力強く生きたい
力強く生きようと、仕事ができるようになろうと、自信を持って生きようと、自分を責めずに生きようと、
いろいろやってきたつもりですが(ボランティア的なことも含め)、何一つ実を結びません。
精神科の症状に振り回される日々です。
思うに、やはり、俗世の価値観にまみれた自分は、仕事をして稼がないと、納得できないのだと思います。でもそれが精神症状のせいで果てしなく遠く、良くなるまでこの無力感と付き合わなければならないのかなと思うと、げんなりします。ストレスにも弱いです。もう15年以上リハビリしてるのに。
こんな僕をも力強く受け入れて下さるのが仏教なのですよね。何かありましたら御言葉下さい。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
受け入れる、は誰の問題か。
こんばんは。私は浄土宗ですので、そちらにバイアスした考えなんだろう、と思いながらの解答ですが。
因果応報という言葉、ご存じでしょうか。「物事には原因がある。そして、それを取り巻く縁=環境や条件があり、何らかの結果が生まれる」という、「ものごとの法則」です。摩訶不思議な、マジカルな力ではありません。マジカルに見えるのは、「ものごとの法則」を自分が正しく見れていないから。自分の持つ煩悩が、「正しく因果を見る」ことを妨げているのです。
もしかすると、因果応報を「こんなに酷いことが起きたのは、前世だか何だかに自分が悪い行いをしたからだ」というネガティブなストーリーとして理解しているかも知れませんが、それは半面の理解。「良いことを行ったから、良い結果が生まれたのだ」も「因果応報」です。「中途半端なことをしたから、中途半端な結果が出た」も同じ。コンテンツではなくメカニズムなのです。
ということは…「いろいろやってきた」事は、既にすべて「何らかの実を結んでいる」のです。それが貴方の望んだものかは分かりません。望んだとおりにならない=苦があるのが娑婆ですから。
あなたが「無力感に苛まれる」というのも、何らかの因果です。それ以前の事柄と状況による結果です。事柄は恐らく客観的に起きているのですが、貴方の評価=見方が「自分は無力である」と責める結果になっていると思います。
私達浄土宗は、「自分はきっと、煩悩から逃れられない。無明から脱することができない」という自己認識…無力感に近いでしょう…を持つことから始まります。阿弥陀様という仏様は、「誰だって、私の名前を呼ぶ者は極楽へ迎え入れましょう」と誓って仏様になりました。だから、自分の無力さを知りつつ、それを抱えたままで仏様に自らを預けましょう。「仏様、私を助けて下さい」とお念仏唱えましょう。あとは仏様がやってくださいます。
このストーリーにすがれる貴方でしょうか?荒唐無稽と思いますか?あなたがこのストーリーを信じてお念仏唱える時、阿弥陀様はあなたを極楽へ迎え入れて下さいます。順番は「始めに我が身の程を信じ、後に佛を信じる」です。
ですからね、「仏教が受け入れるか否か」ではなく、「あなたが仏教を受け入れるか否か」が問題なのです。
質問者からのお礼
ありがとうございます。
いろいろと参考になりました。
有り難し、です。