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その人とうまく行く方法を教えて頂けますか?

回答数回答 1
有り難し有り難し 37

(編集部より。回答者を指名しての質問はできません。回答者名を非表示にさせていただきました)

7日後に自殺しますという回答で、
・その人とうまく行く方法
・その人との関係の修復方法
・あなたが幸せになれる方法
・極楽浄土にいける方法
・あなたの苦しみを取り除く方法
・楽に死ねる方法
 とか、いろいろ知ってます。
興味があったらご連絡ください。

との回答を読みました。

私も 天涯孤独な上、好きな人に振り向いてもらえないなら、このまま一人は辛いので、死にたいのです。

なので、
・その人とうまく行く方法   を教えて頂けますか?

とある不動明王様に、この片思いをかなえて頂けるなら何もいらないとお願いをしたら、身近な人を失っただけで、何も進展しませんでした。何もいらないというのは、玉の輿とかそういう意味だったのに。
身近な人の死ではなかったのに。

なので、いまとなっては、この片思い叶うしか私には救いが無いのです。
よろしくお願い致します。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

まず、お寺にお越しください。

まず、名指し、指名は規約上ペケです。
ここはホストクラブではありませんので、ご指名はご遠慮願います。
同じ埼玉でしたらうちのお寺にお越しください。(要連絡)
基本的に私は生き死にレベルの問題においては文字のやり取りを重宝しません。
何でもネットや誤解の生じやすい文字のやり取りごときに頼ろうとしてはいけない。そう思いませんか。
その姿勢が甘いと思います。
その姿勢にもあなたの不幸の原因があると学ぶことからです。
もっと自分のファンタジーワールドやネット依存、安易な方法に頼ることをやめて、もっと現実の世界で誠意、真剣さを持って生きた方がいいと思います。
このhasunohaというのはあくまで入り口。
今このやり取りをその男性「彼」が見ていると考えてみてください。
あなたが顔も分からぬ見知らぬ坊さんとネット相談してもらって振り向いてもらいたいと思っているレベルでいるあなたをみたら、とても振り向くわけもないと思います。
もっと心の女子力を高めてから、その人と対等に付き合うべきではないでしょうか。
何でもかんでもあなたが相手に欲しがったって人はそんな都合よく振り向いてくれるわけないです。
何もいらないというのならば、まず死のうとか、自分を傷つけようとか、自分の考えや妄想優先、彼がいないなら死んでしまいたいという、周りをグラグラさせるその思いすら捨てることからです。
恋は恋故に、自分中心目線になります。
愛、慈愛に発展しない限り、恋はどこまでいっても自分の欲なのです。
あなたを慕う相手があなたの事を無視してあなたにばかり要求されて来たらどうでしょうか。
心の女子力を高めてみませんか。
お待ちしております。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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