愛されたいです
20代女性です
愛されたい、寂しいという気持ちがどんどん大きくなってどうしようもありません。
恋人はいませんが、家族中が特別悪いわけでも友人がいないわけでもありません。
わたしは4人兄弟の末っ子で上の兄弟にくらべるといまいち優先順位が低いようにかんじます。友人も相談をしたりプライベートで遊んだり親しくしている人は何人かいます。それでもその友人からみて私は最も親しいとよべるものではないと思います。
ここ数年こんな気持ちがどんどんあふれてきて、愛されたい、大切にされたい、だれにも必要とされてないのではないかと考えてしまいます。
すきな人もいましたが実らず、その度に私は必要とされない、愛されないといった気持ちが強くなります。
自分に自信もないし大切にできません。そんな人間が他人から愛されないこともわかっています。逆に愛されないから自信ももてません。もう周りの幸せそうな人間をみるのもしんどいです。どうせなら他人と一切関わらずに生きていきたいとさえ思います。
乱文で大変申し訳ないですが、なにかご助言をいただけたらと思います。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
我が道を行け
仲良くなるために仲良くなるのって、結局は人脈(コネ)に近いものであり、絆とはちょっと違うと私は思うんですよね。
お坊さんは修行道場で修行生活を送りますが、その中で厳しい時期を共にした仲間との関係は格別です。戦友のようなものと言ってもいいでしょう。
彼らとは別に共通の趣味があるわけでもありませんし、よく一緒に遊びに行くわけでもありませんし、むしろ今ではほとんど連絡を取り合うこともありません。でも、風の噂で活躍を耳にすると自分のことのように嬉しい気分になり、俺も頑張らなきゃ、負けてらんないなと思います。
もし私がお坊さんの世界で完全に孤立してしまったなら、きっと最後に頼れるのは彼らだろうとは思いますが、別に彼らが今私のそばで一緒にいてくれる必要はありません。優しい言葉を望みもしません。何かの折に会えば楽しく語り合いたいと思いますが、普段から一緒に遊ぼうぜって誘おうとも思いません。
でも、彼らがこの世界のどこかで今も私と同じ方向を向いて頑張っている…どこで何してんだか知りやしないけど、きっと頑張っている…そのように感じられるだけで活力が湧いてくるんです。
Hasunohaの回答僧さん達だってそうですよ。私は回答僧さん達に対しても匿名ですので一切の交流を持っていません。でも、回答の中のちょっとした仕草と言いますか、文章の流れや水面下の部分で気持ちのやり取りが自然に生まれるものです。
その中で他の回答僧さんが本気で仏道に向き合っていらっしゃる姿を拝見すると、私も頑張ろうって活力をいただきます。
私はhasunohaに必要の無い人間です。だって私が回答しなくったって、誰かしら回答なさりますし。私ならではの回答はあっても、私じゃないと回答できない質問なんてありませんし。私が退会したからってhasunoha運営に何の支障もないでしょう。
でも、孤独は感じません。だって、一度も実際に会ったことがなく、これから会う見込みもありませんが、それでも同じ方向を向いているお釈迦様の兄弟弟子がいっぱいいますもん。
そう、『同じ方向を向いて頑張っている』。そこが大事なんです。
あなたはどこを向いていますか?
私の方を向いて!ではなく、まずはご自分がまっすぐ、ひたむきに向き合えるものを探してみてはいかがでしょうか。
渇愛
”愛されることより、愛することを。理解されることより、理解することを大切にしなさい。”
マザーテレサのお言葉です。
マザーテレサは言わずと知れた敬虔なカトリックの修道女です。彼女は神のミッションを従順に遂行する為の教えだと思われますが、仏教で説く【菩薩道】を歩みなさいということを同じです。
”もう周りの幸せそうな人間をみるのもしんどいです”
”どうせなら他人と一切関わらずに生きていきたいとさえ思います”
あなたはご自分が愛されていない、大切にされていない、必要とされていないと嘆いていらっしゃいますが、では、あなたこれまでにどれだけ他者を愛してきたのでしょうか?これはもちろん男女の色恋に限ったことではありません。
本当にあなたが愛されていないのなら、それはとても不幸なことです。しかしながら、あなたが他者を愛そうとしていないのなら、それこそもっともっと不幸な話です。
<飢え>より断然に苦しい<渇き>を潤すには、じつは愛されることより愛することのほうが重要だったりします。