割り切れない気持ち
3年間、尊敬と愛情の入り混じった感情を抱く上司が職場に居ます。
4月の異動が決まっていて、離れる事を考えると泣けてきます。
姿が見られて、声が聞けて、居てくれるだけで安心と思える人がいなくなってしまうのが、とても寂しく苦しいです。
心の拠り所がなくなってしまう。
こんな気持ちで誰かを思う事はなかったので、自分でも困惑しています。
お別れの日までは、部下としてしっかり仕えたいと思っていますが、いなくなってからの、抜け殻になりそうな毎日をどう過ごしていけばいいのか、助言をいただけたらと思います。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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足跡を追う生き方
私は禅僧です。禅宗は諸宗派の中でも特に師弟関係を重んじます。尊敬と、恋愛感情ではありませんが法愛を抱くことができる指導者と巡り合えることは、何にも勝る幸福です。
しかし、禅の指導者は口をそろえてこうおっしゃいます。
「自灯明・法灯明」(じとうみょう・ほうとうみょう)
自己を拠りどころとし、法を拠りどころとして生きなさいという意味ですが、実はこれはお釈迦さまの最後の教え、つまり遺言として伝わっています。お釈迦さまから代々、同じ遺言を伝えてきているのですね。
前半の自己を拠りどころとしというのはイメージしやすいでしょう。後半の法を拠りどころとしての法とは法律ではなく、仏法、つまりお釈迦さまの教えの意味です。お釈迦さまや仏教の指導者は「私たちの背中を追いかけて来てごらんなさい。でも、私たちに依存せず、自分の力でしっかり歩き、追いついて来るのですよ」とメッセージを遺されたわけです。
お坊さんには成長の過程の中で、先賢の足跡を追う時期があります。私も亡くなったの祖父の法話の原稿、メモ帳、日記などを漁って読んでいた時期がありました。そして言葉のちょっとした選び方などにピンと来ては、「あぁ、やっぱり同じ仏法を受け継ぎ、同じ所でつまづいて、同じように修行したんだなぁ…」と感じて内心喜んでいました。するとですね、かえって近くにいた頃よりも祖父を身近に感じることさえ出てきて、もっと頑張ろう!と思えてることさえ出てくるのですよ。
「例え離れ離れになってしまっても、私はあなたの中に生きているから。」使い古された表現ですが、使い古されてもまだ使われるほど、人間にとって普遍的な心なのです。
別れが悲しいのは当然です。困惑するのも当然です。でも、それは誰もが通る道です。それで良いのです。その中で、自分の心の中に存在し続けるあの人を忘れるのではなく、今日を、明日を生きる活力に昇華させてください。足跡を追い、いつか、あの人と同じ背中をご自分の後輩に見せてあげられるよう、精進なさってください。それが優れた指導者に対する最大の恩返しであり、最大の敬意であり、最大の愛です。
質問者からのお礼
めぐり合えたご縁と、何かと目に掛けてくれた事への感謝を忘れず、時々は寂しい気持ちに負けてしまいそうですが、いつかまた会えた時に恥ずかしくないよう、一生懸命仕事を頑張ろうと思います。
ご回答いただき、ありがとうございました。