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仏像が必要かわからなくなってしまいました回答受付中

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はじめまして。仏像彫刻を習っているヨソと申します。
仏像に対して疑問があり、悶々とした日々です。①②③と質問を書きましたので、お答えいただけたら幸いです。

①お釈迦さまは偶像崇拝と呪文(お経)を唱えることを良しとしなかったと見たことがあるのですが、それは本当でしょうか。
それが本当であれば、お釈迦さまの嫌がることを積極的にやってることを、どのように肯定してきたのでしょうか。

②お釈迦さまは実在されていますが、多くの仏は、人々の願いや願望から生まれたという認識でいます。インドや中国や日本に伝わる過程で他の神様と混ざったり意味合いが変わったり、そうして生まれた仏をどういう気持ちで信仰したらいいのかがわからず、教えていただきたいです。今は丸ごと受け入れることに抵抗があります。

③地元では高名な仏師(兼ご住職)に彫刻を習っていました。片付けの苦手な先生でしたが、ある時先生の作品展を開催するにあたり、ゴミの山の中から見つけて展示した作品に、来場者が手を合わせお布施をされていました。
仏は仏像ではなく祈る者の心に宿る言われますが、ショックを受けた場面でした。
仏像とはどういう存在だとお考えでしょうか?

浅識な上に不勉強なもので、見当違いなことばかり言っているかもしれませんが、このモヤモヤに自分の答えを見出したいと思っています。
どうか宜しくお願いします。

2024年9月18日 20:41

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仏を念じるための媒体

お釈迦様は、弟子からお釈迦様が亡くなったときの弔い方法を尋ねられたときに、遺骨を納めた塔(卒都婆、ストゥーパ)を建てて拝むようにと回答されました。
仏様や偉大な王様などのストゥーパを拝むと人々の心が清らかになると言われています。
私は、これは、尊敬すべき人の人徳を思い出して拝むと、立派な人を見習う気持ち(善の心)が生じるので、その功徳(心に善の癖がつく)によって清らかな心(悟りやすい性格)に近付くのだと考えます。
仏像・仏画や仏名の文字も、要は見習うべき仏様ことを思い出して念じる「念仏」修行を補助する媒体でしょうね。
もしもお釈迦様の時代に写真があったら、お釈迦様の写真を拝んでいたでしょう。
ジャータカ物語というおとぎ話もありますが、これはお釈迦様の前世における尊敬すべき行いを見習うための物語です。
お釈迦様の死後数百年経過すると、経典には様々な仏・菩薩が登場しますが、智慧や慈悲がわかりやすくデフォルメされたキャラをイメージすることで人々の心が清らかになる情報です。
ということで、仏像は、拝む人が仏教に親しみ心を清らかにするためのアイテムだと思います。
工場で大量生産された仏像でも、AIが生成した仏画でも、拝む人が背景にある仏教を正しく理解して思い出せるなら功徳になるでしょう。
なお、お釈迦様は、弟子が信者から詩を唱えた(お経を唱えた)見返りに布施を受けたときに叱っています。
お坊さん側は見返りを求めずに法(教え)を施し、信者が行う布施も拝み賃ではなく見返りを求めないプレゼントであるべきなのです。
現状の日本ではお布施もサービス料金感覚の人が多いのは、我々僧侶の布教不足ですね。

2024年9月19日 7:36
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ゴミも肥やしとなし糧となし、すぐれた悟りの智慧へと転ぜよ。

こんにちは。世の中の救いのはたらき、歩く本尊・歩く仏像を志す禅坊主のすくいのレンゲ活動家一本足りない丹下レンゲ凡下と申します。
🍜レンゲも最近は担々麺専用のレンゲもありますよね。救いもすくいも相手の形に応じて救う姿勢を変えることこそが大事なのですよ。なので優れた師家は馬もロバも天ぷらもチンピラも救います。
先日埼玉の飯能で禅寺で本尊様が盗まれました。
さぁ、どうしましょう。どう救うか。禅宗の坊さんというもんは本堂の本尊さまが無くても代わりにきちんと救いの説法ができないといけません。そうでないと住職をしてはならない決まりもあり、ふさわしくない場合は就任の当日、壇から引きずり降ろされることもあります。いつの時代でも大切なのは木仏・金仏よりも血の通った生きた仏さま、生きた仏の「はたらき・作用」が大事です。
からの…①のこたえ。
それは相手によりけりでしょう。
仏像の方がよりどころとなる人であれば、それあそれで否定しないでしょう。
ですが理知的で現実的な方には、きちんとした本当の仏、覚者のありさま、仏ということ内容をきちんと提示する必要がありますので「対機説法」が答えです。

