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頑張り屋さん

私は私が思うに頑張ってしまうのです。日々の家の家事や趣味の座禅、何かを成し遂げないと一日が終わりません。皆掃除なんて一週間に一回ででいいじゃないとか座禅する暇があったら出かけたらとか言います。 

しかし朝から満たされない時は掃除をしたり座禅をしたりします。何かをしていないと落ち着かないのです。常に達成に捉われていると申しましょうか。

勿論家事をしてくれる母に比べたら私の家事なんて可愛いものですが。そんなに達成感が欲しかったら働けばと言われそうですが統合失調症の私は労働力になりません。

例えば朝からどっさりお通じがないとかそれだけで満たされません。そこで勢い掃除を始めたり座禅をしたりそうでもなければテレビを見たり。

テレビを見ることは悪くないのですが最後まで見ないと落ち着きません。人生って何かを達成するためにあるのでしょうか。それともただ在ることに意味があるのでしょうか。

お釈迦さまは人生の意味についてどのように仰っているのでしょうか。それが知りたいです。

生きる意味
有り難し 4
回答 1

質問投稿日: 2018年12月2日 7:58

回答は各僧侶の個人的な意見であり仏教教義や宗派見解と異なることがあります。答えは一つとは限りません。多くの回答(法施)からあなたの人生を探してみてください。
回答僧

大忍貫道

意味と坐禅

ご質問を拝読させて頂きました。
お釈迦様は、この世界は縁起によって成り立っていると考えていました。縁起とは、原因と条件によって結果が生じるという法則です。
そこには情や義理は一切挟まれません。

人もその縁起の中に組み込まれていますので、人の生き死にのみならず、人生そのものに一神教のような格別の意味があるとは考えていません。

そのお釈迦様の思想を敷衍していくと、意味は初めからあるのではなく、後から付いてくるものであることが分かります。
もう少し厳密に言えば、私たちが思考、行為によって意味が築かれるという事です。

坐禅についてですが、最近はマインドフルネスの流行で様々な効用が喧伝されていますが、それはあくまで副次的な作用に過ぎません。

私たちの日常の営みは「何かのために何かを為す」事が大半です。対価がなく、物事を為す事は時間の浪費であり、それこそ無意味だと切り捨てられます。
けれども、坐禅は「何かのため」にするものではありません。

むしろ、「何かのため」に坐ることは例え、悟りのためであろうと厳しく戒められます。なぜなら、行為に混じり気が入り、純度が下がるからです。
電車でお年寄りに席を譲っても、お礼を期待してしまえば、善意は濁ります。
それと同じです。

打算や計らい、このような日常当たり前に行っていることから離れるのが坐禅であり、それが魅力でもあります。坐禅の時間くらいは、日常の「何かのため」文脈から離れてみても良いのではないでしょうか。
とても贅沢な時間の使い方だと思いますよ。

4ヶ月前

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