理不尽な暴力に対して
太古から人間社会にある理不尽な暴力に対してはどうすれば良いのでしょうか。
自分は平和な日本の幸せな家庭に生まれました。今まで確かに困難なこと、辛いことは多くありました。しかし それは自分が成長するためにあったりと、今思えばプラスになっていることが多いですし、ある程度乗り越える力はつきました。
そこで自分は思いました。もし自分や大切な家族友達に理不尽な暴力が降りかかったら 自分はどうするのだろうと。例えばテレビで見るようなサイコパスな犯人による連続殺人、世界各地で起きている 血で血を洗う紛争など。。 このようなことは現代だけでなく、例えばお釈迦様の生きていた時代にもあったと思います。
そして質問なのですが、こういった暴力をどう解釈し、どう立ち向かうべきなのでしょうか。
とても漠然とした質問ですし、正直その教えをいただいたとして、自分がいざ 理不尽な暴力に襲われたら自制して その教えを守ることができないかもしれません。
しかし自分の幸せな人生と そういった世界で生きる人を対比し 色々考え 色々疑問に思ったのです。 何かヒントになる言葉でも教えていただけないでしょうか。
長々と失礼しました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
『対面』
『自分がいざ 理不尽な暴力に襲われたら自制して その教えを守ることができないかもしれません。 』
まさにおっしゃる通りで自分がそんなことに遭ったらどんな理由も届くとは思えません。だからこそ「理不尽」というのかもしれませんが。。。
『暴力をどう解釈し、どう立ち向かうべきなのでしょうか。』
暴力だけではなくて、それ以外のことでも往々にして
「なぜ私ばかりこんなつらいめにあわなければならないの。」
と実際にそんな目に遭われた方々こそ
今まさにあなたの問いに直面し、
今なお答えを探し続けているところなのでしょう。
暴力に対しては守る手を考えるほかないですし、出来ることは限られてしまいます。
ですからその問いは、燈さんひとりが暴力をどう解釈するかより、燈さんと、そこにいる人たち同士がどのようにして共感を築き上げていくかにかかっていると思います。
決して簡単ではないでしょう。
個人によって痛みなどは千差万別ながら。
虐待。災害。事件。競争。
どれも当人にとっては耐え難く避けがたいもので
しかし何より残酷なのは、その痛みを誰も分かってくれないことかもしれません。
個人的にはっきり申し上げてしまえば、「分かることはできない」んだと思うんです。
ただ目の前にいれば「何かを訴えていることは分かる」。
対面していれば「伝わってくるのが分かる」。
「目の前にいてくれるだけでいい。」
忘れられない過ちを抱えていたとしても、そんな言葉が私にとってひとつの「救い」です。
ただその「目の前」が難しいときがあるのです。
私たちは時々、人と一緒にいるとき
目の前にいるのに「目の前」にいない。
対面しているのに「対面」できていない。
そういうことをしてしまいがちです。SNSのせいだとか色々言う人はいますが私には分かりません。
「対面」できれば、ぶつかることはあっても、それによって暴力への向き合い方を知ることができると信じています。
ですから
無理せずで構いません、人と「対面」するということを知っていただきたいです。
顔を知り、お互いを知り、痛みを知ると、近づくべき人間かそうでないかが分かってくるように。共感できるところとそうでないところが分かるように。
暴力に向き合うのではなく、他者と「対面」することで
得た情報を、ご自身を守り相手を守る糧にしていってくださいますよう
願っています。
拝読させて頂きました。
あなたのおっしゃるとおりこの世では様々な争い理不尽な蛮行が繰り返されています。
おっしゃるようにお釈迦様の時代でも様々な人、集団、部族、民族、王国同士が争い合っていたことでしょう。
そう考えるならば人間は一つも利口にはなっていません。
逆に暴力行為や虐殺行為はひどくなっているようにも思います。
知らない人と何のためらいもなく原子爆弾や化学兵器で一瞬のうちに殺戮する行為は恐ろしい悪業です。
また民族的な違いなどで強制収容して大量に虐殺を繰り返すような極悪な行為が今でもなされています。
やはり私達はそのような悪や愚かな心や悪業からは目を背けずにしっかりと人として正しく生きる道を学んでいき自ら正しく判断していかねばならないと思います。
それには歴史を正しく学んでいくことも必要でしょうし、今起きている出来事、事件、紛争、戦争等にも注意を払っていかねばならないでしょう。
その中で正しい情報を受け取り冷静に判断していく力を身に付けることが日々大事なことです。
今でも広島や長崎の原子爆弾投下によって苦しむ人々の姿や核兵器に反対する方々の意見にしっかりと耳を傾けていったり、西洋諸国だけの情報ではなく紛争地域で困っている方々の生の声にしっかりと耳を傾けることも大切なことかと思います。
仏教ではみだりに他の生命を奪うような愚かな行いをしない事が戒律によって定められていますが現実世界ではその様な蛮行だらけであることが実情です。
私達一人一人が本当に大切なことを決して惑わされずに欲望に駆られたりせずに正しく見て受け止めて冷静に判断していくことが求められると思います。
私のいのちが大切な様に他者のいのちも大切ですからね。
そのことをいかに忘れずに心に留めて判断して実行していけるかです。
仏様は「自燈明法燈明じとうみょうほうとうみょう」
己自身を正しく信じ自らを燈火として寄る辺として生きていくこと、真理である法を燈火として寄る辺として生きていくことが生きる道であると説いていらっしゃいます。
あなたもどうかこれから素直に成長なさっていかれて正しい道を己の正しい判断の元しっかりと生きていって頂きたいと切に願います。
質問者からのお礼
お忙しい中ありがとうございました。
世界を見ても分かる通り これだというものは無いんですね。。
一歩一歩一つ一つ 大切に人と対面し 多くの人の声に心を傾けて、、難しいとは思いますし、なかなか上手くはいかないと思いますが
挑戦はしたいと思います。
ありがとうございました。