②正しい坐禅をすると自己の内なる本尊、内なる仏のはたらきがわかるようになる。(お寺へどうぞ)諸々の智慧、種智が手に取るようにわかる。それを象徴化したものがいわゆる各種の仏さまなのです。一方で作られた民間信仰の謎仏について。真の仏のおおらかさというものはⓀⓈ主義のように思想統一や排他的な態度はあまりしません。かまどの神様が出土すればそれも民間信仰で大切にしていたから祀るようにもなる。疫病が治ったりすれば崇めるようにもなる。事実、曹洞宗大本山総持寺では竈の神様三宝荒神やアナグマ稲荷も祀り、豊川稲荷ではダキニ天🦊も祀っています。土着のものを軽視しない、おろそかにしなかったのです。
③たとえゴミや汚泥の中から出土した仏やイライラした人が作る仏像であっても道場を荘厳して祀られるべき形で祀れば、人々との間に名曲・名画を愛でるような響きが生ずるものです。
そもそも人の内部、内側に仏の作用があるからこそ、人は仏のはたらきに共鳴する。菩提心や仏心に人が人を離れて共鳴するのです。万人の中の仏といふ「ありさま」仏といふ「あらわれ」を観じ、引き出し、映し出し、顕現わし、導く事こそが、すぐれた仏師の手腕というもの。

2024年9月19日 14:58
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「お釈迦様・ブッダ」問答一覧

釈尊の教えについて疑問があり悩んでいます

人生がつらいので少しでも楽になりたくて仏教の勉強をしているものです。 お釈迦様の説いた教えについて質問です。 最近、初期仏教の経典スッタニパータを読みとても感動しました。 その結果お釈迦様はこの世の全てが縁起によって繋がっており結局は全てが同一の価値ある存在である事を理解すれば最終的には自己に囚われることもなくなり現世の苦しみをなくすことができると説いているのではないかと自分なりに解釈しました。 しかしそう考えるといくつかの疑問が浮かびました。 スッタニパータでは父母や我が子に対する愛執を捨てる事を悟りへの道とする一方で、父母に従うことが幸せであり老いた父母を養わない者は卑しいと書いてあります。 しかし無我の境地を目指すのであれば血縁関係に固執してはいけないのではないでしょうか?何故父母に限定して言及したのでしょうか?目の前で父母と知らない人が同じ様に病気や貧困や老いに苦しんでいてどちらかにしか手を差し伸べられない状況の時、知らない人を切り捨てて親子だからと特別扱いして父母に手を差し伸べるのは果たして正しいのでしょうか?両親が仏法を汚す人間であってもそれに従うことが幸せなのでしょうか?  私の父親は酒に溺れた非常に暴力的な人間で犬や猫に対して無益な殺生もしていました。母も暴力的な人間でしたし噓つきでした。私はこの両親に従うべきだったのでしょうか?老後の面倒も見なくてはいけないのでしょうか? また怒りや嫌悪についても疑問があります。 スッタニパータでは怒りや嫌悪を煩悩とし捨てることのできないことをなまぐさと言い汚らわしいことだと言う記述があります。 しかし世の中ではしばしば想像を絶するほど卑劣で残忍な事が起こります。  例えば女子小学生に乱暴して殺害した犯人をたまたまニュースで見て犯人に怒りや嫌悪感を覚えるのはなまぐさなのでしょうか?実際に知り合いの僧侶はその事件について犯人を殺してやりたいとまで言っていましたが彼は僧侶失格なのでしょうか? 自分の周りでより強いものによって不当に傷つけられている弱者を見ても怒らず苦しみも感じないことが美徳なのでしょうか? 他の記述が自分の人生価値観を根本から変える素晴らしいものだっただけに、私はこの二つの疑問に苦しみ悩んでいます。 悟りを目指す僧侶の方々にお話を聞きたいです。

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真言宗と浄土真宗の中のお釈迦様

はじめて質問させて頂きます。 プロフィールに記載しておりますが、家族の問題を抱える中、昨年暮れに仏教の教えに出会い、本当に心が穏やかになれた体験を得る事ができました。 それまでの私は、実家が高野山真言宗のお寺とご縁があり、結婚後も実家の仏壇を預かり、月参りや納骨堂のお参りをはじめ、いろんな関わりを持ってきて、仏教と深く関わってきたつもりでした。 しかし昨年暮れ、心身共に行き詰まり疲れ果てた時に出会った教えは浄土真宗(真宗大谷派)の教えだったのです。 その時はじめて、今までずっとお寺に関わってきたつもりだったのに、「仏教の教え」についてほとんど何も知らなかった事がわかったのでした。 それから改めて今求道中なのですが、今まで聴いてきた真言宗のお経と、浄土真宗のお経がまったく違うのにびっくりして、元は同じお釈迦様なのに、どうしてこうも違うのか。 両派ともご本尊がお釈迦様ではないとはどういう事なんだろう。 両派の中の、お釈迦様の教えと、各ご本尊様(大日如来様と阿弥陀様)の関係性って何なのだろうと、今切実に知りたく質問させて頂きました。 私にとって真言宗は小さな頃からずっとずっと触れてきた大切な宗派であり、また浄土真宗は昨年暮れ、本当に行き詰まってどうしようもなくなっていた時に、私の心を救っていただいた大切な宗派なのです。 どちらも私にとっては大切な宗派なので、どうしたらいいのかわからない状況になってしまいました。 ただその中で、元はどちらもはじめはお釈迦様だったのでは?と思い至り、タイトルにある質問をさせて頂きました。 どうぞよいお導きがあればよろしくお願いいたします。

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