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延命十句観音経について

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有り難し有り難し 24

長女は25年間頭蓋咽頭腫という脳腫瘍と向き合ってきました。過去12回、脳内で成長する腫瘍が各種の障害を起こさないための手術を受けました。ところが結果として、手術自体が、失明、癲癇、半身不随を引き起こす原因になってきたというのが現実です。また腫瘍摘出に伴い脳下垂体を切除しましたので、ホルモン分泌を補うためにホルモン剤を飲み続けています。右眼失明は13歳時の手術の失敗、癲癇と半身麻痺は度重なる手術による脳へのダメージによるものなのです。また、最近は腫瘍再発のスピードが速くなり、この1年間に2度開頭手術を受けました。ますます脳が疲弊していくのは明らかです。
実はここ1ヶ月の間に、左眼が重度の弱視となり、全盲となる瀬戸際となっております。そのため近々に13回目の手術が予定されています。また、今回の手術では腫瘍摘出の邪魔になる右前頭葉を取り去ることになると医師から説明がありました。右利きの人間は左前頭葉を主に使うので右前頭葉は除去しても影響はあまり出ないと言います。しかし、前頭葉摘出は人格を変えるかもしれません。今の医学にはまだ解明されていない領域が沢山あります。脳の機能はその最たるものでしょう。腫瘍を切除するために、人格を変えてしまうかもしれないことを承知で脳を切除する。日本随一の大学病院でのこの判断が、私にはどうしても腑に落ちません。しかし、放置するとさらに深刻な障害を招く恐れがあるのも事実です。端的に言えば、もはや腫瘍摘出自体が目的になり、障害を出さないためという発病当初の手術の目的は置き忘れてきたように見えます。癲癇、半身不随、失明はすべて手術の結果生じてきたのです。親としてこの事態をどう受け止めるべきか、私には分かりません。観音経を唱えて奇跡を起こせるなら、何万回でも唱えようと妻と話しています。
どうか私どもに心のよりどころをお与えください。

もう一つ教えてください。毎朝毎夕妻と延命十句観音経を唱えています。願いは長女の失明回避ですが、観音経を唱える前後の願意の唱え方がわかりません。ご教示くださいませ。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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ご回復を念じます

ご相談拝読しました。お気持ちお察しするに余りある状況であり、当事者である皆様の前には自らの無力さを痛感します。

ご家族として奇跡を願う気持ちの強さはいかばかりかと思いますが、僧侶として思うところを述べさせていただきます。

浄土真宗の宗祖である親鸞聖人はある時、東国のとある地を訪れ、そこで「三部経」を千部読誦しようと発願しましたがやがて思い起こされ中断したと伝えられます。

その時代は東国では地震や大雨や洪水や飢饉などによる被害が相次いでいたので、民衆の悲惨な状況を慮り、「何とかして救いたい」と念じたのでありましょう。

しかしそれを中断したというのは、その行為が誤りであり、自らが迷う姿だと目覚められたからでしょう。

経典読誦にそのような奇跡を起す力はありませんし、仏教の説く救いとは物事の道理に目覚めることですから、我々の思うがごとく状況を好転させるものではありません。むしろどんな境遇をも引き受ける力をいただいていくものなのでしょう。

そして私たちが誰かを助けたいと思う気持ちはどんなに強くとも、けして思うがごとく救えるような力のない存在であり、真に人を救うのは仏のみであることにあらためて気づかされたのだと思います。

先日、私の所属するお寺の法話会に来てくださった布教使さんが娘さんが若くして特殊なガンを発症し、手術をしたが転移がみつかり、おそらくもう長く生きられるわけではないであろうというエピソードを話してくださりました。

その娘さんは父(布教使さん)に「ウチが真宗門徒でよかったね」と語られたそうです。なぜかというと「もし違ったらウン十万の壺を買ったり、よくわからない教えや団体に大金をつぎ込んでたかもしれないもんね」と言うのです。

娘さんもご家族もけして奇跡を願わないわけではないでしょう。生きられるのなら絶対に生きたいでしょう。
しかし、物事の道理に目覚め、自らの境遇を引き受けておられるのでしょう。いや、そんな境遇などけして引き受けられない弱い自分をも、仏の教えによって受け止めさせていただいているのでしょう。

命の事実は何よりも重いです。でもその事実を受け止めるところに、どんな境遇でもけしてむなしく終わらない道が開けるはずです。

ご本人、ご家族でよく話し合い、この度のご縁を力を合わせて受け止めていかれることを念じます。
力不足の回答で申し訳ありません。

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有り難し
おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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「仏像・仏様・阿弥陀・観音」問答一覧

