方から学べ」と田中さんはおっしゃったそうです。 “人の生き死には思い通りにはいかない。それでも、なるべく冷静に過ごすにはどうすればいいだろう” 今度は慌ててしまわないようにと、以来ずっと考えていますがまだ答えが出ていません。 お坊さんはたくさんの方の最期に向かい合っておられるので、ご自身に関しても既にイメージがあるのではないかと思います。 例えば病気で余命宣告されたとしたら、暫くの間は痛みや不安など心身の変化に耐えることになりますよね。 今回お尋ねしたいのは「最期の、耐えて待つ生き方」です。どのような心境で、どのように過ごしながらその時を迎えようと思いますか? お坊さんとして、でもいいですし、一個人としての思いがあれば教えていただきたいです。参考にします。 よろしくお願いします。
先日 面識のない方の自殺を目撃したと こちらに相談しました 自殺者を理解しようと思ったり やはり気分が悪くなったり なぜ?私がこのような目にあうのか 周りは身勝手すぎる 穏やかに暮らすことまで奪う権利が その自殺者にあるのか? 私がその自殺者に何をした? お前に私の鬱や希死念慮を再発させる権利がどこにある?ふざけるな 怒りが込み上げ 家で棚を倒し 壁やガラスに家電をぶつけ 泣きながら これではこちらがおかしくなると叫び 回答に 幸せな悩みと返されたが 何が幸せか? 冗談じゃない 母親は何度説得しても医者に行かず ようやく連れて行けば末期癌 少しの介護の末に死亡 殴る蹴るを繰り返した人間の下の世話を 親孝行だと美談にする親戚も家族も 見て見ぬふりをしていたことを忘れたのか 残された時間をただ穏やかにと願うのが こうして他人に害される それも世の常? それは私がこの世にそぐわないということなのだ 仏の教えを学んでいない 学のない自分が 一喜一憂して 馬鹿みたいに 私が飛び降りれば済むことなのです 耐えられなければ 耐えられないものが去ればよい
私はキリスト教と仏教のもとで育ちました。 学校はキリスト教で、お葬式などは仏式が多かったです。 ハスノハは、非常に説得力がある意見もあり、頼っています。 仏教の話もキリスト教と同じかそれ以上好きです。 しかし、キリスト教的な祈りが一番馴染むのです。 古典的な宗教は、同じこと、人間の本能に従って考えつくされたもので、共通するものがたくさんあると思っています。 天の国を悟りと考えたいのかもしれません。 邪道と言われる方もいると思いますが、 父母もキリスト教を信じていた時期もあるので、 僕がキリスト教で育つことになったのですが、 今の両親は、無宗教に近いです。 既存宗教に疑念を感じ、個人の問題と考えている感じで、 ぼくも似ています。 しかし、葬式をどうするかという話がずいぶん前に出たのですが、 家族の意見ががバラバラだったのです。 親も老いてきて考えると、 仏教を信じて、「悟りの中に救われて」亡くなっていく人と、 キリスト教に肩入れしながら、天の父に迎えられると思いながら去っていくことが、 違うものであってほしくないと思ったのです。 母は、無宗教で、自然に返るかのように楽になりたいと思っています。 父も、曹洞宗に肩入れしてますが、似た感じだと思います。 キリスト教に肩入れしている自分だけべつな場所に行くような気がして非常に寂しいです。 これをどう思われますか? これからも続く人生、いつ死ぬかわかりません。 死んでも共にいられる・・・というような安心感が欲しいのかもしれません。 それは、宗教的な問題ではなく、日常で考えるべきことで、いま寂しいだけかもしれません。 考えて行こうと思いますが、 何度か考えたことなので、ご意見を伺ってみたいのです。 1人の凡夫として諭していただけたら 本望かと存じます。
