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神や仏の存在とは?

今日、ふっと思った事の答えを教えて欲しいです。
この世には色々な宗教、宗派がありますが、基本的には人々を幸せに導く為や心の拠り所として神や仏というものが存在しているんだ思います。

しかし、事件や事故に巻き込まれて突然命を奪われて亡くなる人もいたり、生まれつき障害や病気を抱え生涯苦労したり生まれてすぐ亡くなる子供がいたりします。
また、生まれ育った環境で心に傷を負ったまま生きていかなければならない人達もいます。

第三者は同情したり励ますだけで終わってしまいますが、当事者やその家族は「なぜ?」「どうして?」と言う疑問や悲しみだけしか残りません。

人は神や仏に助けを求めたり幸せになれる事を祈り信仰してるんだと思いますが、なぜこの様な差と言うか違いが生まれるのでしょう?
当事者や家族にしてみれば祈りや信仰は何の意味も無いし、悲しみを癒してくれるものでもないと思ってしまうのではないでしょうか?
そう思うと神や仏とはいったい何の為に存在してるのでしょうか?

私の友人の奥様は5歳の子供を事故で亡くし、その後生まれた子供もわずか6ヶ月で病気で亡くしました。
奥様は廃人同然の様になり今も精神科で入院しており、友人も以前とは見る影もない程落ちぶれてしまいました。
きっと幸せな生活を夢見てたと思います。

ニュースで土砂崩れに巻き込まれて21歳の女性が行方不明になっているのを見て、その女性もこれからの人生に夢と希望を持ってたはずだろうなぁと思っていた時、神様って何なんだろうとふっと思ってしまいました。

有り難し 52
回答 5

質問投稿日: 2018年4月16日 1:29

回答は各僧侶の個人的な意見であり仏教教義や宗派見解と異なることがあります。答えは一つとは限りません。多くの回答(法施)からあなたの人生を探してみてください。
回答僧

大慈

世界に存在意義は無い。意義は人の価値観だから

その神様はキリスト教とかユダヤ教とかそこら辺の創造神です。

日本の八百万の神々は…例えば家宅六神が分かりやすいのですが、①家の建材である石や土の神、②同じく砂の神、③大戸、出入り口の神、④屋根葺きの神、⑤葺き終わった屋根の神、⑥風雨から守ってくれる完成した家の神です。
要するに最初に壁を作り、床に砂を敷き詰め、出入り口を作り、屋根を作ればお家が完成ですよ、そういう手順で造りなさいよという話です。
そういう自然界と人間界の接点が八百万の神々なんです。だから昔の職人さんは信心深かったんですね。神仏イコール科学だから。
それにウチらの神さまは恵みを与えれるけど、時に『荒ぶる』んです。

仏というのは本来、世界の真理を悟った人です。お釈迦さまは釈迦国の王子だったのが出家して悟っちゃって、あちこち旅して教えを広めた人です。
だからTVの「ぶっちゃけ寺」でも言ってました。

「仏様の救いって何かと私も本当によく聞かれるんですけど、仏様っていうのは自分の足で歩かない限り助けてくれないんですよ。だから仏さんの救いって何ですかっていうことを、ある弟子が聞いたら、仏はあなたの苦しみを拭い去ることもしない、あなたの手を引っ張って悟りへ導びかない、あなたの苦しみに同情もしない、私はただただ真実を説くだけだと。つまり、真理・真実を説いてあなた考えなさいと。だから自分の足で歩けるかどうかをやっぱり仏様は見ている。」

ですから、まぁ、日本人として育てばその感覚はごもっともなんです。欧米の神イメージとは全くの別物ですので。大自然そのものなんですよ、日本古来の神仏イメージは。
地元でよくあるお祭りだって「神仏の存在と奇跡を信じて、さぁ祈りましょう!」というものではありませんしね。どちらかと言うとお接待の発想です。ご機嫌伺いしますから、お願いですから要らんことしないで下さい荒ぶらないで下さい…と。

正直、お坊さんやっていると「どうしてこんなにこのお宅ばかり…」と感じることがしょっちゅうです。このお仕事はディープなお話を色々聞かせていただきますからね。
それでも、その環境の中でも、少しでも重荷が重荷にならない心の持ちようを見出していって欲しい。そう願って私は仏道を説き続けます。

