hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

よりを戻したらうまくいくと思っていた

回答数回答 1
有り難し有り難し 13

以前にもお世話になりました、
ありがとうございます。

今回は少し暴言がきつく、威圧的な態度の男性とお別れをしました。
そこが嫌だと指摘して、別れたのですが、彼がショックのあまり、いろいろと私とのことを忘れてしまい、私生活に支障をきたし、私も、やっぱり急にお別れを伝えてしまい、ひどいことをした罪悪感と、寂しさで、よりを戻しました。
前よりはだいぶ穏やかになりましたが、やっぱり私に対してもきつい言葉が返ってきて、直す努力はしているとは思うのですが、過去、別の男性で暴言、モラハラ、少しのDVがきっかけで離婚して、
私は、そういった威圧とか言葉、態度にすごく恐怖を抱き、黙ってしまいます。向こうはそれに対してなんかあるなら言って、と言うけど、これ以上怒らせたくないし、そんな勇気はありません。本人は怒ってるつもりはないらしいのです。
誤解が生じて、そうじゃないよ、ちがうよ、と言っても、なかなかそれが解けることも、再度話が通じる事はなかなかありません。
別れてから何回もあったわけではないのですが、結局1度でもあれば、またこれか。ってなってしまうのです。努力はしてると思うのですが、それを待っているほど、気持ちに余裕がないというか、怖いな。やだな。が先にきてしまいます。
私だって、誤解がないように、説明したり言葉を付け加えて伝えているのに...ってなってしまい、
これはもぅ価値観の違いで埋められることではないのでしょうか、この先喧嘩するたびにこんなに神経がすりへって、将来幸せになれるのかな。
と思います、
趣味が共通なのと、双方の家族の仲は比較的良いので、別れると今の生活がどうなるんだろう、というくらい一緒にいました。でも壁があるのか、私には触れられたくないプライドとか、傷つきたくないから、先に威圧するようにしかかんじなくて、環境はもぅすごくいいのに、仲良くなれてない、信用してない気がして、別れたらお互いのことが必要なことに気づいて絆が強くなるとか、そんなイメージだったのですが...
どうしたらよいか、気持ちのもっていきかたと、自分はなにを努力したらいいのか...。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

実物だけ相手にする努力

私の隣で赤ん坊がギャン泣きしています。
ぶっちゃけ超ウルサイです。
ですが、私はその時泣いている赤ん坊だけを相手にしています。
前のものを相手にしません。
ではあなたの番です。
あなたがその相手とちょっとしたトラブルが生じる。
その時は、そのリアルタイムのその相手だけ相手にすればいいのです。
おそらく、あなたは過去の相手を持ち出してきている。追認、追憶をしている。相手にしているのは思いの方であって、現実のその時その場所で起こっていることを相手にしていない。
それは車に乗っている時、実際の道路を相手にせずカーナビを相手にしているようなものです。
本当に最優先するべき相手はアナタの中の想念の相手でしょうか。今の現実の実物でしょうか。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

煩悩スッキリコラムまとめ