不思議に感じた事
10年ほど前、まだ小学校低学年だった頃、夜家族で使用している寝室にゴキブリが出ました。
父に退治するように言ったのですが、見逃してしまい、私は『別の部屋で寝たい』と駄々をこねました。
残り空いてる部屋は物が少ないあまり使っていない部屋で、そこで父と寝ました。
寝室には、布団の真横にテレビがありました。
朝方になり、震度六強の地震がありました。
すぐ寝室に行くと、テレビが落下していました。母は寝室にいましたが、幸いテレビから離れたところで寝ていて無事でした。
以前飼っていた愛犬も、よくテレビの前で寝ていたのですがその時は玄関で寝ていて無事でした。もうひとつ、先日、家族で海外旅行に行きました。少しお恥ずかしいのですが、私が日頃から大切にしているぬいぐるみも一緒に連れていきました。旅行の中の1日、レンタカーで色々な所をまわりました。街が一望出来る丘に行こうという事になり、駐車場にレンタカーをとめて10分ほど行き戻ってきました。
なぜかその時はぬいぐるみも袋に入れて丘に一緒に連れていこうと思い、連れていきました。
戻ってくると、隣に止まっていた車の窓ガラスがバリバリに割られていました。
周りに数人いた人たちも騒然としていました。
別の場所に寄った時は、ぬいぐるみは袋に入れて車の後ろにおいて出かけていました。
中身はぬいぐるみだとはいえ、袋が置いてあればもしかして自分たちも被害にあっていたかもしれない、と思うとこの時だけ持って行ったことに不思議だなと感じました。
何かに守られているのかな?だとしたらどう感謝すればいいのかなと思いましたが、そんな事は有り得ることでしょうか?
考えすぎでしたら申し訳ないです^^;
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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信仰の形として
世の中には不思議な事があるものですよね。それこそ何かに守られているとしか考えられないような巡りあわせがあったりします。
不思議な事にそのような体験を何度かなさったのですね。
私達に降りかかってくるご縁というのは数えきれない原因と条件と結果の賜物です。私にとって都合のいい事でも、悪い事でも、そのご縁は当然ではない、こうしてご縁が調ったということが有難い奇跡的なものであります。
私の思議(思い)で計らう(あれこれと理屈をたてて考える)ことが不可(できない)から「不思議」「不可思議」と言います。
そのご縁を解釈するのは人間の性です。
中には同じように奇跡的な巡りあわせで命が助かっても、その後にとてつもなく苦しいご縁に襲われた時に、「あの時死ねていれば今こんな苦しい思いはせずにすんだのに」などと言う方もいらっしゃいます。
「守られている」どころか「呪われている」なんて解釈ですね。
(hasunohaにも実際にそういう相談がありました)
どんなご縁も自らの都合を超えて「有り難いなあ」と手を合わせていただいていけたらこんなに素敵な事はありません。
どこかに仏様や神様やご先祖様が存在して粋な計らいで守ってくれているわけではありませんが、自らににいただいたご縁の巡りあわせを「〇〇のおかげ様」と感謝していくのは信仰の形でもあります。
もちろん自分に都合が悪い時には「〇〇のせい」なんていうことにはならないように注意が必要ですけどね。
ご自宅の仏壇や、菩提寺の本尊や近所の寺社などで手を合わせて今自分がいただいているご縁に思いを馳せてみるというのも素敵な事ですね。
安心して
拝読させて頂きました。
あなたは沢山の方々に守られて生きているんですね。その時その時多くの方々があなたを正しく導いてくださっているのかと思います。
地震の時も旅行に行った時も必ずあなたやご家族の皆さん、そしてあなたがいつも心を込めて大切になさっているぬいぐるみをも守っていて下さるのかと思います。
どうかそのことを心にお留めなさり様々な方々やご先祖様にも感謝なさり、これからもどうか宜しくお願いします、と心から願いご供養もなさってくださいね。
どうかこれからも安心してあなたの人生を健やかに生き抜いて下さいね。あなたはこれからもずっと沢山の方々とのご縁の中で守られて導かれて生き抜いていかれるのですからね。
質問者からのお礼
ご回答ありがとうございました。
私を守ってくれている人なんていないのではないかと思う時もありましたが、そんなことは無いのだと気づくことが出来ました。
これからは感謝して日々生活していこうと思います。
ありがとうございました。