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依存心の強さを

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有り難し有り難し 12

現在お付き合いしている方がいます。とてもしっかりした方なのですが、考え方や価値観が自分とは合わないとはっきりと感じることがあります。

結婚を前提に、と彼から告白されてお付き合いを始めましたので、結婚に向けてのそれなりに一般的なお付き合いができると思っていました。しかし気持ちがすれ違うことが多くあり何度か話し会った際、日々の連絡や会う頻度、互いの会いたいと感じる想いの差、またプライベートへの関心のなさ、など親密な付き合いは望んでいないとのことで、それを知った際とても傷つき涙が出ました。その状態でどうやって今後の信頼を築いていけばいいのか…と。確かに、人の気持ちは難しいです。100%の想いの一致はないと思いますが、あまりにずれているのではと常に不安です。

最初は絶対に大事にする、不安にさせない、身近な家族を1番に守るからなどと言ってくれ、彼の危険な職業に対して不安を持っていたわたし は誠実なその言葉を信じてお付き合いを決意し、徐々に彼のことが好きにになっていたところだったのに、なぜ先に言ってくれなかったのかと裏切られた気持ちでとてもショックです。

最初は彼の方から連絡を頻繁にくれ、寂しがりの自分は少しずつ親密になっていく感じに安心感を得ていたのですが、付き合いだして1ヶ月もしないうちから連絡の頻度が急激に減り、わたしへの言動や態度も否定的なものへ変わっていき、その頃から徐々に彼から愛されているという実感がもてなくなりました。そのうちに相手への信頼感もなくなってきてしまいました。何度も前向きに信じようとしたのですが…

彼の抱える家族の心配事や仕事のこと、理解して支えてあげられたらと思うのですが、否定的な言動や拒否されるような態度をとられたらどうしようと怖く、最近では何をしてどんな言葉をかけてあげたら彼の安らぎになるのか考えても考えても、もう分からなくなってしまい、自分の存在の無用さに苦しみ、何度も別れを考えてはいるのですが…

最初の彼の優しさと誠実さ、大切にするからと言ってくれたあの言葉が忘れられず、さらに今はひとりになることへの不安とさみしさから答えが出せません。話せばすべては無理でも、少しだけ分かり合えるものでしょうか。

彼も彼で互いの価値観の合わなさに悩み苦しんでいるようです。お互いに離れたほうが幸せなのでしょうか。

長文申し訳ありません。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

真意を直接彼に問う

3回聞いてみて判断してみましょう。
ああ、この人は本当にこういう人なのだなぁと理解されれば自然に離れられます。
今は期待しているのです。彼に。
ひょっとしたら…というストーリーを期待しているのです。
ですが、本心は彼のみぞ知る。
本当に遊んで暮らしたい独身貴族も世の中には存在します。
「マジカヨ?」「やっぱり無理」「ダメだこりゃ」とご自身から心底、思えた方が別れやすいものです。
期待の高さはこちらの問題。
相手の本心は相手の問題。
いずれにせよ、あなたが幸せになれますように応援します。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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