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思い通りにいかない事を受け入れるために

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こんにちわ。
世の中十連休で浮かれていますが、私は本当に辛いです😢

世の中、自分の思った通りにはいかないことは理解しているつもりですが、思い通りにならないことにイライラしてしまい職場の同僚にあたってしまったりして最低な人です😢

今パートで働いて16年ですが、正社員になれる可能性があると聞いていたので必死に頑張ってきたのてすが、その道が無くなってしまいました。更に去年まで一人でこなしてきた仕事に正社員の人がやって来て二人体制で仕事は楽になったのですが、私の仕事が取られてしまうと思ってしまい、せっかく二人で楽に仕事が出来るはずなのに一人で抱え込んで、でもそれがイケないことだと判っているから辛くって、正社員の人が優しい人だから甘えてしまって文句ばかり言って、また、落ち込んで…本当に辛いです。
駄目なことは分かっているし、私が悪い事もわかっているのに受け入れられず、だんだん周りからも孤立してしまうのでは無いかと心配になって、でも、その事実を素直に受け入れることが出来なくて本当に苦しいです。

なぜ正社員に拘るのかというと、息子が大学院進学の希望があるからです。以前もこちらに投稿してアドバイスをいただいたのですが、我が家の経済状況では県外の大学に仕送りするだけで精一杯でそれを後2年の続ける事がとても厳しいんです。
現在は県の寮に入っているので、食事付きで65000円と格安な上奨学金も貰っているので何とか生活していけますが、大学院に進学すれば寮は出なくてはいけません。奨学金も貰い続けると返済に不安があるためこれ以上は難しいと思います。

息子も大学独自の給付型の奨学金の申込みはしていますが、成績等も考慮され貰えるか判るのが来年年明けです😢チャレンジしたい息子の気持ちも判るのでこの奨学金の可能性にかけている状況です。

なので、私は何とかして正社員になりたかったです。だからと言って周りを傷つけて自分も傷ついて…何をしているんだろうと思います。

厳しい現実を受け入れる広い心と勇気が欲しいです。

どうかどなたかこんな私を救って下さい。助けてください。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

第三の道を選択

思い通りにならんのは自分のルールが根底にあってそれが優先されているからです。
ですが、思い通りならないことばかりでもありません。
場所によっては努力次第でちゃんと認められてそこの場所以上の報酬を頂ける業界はちゃんとあるのです。
知人の韓国の方が言っていましたが、韓国では財閥がどこの業界にも影響力を及ぼしていてもはやどこの企業に入ってもある程度まで出世してもそれ以上の出世は望めないと。
何故か。
その財閥グループの家族・親族が優遇されるからだそうです。
埼玉にあるある幼稚園も同じです。
スタッフが歴史に残るような素晴らしい活動をしても、そこを牛耳っているのが〇〇グループである以上はその〇〇ファミリーが優先される。
絶対に出世に限りがあるのです。
ああ、ここで働いてもこれ以上の成果や手ごたえは得られないなぁと思ったら即!切り捨てることです。相手が善意な団体や人間であればイイでしょうが、この時代、どうしようもない人間も紛れ込んでいるものです。そういう所でいくらやってもそれは思い通りにはなりゃしません。
報われるってことって大事なんですよ。
あなたの努力に対して、イイところ取りや、お手柄横取りとか、搾取があるような企業もあるのです。もし職場にそういう不穏な空気を感じたら、そく脱出です。
第三、第四の選択肢。活路を見出すのです。人の言いなりは人生何も得られません。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。
全く別の視点でのお話で、かなり新鮮でした。
きっと「貴方の考え方が問題です」と言われるとばかり思っていました。
答は一つではなく、沢山あるんですね。勇気をいただきました。

冒頭、思い通りにいかないのは私のルールが根底にあるとのご指摘、痛いところです。
昔、倶利伽羅不動寺にお詣りに行ったときの法話で「私、私の我を捨てて、おかげおかげのげで生きよ」とありました。
今回の事でその話を思い出しました。

数々の失礼な態度、物言い、許されるものでは無いのですが、今一度原点に立ち戻り日々過ごしていこうと思います。

上手くいくことばかりではないけれど、「今」を懸命に生きていきます。逃げ出すことも悪くないと教えていただき、ありがとうございました。

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