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仏像が必要かわからなくなってしまいました

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有り難し有り難し 24

はじめまして。仏像彫刻を習っているヨソと申します。
仏像に対して疑問があり、悶々とした日々です。①②③と質問を書きましたので、お答えいただけたら幸いです。

①お釈迦さまは偶像崇拝と呪文(お経)を唱えることを良しとしなかったと見たことがあるのですが、それは本当でしょうか。
それが本当であれば、お釈迦さまの嫌がることを積極的にやってることを、どのように肯定してきたのでしょうか。

②お釈迦さまは実在されていますが、多くの仏は、人々の願いや願望から生まれたという認識でいます。インドや中国や日本に伝わる過程で他の神様と混ざったり意味合いが変わったり、そうして生まれた仏をどういう気持ちで信仰したらいいのかがわからず、教えていただきたいです。今は丸ごと受け入れることに抵抗があります。

③地元では高名な仏師(兼ご住職)に彫刻を習っていました。片付けの苦手な先生でしたが、ある時先生の作品展を開催するにあたり、ゴミの山の中から見つけて展示した作品に、来場者が手を合わせお布施をされていました。
仏は仏像ではなく祈る者の心に宿る言われますが、ショックを受けた場面でした。
仏像とはどういう存在だとお考えでしょうか?

浅識な上に不勉強なもので、見当違いなことばかり言っているかもしれませんが、このモヤモヤに自分の答えを見出したいと思っています。
どうか宜しくお願いします。

2024年9月18日 20:41

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仏を念じるための媒体

お釈迦様は、弟子からお釈迦様が亡くなったときの弔い方法を尋ねられたときに、遺骨を納めた塔(卒都婆、ストゥーパ)を建てて拝むようにと回答されました。
仏様や偉大な王様などのストゥーパを拝むと人々の心が清らかになると言われています。
私は、これは、尊敬すべき人の人徳を思い出して拝むと、立派な人を見習う気持ち(善の心)が生じるので、その功徳(心に善の癖がつく)によって清らかな心(悟りやすい性格)に近付くのだと考えます。
仏像・仏画や仏名の文字も、要は見習うべき仏様ことを思い出して念じる「念仏」修行を補助する媒体でしょうね。
もしもお釈迦様の時代に写真があったら、お釈迦様の写真を拝んでいたでしょう。
ジャータカ物語というおとぎ話もありますが、これはお釈迦様の前世における尊敬すべき行いを見習うための物語です。
お釈迦様の死後数百年経過すると、経典には様々な仏・菩薩が登場しますが、智慧や慈悲がわかりやすくデフォルメされたキャラをイメージすることで人々の心が清らかになる情報です。
ということで、仏像は、拝む人が仏教に親しみ心を清らかにするためのアイテムだと思います。
工場で大量生産された仏像でも、AIが生成した仏画でも、拝む人が背景にある仏教を正しく理解して思い出せるなら功徳になるでしょう。
なお、お釈迦様は、弟子が信者から詩を唱えた(お経を唱えた)見返りに布施を受けたときに叱っています。
お坊さん側は見返りを求めずに法(教え)を施し、信者が行う布施も拝み賃ではなく見返りを求めないプレゼントであるべきなのです。
現状の日本ではお布施もサービス料金感覚の人が多いのは、我々僧侶の布教不足ですね。

2024年9月19日 7:36
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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

ゴミも肥やしとなし糧となし、すぐれた悟りの智慧へと転ぜよ。

こんにちは。世の中の救いのはたらき、歩く本尊・歩く仏像を志す禅坊主のすくいのレンゲ活動家一本足りない丹下レンゲ凡下と申します。
🍜レンゲも最近は担々麺専用のレンゲもありますよね。救いもすくいも相手の形に応じて救う姿勢を変えることこそが大事なのですよ。なので優れた師家は馬もロバも天ぷらもチンピラも救います。
先日埼玉の飯能で禅寺で本尊様が盗まれました。
さぁ、どうしましょう。どう救うか。禅宗の坊さんというもんは本堂の本尊さまが無くても代わりにきちんと救いの説法ができないといけません。そうでないと住職をしてはならない決まりもあり、ふさわしくない場合は就任の当日、壇から引きずり降ろされることもあります。いつの時代でも大切なのは木仏・金仏よりも血の通った生きた仏さま、生きた仏の「はたらき・作用」が大事です。
からの…①のこたえ。
それは相手によりけりでしょう。
仏像の方がよりどころとなる人であれば、それあそれで否定しないでしょう。
ですが理知的で現実的な方には、きちんとした本当の仏、覚者のありさま、仏ということ内容をきちんと提示する必要がありますので「対機説法」が答えです。

②正しい坐禅をすると自己の内なる本尊、内なる仏のはたらきがわかるようになる。(お寺へどうぞ)諸々の智慧、種智が手に取るようにわかる。それを象徴化したものがいわゆる各種の仏さまなのです。一方で作られた民間信仰の謎仏について。真の仏のおおらかさというものはⓀⓈ主義のように思想統一や排他的な態度はあまりしません。かまどの神様が出土すればそれも民間信仰で大切にしていたから祀るようにもなる。疫病が治ったりすれば崇めるようにもなる。事実、曹洞宗大本山総持寺では竈の神様三宝荒神やアナグマ稲荷も祀り、豊川稲荷ではダキニ天🦊も祀っています。土着のものを軽視しない、おろそかにしなかったのです。
③たとえゴミや汚泥の中から出土した仏やイライラした人が作る仏像であっても道場を荘厳して祀られるべき形で祀れば、人々との間に名曲・名画を愛でるような響きが生ずるものです。
そもそも人の内部、内側に仏の作用があるからこそ、人は仏のはたらきに共鳴する。菩提心や仏心に人が人を離れて共鳴するのです。万人の中の仏といふ「ありさま」仏といふ「あらわれ」を観じ、引き出し、映し出し、顕現わし、導く事こそが、すぐれた仏師の手腕というもの。

2024年9月19日 14:58
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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

願誉浄史様、丹下覚元様、私の疑問に向き合って下さってありがとうございます。

こんな疑問を人に言ったら嫌な思いをさせるだろうか、困らせるだろうか、と誰にも話せずモヤモヤとしてばかりでしたので、真面目に答えていただけることに感動しています。
ご回答は何度も読み返しています。

わかりやすくお話下さって腑に落ちる部分がある反面、私が仏教を知らないせいでまだ理解できない部分もあります。
きっと正しく仏教が理解できれば、ご回答の内容もよりよくわかるのだろうし、わたしが仏像彫刻とどういう関係でいたいかはっきりしそうだと希望を感じています。
真面目に向き合って答えて下さったこと、心の底から感謝申し上げます。
本当にありがとうございました。

(ハスノハのシステムに不慣れでお礼が遅くなりましたこと、お詫び申し上げます。)

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