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ネグレクトの親に伝えたい

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有り難し有り難し 14

遅くにすみません。
私の近所に、ネグレクト疑いの方がいらっしゃいます。
その子供の髪は、ベトベトで匂いもあり、同じ服ばかり着ています。母親とは、上の子供が同じ学年だったこともあり少しの会話はした事があります。通報も考えています。関係機関に相談する事が良いとは思っていますが、その前に、母親と話して気づいてもらいたい気持ちもあります。
どういう声かけをしたら良いのでしょうか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

手紙を添えて自分の失敗談をかたる

相手を責めることなく、かつての自分の非や失敗談を話して、苦しいことがあればいくらでも協力をさせていただく、という姿勢を見せつつ、まず相手と対等、同等の立場になる。
そして、相手も一番言われたくないであろう子供のことを指摘する。
責めるのでもなく、なぜ?と問いかけるでもなく、自然に。
子育ての大変さを分かち合いつつ、公平な第三者として接する。
助けなければいけないのはお子さんです。
あなたがかかわることで、母親がその子供により強く当たらないようにしなければなりません。
その為にもいくらネグレクトをしている人であっても、子供にとってはその人しか母親がいないのですから、あなたが愛と赦しの心をもって、ただ困っている子供のために尽力するのみです。
3日前にあるお寺で70代の母親と、4,50代の娘さんがお盆のお寺の行事でありながらも喧嘩をしていました。
たまたま私の耳にそういう会話が聞こえたのです。
どうやらお母さんは足が痛いようで、普通に床に座ってられません。
段差があるところに移動したがっています。
移動したものの、その先にいた女性が、私も足が痛いのでこの場所には来ないでください。場所を移ってください、と言われるのです。
お母さんは困ってしまい、せっかく席を移ったものの、床に座るのでは足が痛い。
段差を活用して椅子に腰を掛けるような形で座りたいのです。
ちょっとした、もめごと状態になりそうだったので、私はとぼけた声で
「お母ちゃん、足が痛いんですよね?」と回りの方にも聞こえるようにお嬢さんに問いかけました。お嬢さんがうなずかれましたので
「あー、すみません。こちらの方おみあしがご不自由でして、ちょいと場所を詰めていただきたいのですが…」と空いているスペースに数名移動していただき「まだ始まりませんからゆっくり足を延ばしていてください 笑」と皆さんにお声掛けして、場をやわらげました。
お嬢さんを責めれば後でお母さんがとっちめられたでしょうから、お母さんが足が痛いお立場にあるということを公共の方の力を借りてお嬢さんに再認識して頂き、誰も傷つかないようにうまく収まる用に、はからいました。
わかりづらいかもしれませんが、誰かを悪者にしないことが実は大切なのです。
悪いことをしている人げは自分が一番わかっています。
その人と友達になる勢いでて上~手に助けてあげてください。お願いします。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます!

早速、友達にそれとなく話してみました。自分の子供の相談から入りました。
旦那様のお母様と折り合いが悪くて、子供に手が回らなかったようです。時々、愚痴を聞かせてもらう事になりました。子供には、悪い事をしていると反省していました。
本当にありがとうございました!

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