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好きな人が芸能人

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私には好きな人がいます。その人は出会ったこともない芸能人です。

いい年をしてこんなバカなことを…と思うかもしれませんが本当に好きでしかたないのです。だから一般人の人に告白されても付き合う気になれません。

でも最近、このままだと私は一生結婚できないかもしれない…と不安になるようになりました。その芸能人の彼に出会うために、人脈を作ったり私なりに色々していますがそれもうまくいきません。

私はずっとこのままでいいのでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

やらないで諦めるなら、やって諦めな。

 まず好きな芸能人に接触したいのですね。それなら、何とかして事務所やTV関係の職員になればいいのではありませんか。自分の夢を叶えることはワシは否定しません。応援します。周りの100人が否定してもワシは賛同します。ワシはあなたの味方でいたいのですが、ここでしかアピール出来ません。お許しください。
 意中の異性と付き合いたいから、同じ大学に入りました。同じバイト始めました。意中の異性とお話ししたいがために相手が好きな人を紹介しました。果たしてこの人たちの努力は不純でしょうか?そのための努力は純粋ではないでしょうか?これらは実はワシの経験談ですよ。決して振り向いてくれませんでしたが、その時の努力は今でも宝です。否、そんなに高価なお宝でもありませんよ。
 あなたはまだ若い、希望はあります。意中の芸能人と近くに居れる職場に就職してはどうですか。そのための勉強は忘れずに。
 ただ、ここからは現実、遠くで見ていた彼と近くで見ていた彼が違うかもしれません。その時にどう思うかはこうご期待。夢が膨らみますね。
 そして、相手の幸せを願ってください。自分の幸せを押し付けたら、それは発展した時にストーカーという少々厄介な生き物になります。何でも度を越してはなりません。ワシも寸前でヤバいと思い、止めました。好きだった人も3か月で忘れることが出来ませんが、何とも無いように思えるものになりました。

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目指せ!となりのお坊さん あなたの小さな悩み相談お答えします  私があなたの悩みを解決するのではありません あなたの悩みを解決するお手伝いを私がするのです ちょい悪坊主を目指しています。尊敬する人は一休さん。
ここだけの話し  どんな些細な質問でも回答します! ・私の目指す僧侶は一休さんのようなちょい悪坊主です。時には常識にとらわれずとんでもないことを言いますが、しっかり受け止めて下さい。私もしっかりとあなたの質問を受け止めたいと思います。 ・先ずは30分からで、システムに慣れたら時間を延ばしたいと思います。

好きの先にあるものは

人を好きになるっていうのは素晴らしいことです。
でもあなたはアナタを生きる事が大切。
私も愛する妻と一生になりましたが「自分を生きて」います。
「自分を生きていない」恋愛は相手が好きで好きで好きで好きでたまらなくなって、相手の言動一つで身も心も振り回されてしまうという状態。これは危険な状態とも言えます。
自分を常に観ている事が大切です。
いくら相手が好きだからと言って、何を何処まで、どうできるのか。
ご両親や長年連れ添った方々などを参考にしてみてください。
「好き」という気持ちは「どう」なってゆくのか。
人間には、相手が誰であっても好きになる可能性を秘めています。
でも、スキだからと言って、相手が自分の所有物になる訳でもなく、いつかお互い命をお返しするものです。相手があっての自分ではなく、自分の命があってこそはじめて相手を感じる事ができます。
そしてその主人公、本体、人生をこれから運営するのは、この自分自身です。
好きになるのは素晴らしいことですが、その先にあるべき形を見失わないように致しましょう。
仏道は、一生涯自分が自分を生きるという事です。
愛する相手と結婚しても、あなたがアナタであって、あなたの人生であなたを生きるのはあなた以外にいません。
誰を好きになっても構いません。
でも「自分を生きてください」。
この言葉を深ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーい意味でよく噛んで味わってみてください。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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