観音経を唱える前後の願意の唱え方
延命十句観音経について
とても丁寧なご解説をありがとうございました。よくわかりました。自然界の道理を小さな人間の念仏ごときで動かすなど不遜と言うほかないと気づかせていただきました。今後、観音経を唱えるときは、観音様に「奇跡を起こしてください」ではなく、「今度の手術がどうなろうともこれが娘に良いことになりますよう」と念じることにいたします。
実はこのたび観音経を始めましたのは、「景清」という落語に感化されたからです。
昔、平家に仕える悪七兵衛景清という武士が、源頼朝の命をつけ狙い、捕えられたときに、源氏の世を見るのは忍びないと自分の両目をくり抜き清水寺に奉納したことから、ある全盲の男が眼病によく効くと聞きつけ、十句観音経を100日唱え満願の日に観音さまが現れて、景清の目を貸し与え目が見えるようになる、というお話しです。
昔からこのような観音信仰があるのですね。わたしは藁をもつかむ心境から始めたことですが、今後は娘が全盲になったとしても前向きに生きていけるよう祈り、智慧を出してやろうと思います。
それから、観音経を唱える前後の願意の唱え方がわかりません。定型の唱和文などあればご教示くださいませ。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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仏の智慧から深い願いを呼び覚まされる
ご相談拝読しました。前回に引き続き回答させていただきます。
「景清」という落語があるのですね。ご丁寧に教えていただきありがとうございます。
古来より、人々が宗教に求めるものはやはりご利益信仰なのだと思います。都合が良いものを引き寄せ、都合が悪いものを遠ざけたいというのが純粋というか、まず表面に現れてくる切実な思いでありましょう。
それは浄土真宗でも同じです。ウチのお寺は福島県会津若松からの入植者たちにより建てられたものですが、やはり開拓における厳しい環境の中での人民の心の救いや、相次いだ川の氾濫を何とかしてほしいという願いもあったようです。
しかし仏教本来が説くところはご理解いただいた通り、そのような救いではありません。けれど同時に、人々の純粋な思いもけして無碍に否定するものでもないのでしょう。
むしろそうした願いの底に、もっと深い願いがあるのではないのか?都合の良し悪しを超えて、どんな人生・境遇でも真に満足していくことを願っているのではないのか?と自分の思いだけでは気づかないところを呼び覚ましてくれるものであるのでしょう。
ですから娘さんのことについて奇跡を願うお気持ちはけして否定できません。まさに「藁をもつかむ心境」なのでしょう。
ですが結果はどうであれ、娘さんもNOBUHIKOさんも、ご自身のいのち・人生に本当に満足したいという願いに変わりはないでしょう。
そしておっしゃるとおり仏の覚りは「智慧」です。それは具体的には生きる力や勇気として湧きあがってくるのでしょう。
最後に、恐れ入りますがお尋ねの観音経を唱える前後の願意の唱え方や定型の唱和文について私はわからないので他の回答僧の回答を待ちたいと思います。
しかしそのあたりはあまり型にとらわれる必要もないように個人的には思います。
質問者からのお礼
ご丁寧なお返事ありがとうございました。
気持ちが落ち着き、娘の今後に寄り添っていくことを考えようと思います。