hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

苦しみから解き離れたい

回答数回答 1
有り難し有り難し 34

ただ今双極性鬱病とADHDという発達障害の治療中です。

仕事は昨年の12月末から休みが融通の利くところで少しずつ始めていましたが、4月から保育園が決まり、さぁちゃんと働こうかと思った矢先にその職場が潰れました。
病気のことも合ったのでゆっくり探し、3か月前から新しい職場で研修生として働き始めました。
そして無事に研修期間は終わりちゃんとパートとして契約をしてもらえました。

今の職場は良い人に恵まれ昔トラウマになった長時間労働、休みがもらえない、寝る時間がない、嫌がらせなどもなく過ごせています。正直楽しいとは思います。

しかし、仕事が終わり子供を迎えに行き適当なご飯を与える…。そんな毎日が続き、昔のトラウマ(時間がない、寝たらあっという間に朝でまた嫌な一日が始まる、無理して笑顔を作る)などが急に襲ってきます。
休日の日もそうです。なにもやる気が起きず、外にも出れない、ご飯も食べる気力がない。
天井を見つめていたら気づけば数時間がたっていて無駄な一日が終わる…。子供を迎えに行く時間が来る。夕飯。風呂。寝る。朝…
その繰り返しが、とても怖くてパニックになり、明らかに症状が悪化しています。
病気に勝ちたい…弱い自分が嫌いです。でも病気に勝てないこともあります。
どうしたらこの気持ちから解き放たれ自由になれるのでしょうか。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

病気には勝たなくていい。

病気には勝たなくてもいい。
負けなくてもいい。
病気は自分がなろうと思ってなったのではないから、波が変化しただけ。
その波を無理やり変えようと思わないことです。
自然に治るべきものは自然に治ります。
私もマイコプラズマにかかった時は、どう頑張っても治らない時は治りません。
このお命様、体が治してくださるのです。
あと、暗示にかからないことです。
アタシは病気だ、病気だ、ビョーキだと思いこむことが本当に心が病むのです。
シャレじゃないですが、海外アーティストでビョークという方が映画「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の主演をやりました。
主人公は悲しい人生を歩む女性です。その役に感情移入しすぎて、演技に没頭して、本当に心が病んだそうです。
人間「そうだ」と思いこむことで本当に脳がばかされる。病気は病気。それは仕方ない。でも病苦は思いの上で病むこと、心の中でそれを病むこと、問題にすることです。ちゃんと分離しましょう。
シャレじゃないですが、シャレになりません。
坊主が屏風に上手に病苦の絵を描いた、ならぬビョークが病気で病苦の女性を上手に演じたらホントにビョークだけに病苦になっちゃったのです。ん、シャレ?
自分で自分の思いにつまづくという事は本当にあります。
「ダンサーインザダーク」だけに、暗い闇の中でつまづくのですね。あ、そりゃ、ダンサーじゃなくて段差ね。「ゴン」
フラッシュバックもトラウマも、出てきた時点ではそこに病苦はない。
ただの思いです。
それを嫌がるアナタを発見してください。
いつも出てきた時点でつまづいている自分がいる。
問題にして、問題視して、問題化させているのは、実はあなたなのです。
本当に病気を治したければそれをやめることです。
病気は病気。
病気だからと言って、病苦のレベルを上げるのは自分。
私は病気になった時は、体病気なだけです。
心は楽しんでいます。参考になさってください。
病は気からではなく、
病は病。気にする病は、体の病ではなく、心で病んでいるのです。
自分が、病化しなければ、思いがポンと出ただけ。
アナタは、今日から治せるきっかけを得ました。多くの人を治せる希望を与えるためにもモニターになってください。(^<^)分からないことがあったら、その都度、質問してください。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