苦しかった先に
今だんだん笑顔にも笑うこともで
きるようになってきました
私はとある人たちに心の大切なも
のを傷つけられ裏切られました
私の大切な友達 仲間が私を支えて
くれて私は半年苦しんでやっと落
ち着いてきました
私はこれから先一生懸命たとえど
んなことがあっても笑ってたとえ
それがうまくいかなくても進んで
いこうと思っています
前へ進んで大切にしていかないと
いけないものを大切にして優しい
心を大切にして生きていこうもお
もいます
前へ進んでたとえ報われなくても
いつかもっと明るくしあわせを感
じながら生きていくことはできる
のでしょうか?
相手が悪くても自分自身が悪いと責めてしまいます たとえ裏切られても裏切らずに接して苦しいです
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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不思善・不思悪
七世紀頃の中国に弘忍(ぐにん)という禅僧がいました。
禅宗の初祖である達磨さんから5代目に法を嗣いだ人で五祖と呼ばれています。
その頃、中国では禅が花盛りで、弘忍の元にも数百人の弟子が修行をしていたといいます。
やがて弘忍も歳をとり、次のものに法を嗣ぐとなったときに、弟子達と問答などをした結果、大本命だった一番弟子ではなく、学も無い下働きの新人だった慧能という男にこっそりと伝法の証である衣と鉢(食器)を与え、他の弟子たちから守るためにこっそり逃がしました。
それを知った一部の弟子達が彼を追い、ついに追いつくのですが、不思議なことに彼が石の上に置いた衣と鉢を持ち上げることが出来ません。
単なる腕力や知性では禅の法を嗣ぐことは出来ないと感じた追っ手の一人、慧明は、一人の修行者として慧能に教えを請います。
その時、慧能が問うた言葉が
「不思善、不思悪~一念も無い時、そなたの本来の面目はどんなものか」でした。
善を思わず、悪も思わない
相対的認識を捨て去ることが禅の発想のキモなのですが、難しいですか?ごめんなさいね。
善・悪、勝った・負けた、やった・やられた、儲けた・損した
などなど、この世界は無数の「相対的」な価値観であふれています。
人はあらゆるものを対立的に分別せずにはいられません、そして必ずどちらかに偏り、、そこに迷いが生じます。
この「二見対立」から離れた境涯を「空」(くう)と呼びます。
相対的対立から空じるための言葉が「不思善・不思悪」です。
カッカさんも、裏切られた・仲間に支えられた、傷ついた・救われた、報われる・報われないなど、
「二見的対立」の発想に縛られているように思えます。
この世界のあらゆる事象は、存在しているように見えて、必ずいつか消えてゆく現象(空)なのです。
傷ついた経験も、救われた経験も、すべては一時的な現象=「空」(くう)だと念じ、良い経験も辛い経験も、どちらにも心を留めず生きる道をイメ-ジしてみてはいかがでしょう。
善いも悪いもない。
報われるも、報われないも無い。
不思善・不思悪の心を念じて生きるところに、真に心静かに生きる極意があると思います。