追記
追加のご質問は新しく質問立てをお願いします。字数制限がありますが回答を消して書き直すのは不推奨とされています

3ヶ月前

お礼コメントを拝見して

諸師が説くところとあなたの理解にずれが生じてしまったのかなと感じました。

私たちが「世界や人間や生物などに意義はない」とするところの「意義」とあなたが「△△の存在は〇〇にとっては意義がある」とするところは矛盾しないのですよ。

仏教では全知全能である万物の創始者のような神仏の存在を考えません。全ては縁(環境・条件・対象)によって起こり存在していると考えます。

ですから、「意義(万物の創始者があらかじめ与えた決められた意義)があるから存在している」のではなく「存在しているから意義がある(=意義の解釈は個々人で自由)」となります。

例えば、目の前にリンゴがあります。そのリンゴはなんのために存在しているでしょうか?

それは

お腹が空いた少年の空腹を満たすため
病人のために栄養となって力づけるため
種となってリンゴの子孫を増やすため

まあ、色々考えられますがどれも正解となり得ますし、どれも正解ではないともなり得ますよね。
それこそリンゴがこのあと迎える縁によってその意義は無限に変わり得るからです。

しかし、あくまでもそのリンゴ自体に「〇〇のため」という存在意義(理由)はありませんね。
リンゴはリンゴとしてただそこにリンゴとして生る縁が調ったから生っていただけです。もちろん仏教では神様が「このリンゴを〇〇に食べさせるためにここに生らせよう」と運命をコントロールしたとも考えませんからね。

お釈迦様は世界や運命の支配者ではありません。この世界が成り立っている法則に目覚めた人です。

私たちの存在意義は決められたものが「ない」からこそ無限の可能性があるのです。
例えば親が後継ぎとして子どもを生もうと思い授かったとしたら、その子には決められた意義があるかのように思うかもしれませんが、それはあくまでも親の「解釈」に過ぎませんね。

決められた存在意義により恣意的に成立させられている「いのち」ではなく、図らずも数数えきれない縁によってたまたま今ここに存在させていただいている「いのち」だからこそ、感謝するのではないでしょうか?

どんなにはかない「いのち」でも存在しているということ自体が奇跡的なご縁なのですから。

3ヶ月前

蝉の一生と同じです。

ご質問を拝読させて頂きました。
まず、その発想には「人間には存在意義がある。」という前提があると思うのですが、実際には他の生物と変わらず、意義はありません。
例えば、蝉の命の短さを見て、
「なんて事だ!神も仏も居ないのか。」なんて思いませんよね?
なぜなら、蝉に存在意義があると思っていないからです。
人も同じです。生じては滅する因果律の中に組み込まれているに過ぎません。
お釈迦様はその虚しさに気付いた人です。

人はこれを認めたくないのです。自分には価値があり、意義があると思いたいのです。
その価値や意義を与えてくれるのが諸宗の神であり、自力で価値や意義を築くのが仏教と言えます。

追記
誤解されています。
存在というのは、社会などの他の何かに依存することなく、それ自体としてあるものです。 ものの本質、実存を言います。
あなたの仰っているのは、社会における存在意義ですから、いわば「社会的存在意義」です。

ご友人のお子様は、ご家族は勿論のこと、社会においても価値のある方だと思います。私も娘が居ますが、家族にとってはとても意義があります。
でも、これは社会や家族というものに依存しての事ですから実存とは違います。

また、あなたが仰る豚や牛の存在意義も、それはまさに人間社会から見た存在意義であり、実存ではありません。人間から食べられるために、豚や牛は生まれてきていません。
なのに、命を頂いているから「頂きます。」と言うのではないでしょうか?
人間の食料になるから存在意義があるなら、それこそ感謝は要らないでしょう。

私たちは自分という確固たるものがどっしりと中心に座っていて、そこから放射状に世界を構築しています。
だから、身近な人の死を通じて、世の儚さを知り、自分が世界の中心でないことに気付き、神などに責任転嫁するわけですが、これは目を逸らしてはいけないことではないでしょうか。
私たちを中心に世界は回っていない事を認めないといけません。いつ終わりが来るかもわからないのです。だから、今を懸命に努めるべきなのです。それが、世の儚さを知った人間の取るべき態度ではないかなぁと私は思います。

