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忘れ去られたお地蔵様

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有り難し有り難し 11

いつもお話を聴かせていただきありがとうございます。
毎日読ませていただいてます。
今回、2回目の質問です^^

私が生まれ育った実家は限界集落で買い物も車で1時間程
かかる山の中です。
私が5歳くらいの頃の話なのですが、虫歯が痛くなる度に、
おばあちゃんが泣く私をオンブしては遠くのお地蔵様にお参りに
連れていってくれていました。
自分の記憶の中では通称「トンネルのお地蔵さん」です。
結構な坂道で軽く片道徒歩40分くらいはかかったと思います。

祖母は30年前に亡くなりました。
以来、「おばあちゃんはオンブして連れていってくれたんやね・・・重たかったやろね・・・」という会話を実家で毎回の様にしていて、
最近、そのお地蔵様にお礼のお参りをどうしてもしたいという
気持ちが急にズンズン湧いてきて今年の5月に行ってきました。

実は20年ほど前に新しいトンネルができ、そのお地蔵様は
新しい車道から上の部分にあり、新車道からやっとこさ
見える程度の場所にありました。

車を降りて苔だらけの今にも滑りそうな道をかけ上がって行くと
お地蔵様らしき?陰を発見。
山の中なので昼間でしたが真っ暗でした。
やはり誰も足を踏み入れていない様子でお地蔵様の上には
大きな折れた木の枝等が覆い被さり、山肌も崩れ、
お地蔵様自体はやっとこさ木の根っこがあればこそ倒れないで
どうにか立っておられた・・・という感じでした。
いつ崩れてもおかしくないくらいでした。
木や落ち葉や土をよけると、いつお供えされたか分からないような
缶ジュースとコップが埋もれていました。

こんなお姿になって忘れていて放りっぱなしでごめんなさいと
我を忘れて出来るだけきれいにしました。
そして子供の頃のお礼と、ずっと来なかったお詫びを言い、
ろうそくとお線香をお供えしてきました。

実家に着き、父に話すと「誰も行かないよ」と。
集落の人も誰も何十年も行っていないそうです。
父親もずっと昔からあるお地蔵様なのでどのように
お祀りされていたかさえ詳しいことは全く分からない様で。

そして先日、お盆に帰った時に車で前を通ったらお地蔵様が
こちらを見ていました(暗く茂った山林の中、お地蔵様だけ浮いて見えた感じとでもいうのでしょうか)

お地蔵様は何を思い今、そこに居られるのでしょうか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あなたの心の中に宿ったのではありませんか。

もう、タイトルで全てです。
お地蔵様も喜んでおられると思います。
とても良いことをされました。そして、お地蔵様をシンボルとして、おばあさまへの感謝の気持ちも改たにされたのではないでしょうか。
これからも、できる範囲でご供養し、叶うことであれば周りの方々にもお話されることをお勧めします。

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有り難し
おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊...
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質問者からのお礼

佐藤 良文 様
ご回答ありがとうございます。
書いていたら977文字となってしまい、なんだか変な締めくくりの質問になってしまいました。
いただいたタイトルを拝見して一瞬ギョギョ(@_@)
そしてまたすぐ一瞬で温かい気持ちが沸き上がりました(^-^)
実は私は凄く怖がりで知らないお墓やお地蔵様には念があると思っているので前をスッと横切る程度なんです。
今回いただいた内容に関しては有り難く、あーそうなんだ!と、側にいてくれてるんだ、一緒に歩んで下さるんやぁ!と安心しました。
寂しいんちゃうかな?とずっと考えていたので。
母は私を生んですぐに働きに出なければならなかったので、私は超おばあちゃん子です。
おばあちゃんは寡黙な人でしたが大事にしてくれました。
20歳を迎えた時に私と祖母は血が繋がっていないことを両親から聞いた時はとてもショックでしたが。頭が真っ白になりました。
以来、折に触れ色々な確執があったことも理解し初めました。
生めや育てやの時代…母にとれば嫁いだ先は4人の小姑。一番下は私と歳も近く色々あったそうです。
長男として沢山の弟、妹達を育て上げた父。
世の中で両親を一番尊敬しています。
話が思い切りズレてしまいオマケに長々と申し訳ございません。
本当にありがとうございました。
またお地蔵様のところにお参りに行きます。