神様も仏様も、必ずしも信じられない

以前「何を信じて生きていけばいいかわからない」ということで投稿させていただき、ご回答もいただいたのですが、やや気になる点があり追加で質問させていただきたく。 自分としては誠実にあろうと生きたつもりでした。 でも、家族間でも、仕事でも、あったことをなかったことにされてみたり、なかったことをあったかのようにされてみたりで責められ、うつ病にもなり、とうとうここ1年半くらいは引きこもりや寝たきりに近い状態になってしまいました。 物の善悪も、何を信じて生きていけばいいかもわからなくなりました。 それでも回答をいただき、自分を大切にして、やはり今までの自分を信じて誠実に生きていく方が良い方向へ向かえるだろうと思えてきました。 そうする中で、もう一回本気で取り組める仕事にも出会いたいし、楽しい趣味も見つけたいし、心穏やかに落ち着いて生きていきたいとも考えています。 ただ、「神様や仏様は見ている」という言葉が回答の中にあり、少し暗い気持ちも残ってしまいました。 神様や仏様がいるのなら、どうしてここまで至る前・・・あの時に助けてくださらなかったのか。あの時、あのひどい扱いをしてきた者たちに報いを与えて下さらなかったのか。もし私が間違っているというのなら、こうなるまでにそれを教えて下さらなかったのか。何ならば、今の私を救ってくださらないのか。何が足りないというのか。 そんな汚い感情を払拭することが出来ません。「神様仏様はそういう都合のいいものではない」、もしかすると「私が以前の何かの報いを受けているだけだ」、と言われてしまうかもしれませんが・・・。 そう考えると、 『本当に今まで通り真面目に誠実に生きる方向で大丈夫なのか?』 『今までの道徳をすべて捨て去るようなこともしなくていいのか?』 『それで「誰かに都合のいい人間」でなく、自分が良い人間となり、よき人生を送れるのか?』 汚い感情と一緒に、まだそういう迷いも多少残っています。 「よき人生を送れるかはわからないけど、無理に全部変えないで、今までのものをアップデートする形で十分じゃないかな」とは思うのですが。 神様や仏様に求めすぎるような汚い思いや、そもそも神様や仏様といった存在にどう向かいあうべきなのか。そして落ち着いた心で生きるためのアドバイスをいただけますと幸いです。

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薬師観音様にご挨拶した時のことについて

#お参り#仏像・仏様・阿弥陀・観音 初めて相談させて頂きます。 ありがとうございます。 観音様にご挨拶した時の不思議な体験について、何か気づきを得させて頂ければと思い投稿させていただきます。 よろしくお願いいたします。 先日、お客さんから、川見四季桜が綺麗だったよ、栗きんとんが美味しいよと教えて頂き、天気が良い日に母と出かけました。 可愛らしい桜と、綺麗に赤く染った紅葉と、綺麗な和紙の作品と色々見て、有難く大満足な1日でした。 桜と紅葉を楽しんでいたところ、川見薬師寺に続く階段を見かけて、ご挨拶しようと、急な階段でしたので慎重に登って行きました。 やっとの事で登りきると、正面少し奥に、薬師観音像が見えました。 その時、観音様は私から見て右真横を向いていましたが、一瞬で正面を向かれ、目が合いました。 明らかに目の前で起きた事への理解が追いつかず、何か見てはいけないものを見てしまったのではないかと暫く見つめ合ったまま固まってしまいました。 母に促され、観音様の目の前まで来て、先程のことは一旦離れて、感謝とご挨拶をしました。 先程感じた強い違和感は無いものの、やはり目が合い、微笑んでいるように見えました。 ふと、右真横の目線の先が気になり、確認しに行くと、お寺で飼われている、老犬がいました。 わんちゃんにも挨拶したあと、少し下った先にあるお清めの水が湧き出ている場所に行き、そちらの観音様にご挨拶した際も、やはり目が合い微笑んでいる感じがあり、また呼吸して生きている様に見えました。 その日は1日とても楽しい体験をさせて頂き、ありがとうの気持ちでいっぱいでした。 加えて、人生で初めての体験、感覚ばかりでしたので、不思議に思っております。 拙い文で申し訳ありません。 改めて、よろしくお願いいたします。

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観音様へのお願い事について

とある観音様が祀られているお寺にお参りに行った際の事ですが。 初めて訪れたお寺でした。 ウロウロしていると案内して下さる方が出てきて、一通り大まかに説明して下さって、そしてお参りする際に、 「~いくらでもお願い事して大丈夫ですよ~」 と、確か言った気がしました。 一瞬「聞き間違えたかな?…」と思ったのですが…。 観音様のご利益を検索すると、 「…あらゆる願い事を叶える、救いの手を差し伸べる、云々…」らしく載っているのを散見できます。 ですが、参拝者がお参りする際、お賽銭(お布施)って、5円、10円、100円…とか小銭をする場合が凡そ大抵だと思います。 知識がある人なら封筒包で千円単位を包む事はあると思いますが、少数かと思います。 ※ちなみに、神社へのお参りの場合、願い事の規模の大小に依ってそれなりの金額をお賽銭すべきであろぅ、といぅ意見/考え方を聞いた事はあります。 いくらでもお願い事して大丈夫…とは言え、小銭程度で5個も10個ものお願い事するって対価に合わないんじゃ…と想像したのですが、 「Q:そもそも観音様ってお賽銭の額が小銭だから云々…に関わらず、人々の願い事を個数に拘らずに聞いてくださる仏様なのだろうか?という素朴な疑問です」 まぁ、他の仏様、如来/菩薩/明王様…の場合はどうなのか、も詳しく存じ上げていませんが。

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