3ヶ月前

善きご仏縁がございますように

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

釈尊は、まさにこの苦の現実を直視することを、最初に教えをお説きになられました四つの聖なる真理である四聖諦の一番目にお説きになられました・・

輪廻世界にあるものは、大なり小なりあっても、皆、苦の中におります。

しかし、釈尊は、お悟りを開かれまして、その苦しみを滅するための道をお説きになられたのであります。

できれば、幼いお子様をお二人も亡くされて苦しみの中にあるその方にも仏法の光が届き、苦しみを滅するための道である仏道を歩まれることができますように、何かの折に、善き仏縁へと向けたお働き掛けを頂けましたら有り難くに存じます。

そして、事故や災害、戦争などで、不幸にも亡くなられてしまわれた方々にも、どうか善き仏縁があり、清らかな流れに乗れますようにとして、ご供養を賜れましたら、有り難くに存じます。

拙生も毎日の朝晩二回の梵鐘勤行供養の際には、事故や災害、戦争で亡くなられてしまわれました方々へとも向けて、拙いながらにも回向、普回向に努めさせて頂いております。

梵鐘回向

一音のおよぶところ千界に限らず、苦を抜き楽を与う、普く皆平等なり、有縁無縁三界の万霊位、古来幾多の戦災、災害、事故、自死犠牲者諸群霊位、その精魂は皆他方の界に去り、朽骨は猶此土の塵となる、鐘声の地を動かす毎に、冤霊をして浄刹に導かしめん。十方三世一切の諸仏、諸尊菩薩、摩訶薩、摩訶般若波羅蜜。

普回向

願わくは、この功徳をもって、あまねく一切におよぼし、我らと衆生と、みなともに仏道を成ぜんことを。

川口英俊 合掌

3ヶ月前
回答僧

願誉浄史

悩み苦しみの原因は煩悩

仏教では、私達の悩み苦しみストレスの原因は煩悩だと考えます。
欲・怒り・怠け・プライドなどの煩悩や、諸行無常・諸法無我・一切行苦を理解していない愚かさの煩悩などが原因で、私達は苦しむのです。

神仏は私達に、煩悩を制御したり消したりするコツを教え、
私達が悩み苦しみストレスを制御したり消したりできるように導いてくれる存在です。

悲しみは、怒りの煩悩の一種です。
親しい人が亡くなったとき、長く悲しむ(怒る)場合、かなりのストレスが続きます。
精神疾患になる可能性もありますね。
ですから仏教的には、たとえば、
「あの子は皆より早く人生を卒業して極楽浄土に往生したのだ」
など、悩み苦しみを減らすような考え方をする方が善い(苦が減る)のです。
執着心(こだわり・プライド)を捨て、柔軟で軽やかな心になる方が善いのです。
約2600年前に、80歳でお釈迦様が亡くなられたとき、まだ悟っていない弟子や信者は嘆き苦しみましたが、すでに悟っている弟子達は、師匠が死んでも平気へっちゃらだったのです。
それこそが、お釈迦様(仏=真理に目覚めた者)の教えなのです。
お釈迦様(仏)は、ご自身の死が近づいたとき、「我が齢(よわい)は熟した」と言われました。
死は成熟、人生の完成、卒業なのです。
そう思えたら、人生の苦しみは減ります。
「悲しめ!苦しめ!」は仏の教えではないのです。
「悲しむ必要はない、苦しむ必要はない」というのが仏教です。

3ヶ月前

質問者からの有り難し - お礼

「この世の生物には存在意義がない」
友人の子供は存在意義も価値も無かったんでしょうか?
少なくとも家族にとっては意義があるんじゃないでしょうか?
私は家畜の豚や牛にも存在意義が有ると思います。食料になってくれますからね。
食事をする時、命を頂いているからと「いただきます」「御馳走様」と言いますが、存在意義が無いのであれば感謝する必要は無いと思いますし、存在意義が無い生き物を殺す事に躊躇する必要は無いのではないですか?
この世のものは存在意義が無いのであれば神や仏も存在意義が無いと思いますが如何ですか?

追記
多くの御回答ありがとうございました。
いまいち腑に落ちない感じがするのですが、吉武文法師の御回答が1番しっくりきた感じがしました。
人生の半分以上も過ぎたのにまだまだ勉強不足だなと痛感しております。
これからも多くの悩み苦しんでる方達の為に頑張って下さい。

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