「仏像・仏様・阿弥陀・観音」問答一覧

神様も仏様も、必ずしも信じられない

以前「何を信じて生きていけばいいかわからない」ということで投稿させていただき、ご回答もいただいたのですが、やや気になる点があり追加で質問させていただきたく。 自分としては誠実にあろうと生きたつもりでした。 でも、家族間でも、仕事でも、あったことをなかったことにされてみたり、なかったことをあったかのようにされてみたりで責められ、うつ病にもなり、とうとうここ1年半くらいは引きこもりや寝たきりに近い状態になってしまいました。 物の善悪も、何を信じて生きていけばいいかもわからなくなりました。 それでも回答をいただき、自分を大切にして、やはり今までの自分を信じて誠実に生きていく方が良い方向へ向かえるだろうと思えてきました。 そうする中で、もう一回本気で取り組める仕事にも出会いたいし、楽しい趣味も見つけたいし、心穏やかに落ち着いて生きていきたいとも考えています。 ただ、「神様や仏様は見ている」という言葉が回答の中にあり、少し暗い気持ちも残ってしまいました。 神様や仏様がいるのなら、どうしてここまで至る前・・・あの時に助けてくださらなかったのか。あの時、あのひどい扱いをしてきた者たちに報いを与えて下さらなかったのか。もし私が間違っているというのなら、こうなるまでにそれを教えて下さらなかったのか。何ならば、今の私を救ってくださらないのか。何が足りないというのか。 そんな汚い感情を払拭することが出来ません。「神様仏様はそういう都合のいいものではない」、もしかすると「私が以前の何かの報いを受けているだけだ」、と言われてしまうかもしれませんが・・・。 そう考えると、 『本当に今まで通り真面目に誠実に生きる方向で大丈夫なのか?』 『今までの道徳をすべて捨て去るようなこともしなくていいのか?』 『それで「誰かに都合のいい人間」でなく、自分が良い人間となり、よき人生を送れるのか?』 汚い感情と一緒に、まだそういう迷いも多少残っています。 「よき人生を送れるかはわからないけど、無理に全部変えないで、今までのものをアップデートする形で十分じゃないかな」とは思うのですが。 神様や仏様に求めすぎるような汚い思いや、そもそも神様や仏様といった存在にどう向かいあうべきなのか。そして落ち着いた心で生きるためのアドバイスをいただけますと幸いです。

有り難し有り難し 6
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薬師観音様にご挨拶した時のことについて

#お参り#仏像・仏様・阿弥陀・観音 初めて相談させて頂きます。 ありがとうございます。 観音様にご挨拶した時の不思議な体験について、何か気づきを得させて頂ければと思い投稿させていただきます。 よろしくお願いいたします。 先日、お客さんから、川見四季桜が綺麗だったよ、栗きんとんが美味しいよと教えて頂き、天気が良い日に母と出かけました。 可愛らしい桜と、綺麗に赤く染った紅葉と、綺麗な和紙の作品と色々見て、有難く大満足な1日でした。 桜と紅葉を楽しんでいたところ、川見薬師寺に続く階段を見かけて、ご挨拶しようと、急な階段でしたので慎重に登って行きました。 やっとの事で登りきると、正面少し奥に、薬師観音像が見えました。 その時、観音様は私から見て右真横を向いていましたが、一瞬で正面を向かれ、目が合いました。 明らかに目の前で起きた事への理解が追いつかず、何か見てはいけないものを見てしまったのではないかと暫く見つめ合ったまま固まってしまいました。 母に促され、観音様の目の前まで来て、先程のことは一旦離れて、感謝とご挨拶をしました。 先程感じた強い違和感は無いものの、やはり目が合い、微笑んでいるように見えました。 ふと、右真横の目線の先が気になり、確認しに行くと、お寺で飼われている、老犬がいました。 わんちゃんにも挨拶したあと、少し下った先にあるお清めの水が湧き出ている場所に行き、そちらの観音様にご挨拶した際も、やはり目が合い微笑んでいる感じがあり、また呼吸して生きている様に見えました。 その日は1日とても楽しい体験をさせて頂き、ありがとうの気持ちでいっぱいでした。 加えて、人生で初めての体験、感覚ばかりでしたので、不思議に思っております。 拙い文で申し訳ありません。 改めて、よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 6
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観音様へのお願い事について

