自分の不幸に耐えられなくなったとき、死んだ方がマシだと考えるかもしれない。いや、生きていればいいこともある、愛する人との別れの方が辛いと思うかもしれない。
本来ならば、生きることと、死ぬことの辛さを比べることはできません。とくに、死んだ先の世界を想像することができないため、楽になるかどうかわからないからです。
さて、今回のような答えの出ないテーマに対し、お坊さん方はどのように回答を導いてくださるのでしょうか。まずは、相談者さんからのお話を聞いてみましょう。
相談者TUSRAI24さん(20代男性)は、掲示板や知恵袋などで、衝動的に自殺にかられた人に対し、「死ぬことは生きることより辛い」「死んだら今よりも辛いことが待っています」という回答を見かけたとのこと。
この世が辛くてお別れしたいのに、お別れしたあとにも、もれなく辛いことが待っているわけですよね?
まさに「生きるも地獄、死ぬも地獄」の人がこの世にいるわけですよ。
そんな八方塞がりの状況の場合、人はどの道に進めばいいのでしょうか?
救いの道はあるのでしょうか?
死を選んでラクになりたい、すべてから解放されたいと願うほど、辛い気持ちに立たされている人に対し、「死は今よりも辛い」というメッセージはさらに深く絶望へと追いつめてしまうことでしょう。救われる道はあるのでしょうか。
どうせなら、王道で救われた方がイイですよ。いちおうここは仏教的な救いのコーナーなので自殺容認はしません。
また、仏道を広められた方々は、みな一度や二度は人生の矛盾を感じられた方々です。
とことん堕ちる所まで落ちると失うものも何もなくなりました。
失いたくないなんて気持ちもないくらいに空っぽになりました。
その時私は死んだ方がイイ、楽になれる、なんていう小さな考えもなくなりました。
死を選んで解放されるということは、本人だけの話。あとに残された家族や知人、関係者はその後、暗い気持ちを引きずって行くことになると、こちらのお坊さんはおっしゃっています。
「死んだ方が楽」という思いが自分の中にある間は、自分以外の関わり合いをもつ人たちとの糸が見えなくなっているのかもしれません。
自分自身を本当に変えたいのであれば、「そういう風になりたい、と気持ちを奮い起さないとなれません」とお坊さんはおっしゃっています。今、生きている中で解放される道、救われる道を目指すには、つよく決意をすることが大事だと教えていただきました。
私は死んだことがないので、これが本当かどうかわかりません。浄土教(仏教の中で、極楽浄土を説く浄土宗や浄土真宗)では、この世の縁を終えて往く世界は理想的な世界とされていますので、死んで救われるということもあるのかもしれません。
でも私は「死にたい」と思っている方たちに、死んで欲しくないと思っています。
苦しんでいる方に「生きて欲しい」というのが酷なことは承知していますが、それでも私は「あなた」に生きて欲しいと念じています。
相談者さんのハンドルネームをみて、とても辛く苦しい状況を察し温かな回答をくださったこちらのお坊さん。「あなた」には、死んで欲しくない、生きて欲しいという思いを届けてくださいました。
また、「自死・自殺に向き合う僧侶の会」というホームページを教えてくださいましたのでこちらもぜひのぞいてみましょう。(自死・自殺に向き合う僧侶の会)
般若心経の中に「不生不滅」という言葉があります。ここをしっかりと考えて理解していくことが、この迷い苦しみの世界を超えて行くために非常に大切な要諦となります。
不生不滅とは、実体として生もなければ、滅(死)もないということ。つまり、あらゆるモノ・コトは、縁(縁起)によって変化し、移り変わっていくため、絶対的な実体はありません。それを理解した上で、目の前の現実をどうとらえるか。これらを理解して行くことが、迷い苦しみを超えて悟りへつながると、こちらのお坊さんはおっしゃっています。
わたしたちの悩みや苦しみは執着から生まれると言います。だとしたら、実体のないものに、執着しなければわたしたちは苦しみから解放されるのかもしれません。
元の問答:生きること、死ぬこと、どっちが辛いのか
今回、お坊さん方からこの世が辛くても、「生きる中で救われる道が大事」だと教えていただきました。もし、生き辛く、死を選んだ方が楽かもしれないと思った時は、まわりで悲しむ人がいることを忘れてはいけない。実体のない悩みや苦しみは、必ず変化をしていくのだ。と、そう思うことができればわたしたちの視野は広がるのかもしれませんね。ありがとうございました。