hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

争い戦うことは正義なのでしょうか

回答数回答 1
有り難し有り難し 23

自分が欲しい物、
守りたい物の為に人と争うのは正しいことなのでしょうか?
私が見る限り、殺生は良くないとされているようですが、
例えば自分の大切な人が悪漢に襲われそうな時は
争い殺してもいいのでしょうか?


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

螺旋

正義というのはキリスト教の概念です。世界の流れが神や救世主の考え通りに進めば、それが救いに繋がります。だから神や救世主の意志に適った行動が正義であり、神や救世主の意志を邪魔する行動が邪悪です。だから同じ殺人でも正義になる場合と邪悪になる場合があるでしょう。

でも、仏教にはそのような概念はありません。だって創造主たる神さまいないモン。

じゃあ仏教ではどう考えるか?心の平穏に繋がるものが善、苦に繋がるものが悪です。
そうした時に正当防衛はどうなのか?微妙なとこですよね。だから昔の人は上手いこと言いました。輪廻、すなわち苦の螺旋と。

六道の1つに修羅道があります。興福寺の阿修羅像で有名な修羅道です。修羅道は善道とされる場合と悪道とされる場合があります。
怒りに任せた終わりなき争いを繰り広げた昔の阿修羅は悪道にいました。
仏に出会い、これではいけないと改心し、仏法を守る闘いを始めた阿修羅は善道にいます。
でも、善道にいるはずの阿修羅像は、憂いの深い顔をしています。過去の行いを悔いているからでしょうか。闘えども闘えども尽きぬ悪を憂えているのでしょうか。闘って倒した悪に過去の自分を重ね、哀れんでいるのでしょうか。つくづく、昔の人はよく言ったものです。輪廻、苦の螺旋と。

争わねばならぬ時はあるでしょう。守りたい人がいることは有り難いことです。そして、争った末に死なせてしまうこともあるかもしれません。そこに法律としての妥当性はあっても、仏教的な正義邪悪はありません。ただ、哀しく辛い出来事です。
この思い通りにならない世界で、たとえどのような出来事があって、何をしたとしても、慈悲の心を忘れず、慈悲に基づいて行動したいものです。
そしてそんな出来事が起こらない繋がりを育てるために、善を、仏法を広めたいものです。

{{count}}
有り難し
おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouT...
このお坊さんを応援する

質問者からのお礼

大慈様
回答ありがとうございます。
慈悲の心についてまた勉強してみようと思います。
ありがとうございました。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