真実を知りたい
幸せを求めると失敗する恐怖がつきまとう。
不安を取り除こうとすればより苦痛は増し、
一つ不安を解消する度、新たな不安が現れる。
努力が実って幸せを感じてもあっという間に
消え去って、また不足感に苛まれる。
なにこの無限地獄。
努力とか目標って聞こえはいいけど、
要するに「今の自分はまだ駄目」と否定してるだけ。きりがない。
「頑張る」という価値観にうんざり。
そうやってうんざりしてる自分、
常識からはずれる不安に苛まれる自分、
何が真実なのか混乱する自分、
求めて得たものに本当の幸せはないと悟っている自分、
色んな「私」が溢れかえってます。
きっと「私」という概念そのものが
ただの感覚であり幻想なのでしょう。
ありのままに安らぐことはできるのでしょうか。
白隠のように生きたい。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
ありのままも捨てさったありのままをなんと表現できるか
「幸せを求めると失敗する恐怖がつきまとう」のであれば、失敗しない幸せの求め方があります。
人間の元々の「幸せ性」を自分の中に見出すのです。それが仏陀の教え。
「不安を取り除こうとすればより苦痛は増し、 不安を解消する度、新たな不安が現れる。
」
👉不安は取り除くものではなくて、瞬時瞬時に全自動で取り除かれ流れていっている人間の本来の働きに目を向ければよいのです。人間が自分の意志でアクティブに取り除こうとするから傷口を触るようなことになる。触らないことが傷の治癒の上で最も大事なあり方。
新たな不安といっても、人間は一時に一つのことしかできない。
不安ばかりが人生ではありません。不安に焦点を合わせているだけで他を見ようとしていない自分の癖をやめればいいのです。
あなたは幸せということを山頂に到達することと設定しているから一瞬で終わるのです。
パンをこねる間も、焼いている間も食べる時もすべてが幸せのパン(自己)の中。
「今の自分はまだ駄目と否定してうんざりする自分」
👉うんざりしたいう真実こそ答えです。
そういう幸せの求め方はペケ🐧💦だったと学ぶのです。
自分がないという割に、その自分で悩んでいる自分はハテ?何者でしょう。
理の上で勉強をしても、手ごたえはないのです。
本当に自分がないということを実際に学ぶ参禅の必要があるというメッセージとして受け止めましょう。
本当のありのまま、あるがままには「ありのまま」も「あるがまま」もありません。
正受老人にかわって愛の鉄拳を食らわしますが、
あなたがものを見る時、聞く時、すぐそこに自分が割り込み車のように入り込んでいることを自覚しましょう。何を聞くにも何を眺めるにも、自分の想念が高速で要らぬコメントを愚痴りだす。私の回答を受けても正受せずに瞬時に自分流の解釈を割り込ませて真意を受け取らない。「それ」があなたの煩悩の根源でしょう。
たとえば、悟りという言葉にしても、多くの人は「悟りなんて」「自分には無理」と遠ざけたり、妄想したり、抵抗する。それが【割り込み思考】なのです。何か出来事が起こる度に評論者のようなコメント思考、ツイート、ぼやきが介入する。その介入してくる割り込み思考を自覚なさって、その介入を阻止すること。あなたが白隠のような祖師になるには、その割り込み思考を阻止するべし。ってシャレかい。
参禅をお勧めします。
幸せとは、旅の仕方であって、行き先のことではない。
私の寺では、毎月門前の掲示板の言葉を書きかえていますが、平成29年8月の言葉が
「幸せとは、旅の仕方であって、行き先のことではない。」でした。
小泉吉宏さんの著作「ブッタとシッタカブッタ」のなかに、こんな言葉があります。
「シッタカブッタ(登場人物の名前)は、幸福を探しに何年も歩いていたが、歩いても歩いても見つからなかった」
「シッタカブッタは休んで考えた」
「シッタカブッタは探すのをやめて歩くことを楽しみはじめた」
「幸福は歩くことそのものにあった」
もうひとつ。15年ほど前に「僕の生きる道」というドラマが放送されました。その中にこんなセリフがありました。
「例えば、高校生活は、いい大学に入るためにあるとしましょう。
大学はいい会社に入るため、会社に入ったら、係長になるために仕事をし、係長は課長になるため、出世はたくさんの退職金をもらうため、たくさんの退職金は、老後を豊かに過ごすため、こんな風に将来のために今を犠牲にして一生を過ごしたとしましょう。
そうやって生きてきた道には、自分の足跡が何も残っていない気がするのです。
つまり、将来を考えて生きることも大切ですけど、その時その時もしっかりと生きて欲しいのです。」
「達成できた自分」も達成感がありカッコイイですが、是非「がんばっている自分」をもっとほめて、「がんばっている状態」を楽しめるようになると良いですね。
「全ては縁起し空である」
mio様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「頑張る」というのは、本来、目的のための手段であるはずが、いつのまにか「頑張る」が目的化してしまっていることがあり、誠に注意が必要であります。
このことにつきましては、下記論考を是非お読みくださいませ。
ドヤ顔で言おう。「学生時代に頑張ったことは何もない」と(熊谷真士氏)
https://www.onecareer.jp/articles/782
とにかく、目的(幸せ)へと向けて、無駄な頑張りを排除して、効率的に頑張りたいものとなります。
「全ては縁起し空である」は、仏教の説く真実義であります。私も貴女様も、あらゆるモノ・コトも例外はあり得ません。
お礼の内容についてとなりますが、是非、下記拙論の内容もお読み下さいましたらと存じます。
『般若心経における「空」について』
http://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/93cd51b49c2264eb00fcc00a904a3392
全ては、縁起なるもの。悟りももちろんです。その悟りへと向けた善き因縁(原因と条件)を調えていくための教えが仏教でございます。
仏教を修習していくことによって、この迷い苦しみの無限地獄という輪廻を超えて参りたいものとなります。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
丹下さま
禅の方のご回答をうかがいたい、とぼんやり思っていたので嬉しいです。
おっしゃられるところの煩悩が何を意味するのか
よくは知りませんが、
色即是空、空即是色ならば
煩悩も思考も感情も体も知覚されているものゆえ
空の豊かなる一時の表現、即ち色なのでしょう。
これらのエネルギーの流れ全てに気づいている
本当の意味での主体、自己はいったい何なのでしょう。
「私」には見つけられないことは分かってます。
見つけられるものは嘘なんだから。
禅とは、自己が自己に、空が空に気づくことなのでしょうか。
口英俊さま
ご回答ありがとうございます。
失礼を承知で伺いたいのですが、
仏道に身を置かれて、色として生きながらも
自己の絶対的な空、仏性に気づくことはできましたか。苦しみへの自己同一化は終わりましたか。
正直に申し上げますと
仏陀やイエスのメッセージを聞くのは好きなのですが、宗教そのものは仏陀のファンクラブのように見えてなんか違うな…と感じています。
「ドヤ顔で言おう」の記事、爆笑しながら読ませていただきました。
光輝さま
ご回答ありがとうございます。
「歩くことを楽しむ」その通りですね。
自分はそこまで好きじゃないのに親や先生が望むような事に一生懸命取り組むうちに、
何をするにしても達成することにしか意味を感じられなくなったのかもしれません。
今は、成さなければという強迫観念と
「そんなんつまらん。絶対嫌」という本音が
大戦争をしています。
実は本音を感じられるようになっただけでも大進歩なのです。
しばらくこの大戦争を観察しようと思います。
「幸せとは、旅の仕方であって、行き先のことではない。」
どこそこに行こうと決めようと決めまいと既に旅は始まっているのですよね。