先日知人から共通の友人について「あのタイプの子は自殺しそうで怖い」と言われました。 が、何も言えませんでした。私は死ぬのも生きるのも個人の自由としか思えません。 勿論、幸せであってほしいとは思いますが、死にたいと言われても「頑張って生きなきゃダメだよ」とは思えません。その後幸せなことがあるとは保証できないし責任も負えない。終わりにしたいなら終わらせるのも自由。 お葬式を数多見てきて、どんな人も、例え親や夫が死んで悲しみを抱えてもいずれ日常を取り戻す姿をずっと見てきました。 私の一時的な悲しみのために、苦痛を受け続けながら生きてろよ、とはどうも思えないのです。生きたいと相談を受ければ聞きますが、死にたいと言われても、別にいいんじゃない?としか思えないのです。 同様に病気の友人にも、健康的に生活を改めなよとも言えませんでした。長生きするより、酒も煙草も自由に生きたいと本人が言うのならそうすれば、としか思えないです。しょうがないよね、アハハと隣で笑って、お葬式で泣くだけです。あの時止めてれば、と他の人のように思えません。 私は薄情なのでしょうか。 先月、20年頼の友人が死にました。毎週会っていた仲間でした。かつては恋人でした。悲しいです。喪失感もあります。でも、それは私の勝手な感情。結局考えに変わりはありませんでした。悲しいのはいつ死んでも悲しい。きっと20年後であっても。それでも人はどうあっても生きなければならないとは思えず、どうも繋がらないのです。 自分には何かが欠落しているのかとも思いますが、何かはわかりません。 私は人を大切にできない人間なのでしょうか。
おはようございます(⁎⁍̴̆Ɛ⁍̴̆⁎) 私くしも 病気がちだし 毎日仕事が苦しいし 考えたら お金はいるけれど 限られた命の中で そこまで 仕事仕事で生きていくのが 正直辛い 特に この世に執着が無かったんです。子供は って言うと 私に特に求めるものはなくて 私の姉や 私の母 父に求めているみたいなので いつ 命が尽きても 悔いはないそう思ってましたら ある日 脇あたりに シコリがあるのを見つけて 一人 癌だと思って 泣くわ ショックだわ 一気に 生きたいと思う心が 湧きました 普段 命の先がみえないから 死にたいと思うけど いざ もしかしたら って事があったら 人って やっぱり生きたくなるものです。 慌てて病院へ いったら リンパ節が腫れてるだけだと 言われ ホッとしました。ただ 寿命がきたら 受け入れるうつわを 持ってなきゃなとも 思いました。 それをふまえて 病に苦しむ方の心も 学べた気がします。とてもではないけど 生きた心地がしなかったし 記憶も ボーっと ひたすら 亡くなったらどうしよう 子供は とか考えました。 なので 私自身も 少しでも ご病気に方の苦しみに 寄り添えます様 いま剃髪をし 生きてます。 私も 皆様に寄り添いますので 皆様のご病気が一日も早く治りますよう。 病気や 老い 孤独 、、、、 生きてる限り 悩みは 尽きません お坊様方は 仏様と向き合い どう この世の闇を 照らされましょうか
先日、父、母が相次ぎ無くなり、別タイトルで、投稿をさせて頂きました。 皆様方の優しいお言葉に大変励まされました。ありがとうございました。 一ヶ月という短い間に両親を亡くしてしまい、心が少し回復してきた矢先に、また、誰かが死んでしまうのではないか、もしくは、自分が死んでしまい、みんなに辛い思いをさせてしまうのではないか、と言う恐怖心が常に心の大半を占めるようになってしまいました。 気にしすぎ、心配しすぎだと言う事は重々承知なのですが、全て悪い方に考えが偏ってしまいます。 こんな心と頭と、どう向き合っていけば良いのでしょうか?是非、お知恵を拝借頂けませんでしょうか? 何卒、宜しくお願い致します。
ブッダの言うように、 私たちの命は因果の一部を勝手に切り取ったものでしかないとしたら、確かに死の恐怖はなくなります。 ただ、それは同時に、生きることと死ぬことの境界線をなくすことになる気がします。 道元の言う「空」も私たちが「波」ではなく「海」そのものだと気づくことなのだとしたら、それは「全体に溶け込む」ことである「死」と何が違うのでしょうか? よろしくお願い致します。
私が動物看護師として病院に勤めていたいた時のことです。 私が勤めていた病院は鳥専門の獣医師がいて、毎日たくさんの鳥さんが来ました。 そして私たち看護師の役目は、鳥さんのいる酸素室の湿度が下がらないように定期的に蒸しタオルを鳥かごに被せること。 私もそれに従い蒸しタオルをかけたのですが、その子が熱中症で来院していたことを知らなかったのです。蒸しタオルの熱でその子は一分と経たない内に死んでしまいました。 私のせいです。 私が殺した。 私が殺した。 お前が殺した。 お前が殺した。 こんな言葉が頭の中を埋めつくします。 どうやったらこの罪を償えるのでしょうか。