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好きな人

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七月に幼稚園の時両思いだった男性と
18年ぶりに再会し食事に行きました

帰り家まで送ってもらい(^^;;車内で三十分位お話しました。(^.^)

楽しかったです。

その後 二回程LINEしてたのですが
既読スルー。

忙しいのもあると思いますが、(^^;;
最近その人の事を考えないようにしてたのですが先日夢に出てきました

夢に出てきから会いたくなりましたし、

私はその人の事が好きです

どうしたら良いでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

そろそろ

ちょい厳しい(´・_・`)事を書かせていただきます。
最近のあなたの連投、まさに既読スルーされていると感じませんか?
「どうして私の質問に、すぐレスがつかないの?」とか「たくさんの人に、って言ってるのに…」って。

そういう気持ちが湧き上がっているなら、まさにそれを投げかければいいのに、と思います。
(見当違いならいいけどね)

あなたの問いかけ(独り言?)に対して、結構多くの方が「こうしてみたら、ああしてみたら」と答えてくださっているのですが、それへの対応がない(というか、既読スルーでしょ)。
で、同じ事を何度もコピペ。
サーブ打って、レシーブして、でボールはどっか闇に吸い込まれていく。暫くすると、またいつの間にかボールが飛んで来てる。これ、他人からされたらどうですか?想像してみてください。
あなた以外の方が起こした「問い」にも目を向けて欲しいな、世の中にはこんな人もいるんだな、と気づいて欲しくて、私はお答えしてきましたが、どうも、そういうそぶりも見えない。
これでは、折角守ってくださった女性上司も、アナウンスを褒めてくれた店長も、綺麗だと言ってくれた美容師さんも、みんな「あーあ、」と感じているような気がします。
褒めてもらった、励ましてもらった事を「わーい!褒めてもらっちゃったー」って言うために使ってるように感じるんですもの。
だから、便箋や封筒を買っていらっしゃい。行動を起こしてごらんなさい。

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有り難し
おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

それでも既読スルーするぅ?

こんにちは。日本シンクロ協会埼玉県支部長シンクロクロスケ400%丹下と申します。o(^<^)o
光園寺 佐藤良文さまにも大変同感共感シンクロ率400%越えです。
ですが、ショコラさんにも出血大サービスで399%同調しておきます。
チョイ疑問なので私からの簡単な質問です。
「私はショコラさんに回答していますが、ほとんどいつも既読スルーされています。(´▽`*)
ショコラさん、どう思いますか?o(^<^)o」
あなたが、こちらを既読スルーするということは、相手方も同じだという事なのではないでしょうか。よほど、突っ込んで、相手の心理バリアを乗り越えてでも入っていかなければ、溶け込めないのではないでしょうか。せっかくショコラさんなのですから、カチカチに固まらずにもっと熱を以って自分を溶かして、溶け込んでいってみたらどうでしょう。
私も坐禅会で皆さんにもよく仏道修行として「既読スルー」を勧めています。
ここでいう既読スルーとは、勿論ラインの既読スルーではなく、そういう出来事があった時にこそ、あまり後からアレコレ思いを起こさずに、認知すべきことは認知し、あとは既読スルーするように、あまりアレコレ思いのつけ足しをしない、という事です。
私のアドバイスも既読スルーで結構です。
LINEではなく、実生活の上でもあまり小さなことは、あなたも既読スルーする(流し去る)べきです。
ですが、どうしても既読スルーしたままにできないことがあるはずでしょう?
返信、回答もそうです。
あなたも彼から既読スルーされていやだったら、私には返信不要ですから、アドバイスをくれた方へせめて返信をして❝コミュニケーション❞を完結させてください。
恋の前にまず、会話を成立させること。会話がキャッチボールではなく、一方通行になってしまっているのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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