困難と有り難さについて
苦難、災難、困難は有り難し。と先日聞きました。苦労は買ってでもしろ、といいますが。
本当にそうなのか考えるほどわからなくなってきました。確かに、有難みがわかるのは、その事柄について困ったことがあるから。でも果たしてそうなのか?例えば失敗や、苦難なく成立した出来事があったとしたらそれは、喜びはないのか。挫折して立ち上がる意味を知りたいです。
簡単に考えたら困難などないほうがいい。
でも人はつまづき、途方にくれます。有難い。そうは考えられないこともあります。
なのになぜ難が有るからありがたいのか。人が悩みや、苦難から逃れようと頑張るのは何故なのか。教えて頂きたく思います。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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時代の流行でしょう
一種の劣等感から流行った感覚なのだろうなと私は感じています。
「戦時中に苦労した人たちは本当に凄い。戦後生まれの私たちはかなわない。高度経済成長で豊かに生活させてもらっているが、これではダメになってしまうのではないか…苦労は買ってでもしておかないと…」
戦争末期の悲惨な状況を生き抜いた逞しい人々と、世界史上最大級の経済成長の中で育った人々のギャップ。そんな背景を思えばちょっと分かる気がしませんか?
企業側が新卒に媚びる就活市場。入社しても当時OLだった私の知人女性はこう言ってました。「5時になったら席を立つんじゃないのよ。5時の退勤時間には全部片付けて帰る支度済ませて、会社のビルの出口で待機しておいて、毎日5時ちょうどにビルを出て行ってたんだから。中には5時前に出て行っちゃうすごい女の人もいたけど、私はさすがにそこまではしなかったわね(笑)」男も男で「5時から男の、グロンサン」ってCMありましたよね。随分流行ってたものですが、今なら炎上するでしょう。
そんなことやってりゃあ、そりゃ「お前らもうちょっと苦労しとけよ。買ってでも苦労しとけよ。」という話になるのも無理はないと思いませんか?
「(そんな便利な物、私のころには無かったのに)ケシカラン!」も後世への嫉妬であり、一種の劣等感ですよね。
さらにその発展期の人々と、その後の「失われた20年」と呼ばれる停滞期に育った人々の感覚にギャップがあるのも当然のことです。
仏教的に言うなら『応病与薬』とか『対機説法』と言いましてね、その人の環境や状態に応じて、それぞれの薬となる考え方があってしかるべきです。
でも、『他人が自分と違うことが許せない』。違っていると自分を否定された気になってしまったり、不安になる。だから干渉せずにいられない。その違いを許容できないことが一番の問題でしょうね。20世紀後半とは、アイデンティティを謳う時代であったのに、皮肉なことです。
まぁ、ただですね、難があるから有り難いのではなく、難の中でも、難と向き合いながらでも、有り難いこと嬉しいことを見出しながら生きねば、生きようが無い。それは事実だと思いますよ。
そりゃ困難は無い方が良いでしょうが、選べるものではありませんから。
「有り難い」とは事実であって、受け取り方ではない
ご相談拝読しました。
その「苦難、災難、困難は有り難し」とおっしゃった人がどのようニュアンスだったのかはわかりませんが、「有り難し」とは「そう有ることは難しい=当然ではない」ということであって、必ずしも「ありがとうと感謝すべき事」ということではないと思います。
目の前の出来事がそう有ることが当然ではないと気づいた時、それに「ありがとう」と感謝できるかどうかは精神の習熟度や経験の大小でも変わってくるのではないでしょうか。
もちろんその時の状況に左右されるのが人間の心ですからどんなことも感謝すべきなどとは言えません。
私たちの心としてはやはり失敗や苦難なく希望する出来事が成立した方が楽でしょう。そしてそこには喜びだってあるでしょう。
でもやはり苦難を越えての目的の達成における喜びはひとしおかもしれませんね。
挫折して立ち上がる意味や、悩みや、苦難から逃れようと頑張るのは何故かというのは人それぞれでしょうが、そこに何も意味を見いだせていなかったらやはり人は頑張れません。
立ち上がった先や、立ち上がること自体、頑張る事自体に意味を見出せるのであればどんな状況においても希望は失われないでしょうね。
ところで、「苦難、災難、困難は有り難し」に対して、仏教では「一切皆苦(いっさいかいく)」と説きます。あらゆるモノ・コトは「苦」であると。
この時の「苦」とは単純に「苦しい」という意味よりかは「思い通りにならない」という意味です。
私たちがなんの苦労や失敗もなく達成したことであってもそれはじつは思い通りにできたわけでなく、数々のご縁によってたまたま達成させていただいたことです。
目の前のペン一本を掴むことすら、その瞬間に「飛行機が突っ込んでこない」とか「地震が起きない」とか「ない」というご縁が「ある」おかげ様で目の前の出来事はなりたっています。いや、目の前の出来事に限らずこの私自身もあらゆるご縁のおかげ様です。
そういう事実に気づいた人が、これは「有り難い」=「ありがたい」ことだと深く頷いたのではないでしょうか。
苦難は無いにこしたことはありません。でも今ある事すらも実は当然ではなかったことに気づいた時、苦難の見え方も変わってくるのかもしれません。