とある観音様が祀られているお寺にお参りに行った際の事ですが。 初めて訪れたお寺でした。 ウロウロしていると案内して下さる方が出てきて、一通り大まかに説明して下さって、そしてお参りする際に、 「~いくらでもお願い事して大丈夫ですよ~」 と、確か言った気がしました。 一瞬「聞き間違えたかな?…」と思ったのですが…。 観音様のご利益を検索すると、 「…あらゆる願い事を叶える、救いの手を差し伸べる、云々…」らしく載っているのを散見できます。 ですが、参拝者がお参りする際、お賽銭(お布施)って、5円、10円、100円…とか小銭をする場合が凡そ大抵だと思います。 知識がある人なら封筒包で千円単位を包む事はあると思いますが、少数かと思います。 ※ちなみに、神社へのお参りの場合、願い事の規模の大小に依ってそれなりの金額をお賽銭すべきであろぅ、といぅ意見/考え方を聞いた事はあります。 いくらでもお願い事して大丈夫…とは言え、小銭程度で5個も10個ものお願い事するって対価に合わないんじゃ…と想像したのですが、 「Q:そもそも観音様ってお賽銭の額が小銭だから云々…に関わらず、人々の願い事を個数に拘らずに聞いてくださる仏様なのだろうか?という素朴な疑問です」 まぁ、他の仏様、如来/菩薩/明王様…の場合はどうなのか、も詳しく存じ上げていませんが。

有り難し有り難し 15
回答数回答 2

涅槃と菩提心を求めず。仏様との向き合い方

悩みのループに入ったときに、今まで頂戴した回答を読み直しています。 ありがとうございます。 さて、今回大げさなタイトルになりましたが、仏様と向き合う心持ちがわからなくなりご指導を賜りたく投稿いたしました。 仏教の最終目的が成仏・涅槃に入ること、また望ましいありかたとして菩提心を起こして日々を送ることだとしたら、私はそれを望んでいない、なのに写経や読経をするのは方向が違うのか考えてしまいます。 普段、自宅のお仏壇にお経をあげたり、近隣のお寺の写経会に参加しております。 そのお寺での住職様でない方の法話で「仏教的な幸せは涅槃に入ること。表現が難しいけれどお星さまになることかな。寂しく思うかもしれないけれど、それが一番の幸せ」というようなお話でした。 私は仏様になったことがないので、そこまで高尚なことはピンときません。来世があるとしたら人間に生まれ変わって、今叶わなかったことが満たされていたいです。輪廻から出られないことがそれほど不幸なのか?と思います。 菩提心につきまして。こちらの僧侶の方々や写経に伺っているご住職様は菩提心があるなあと驚きます。相手の苦痛を減らそうというお心がひしひしと感じ取れます。ゆるがぬ信仰心と強固な信念に基づいているので、悩んでいる方に寄り添えるのだなあと思います。 翻って私は人並みの親切心はあると思いますが、共感しすぎて痛い目にあうことが多く、拠り所(僧侶の方にとっての信仰心)とするものがありません。最近はやりのバウンダリーをはっきりさせて、余計なことに首をつっこむのをやめよう、自分がしっかりしていないので、他人のことはもう放っておこうと決心したばかりです。 ただ、お寺通いやお経をあげることは止めたくありません。記憶のある時からなぜか神社仏閣が好きです。 仏教的に見て望ましい行い・最終目標から逸れた心を持ちながら、どのように仏様と向き合ったら良いか、是非ご指導くださいませ。

有り難し有り難し 17
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