簡単な出来事も苦しいです。
人生なかなかスッと上手く行くことがなく、そんな中でもおこる出来事は意味がある事ととらえるようにし、自分が成長するチャンスだと思うようにして努力してきました。
しかし同じ出来事でも他の方は運よくスッと上手くいっているのを見ると、何故私はこんな簡単な出来事も乗り越えないといけない山ばかりなのだろうか?よくトクを積むではないけれど私のたましいはそんなにトクを積まないといけないのだろうか?とかそんなに試されないといけないたましいなのだろうか?と思ってしまい苦しいです。
もちろん他の方も私の知らないところで他の出来事で山がきているのかもしれないとは頭ではわかっているのですが、苦しいです。
その出来事によって自分の成長にだけ目を向けたい気持ちはあるのにどうして自分は。。。とばかり考えます。
こんな自分が嫌です。
よいお言葉をもらえたらと思います。
よろしくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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大変ですよね。
分かります。もちろん貴女が現実に直面している問題と、私のそれとは異なりますけれど、思いますよやっぱり、「いつになったら落ち着くのかなぁ。次から次へと問題が起きるなぁ」と。お釈迦様は「人生には苦があるよ。苦というのは”思い通りにならないこと”だよ」と仰っているので、まずは「人生はそんなものだ。言わば真っ当に歩いているな」と捉えていますが、それにしても、まぁよくこれだけの問題が起きること。この問答のID番号、分かりますか?4411番なんですって。スゴイ数ですよね。
あなたの問いかけを読んで言ってあげられることは、3つあります。
「同じ出来事でも他の方は…」と書かれていますが、これ同じじゃありません。言葉にして・文章に書いたら同じかも知れませんが、直面している人は別人なので、これらは違う問題なのです。物事は全て縁の中で起きています。ストーリーは、そこから抽象されたものに過ぎません。もちろん他人を参考にすることはできますが、問題というのは本質的にオリジナル・無二・再現不可のものです。
二つ目。あなたは「たましい」という言葉を使われていますが、こういった運命的な理解を、仏教ではしていません。「たましい」があるにせよ、ないにせよ、そこに軽重や優劣はないと考えます。ただあるのは「縁…物事の相互作用」であって、単独ではない。たましいがあったとしても、それをドウコウ手を加えることはできないでしょう?であれば、そんな考え方は捨てて、自分が影響を及ぼしうる「縁」で考えた方がいいと思いますよ。
みっつめ。「自分の成長だけに目を向けたい」これ、「起きている出来事を前向きに捉えたい」ということでしょうけれど、これは相当、ちから業です。なぜ? 直接評価を変えようと企てているからです。具体的に起きていることへの対応は、具体的な対応をするよりありません。それが「自分の成長になるか?」は、行動なり現実の動きがなければ分かりません。渦中にあって必死に動いて、そして大抵は、終わった後に気づきます。意外な形で気づくことも多い。誰かの過去の体験談をいまの自分に当てはめるのは、それこそ「苦しくなる」要因であろうと思います。
総じて、周りと比べて「自分は…」というよりも、今起きている問題に直面し、全力で当たるよりないでしょう、と申し上げたい。
それは、私にとっても同じことなのです。
質問者からのお礼
ありがとうございます。
何度も何度も読んで泣きました。母から私が小さな頃からたましいを磨いているとかたましいという言葉を聞いて育ちました。何かおきて母に相談すると成長するのに必要な事だから頑張るしかないと言われてきたのでそういうものだと思ってきました。(だからといって母のせいとは思っていません。そのおかげで乗り越えたり強くもなれたと思っているので。)
確かにその時は辛くて成長って何だよ!と思ったりしたこともありましたが、後になるとその出来事のおかげで強くなれたのかな?成長できたのかな?と思います。
今の出来事をすぐに先に成長するためと思い込もうとしているから苦しい。後になって気がつくことなのに。。。
こんな簡単な事に気がついていなかった。。。
たましいではなく「縁」。これも気持ちが楽になりました。縁。
思い通りにいかないのが人生
すごい相談の数ですものね。
やはり乗り越えるしかないのですよね。。。
でも自分を苦しめる考え方をやめる努力だけでも違ってきてくれると思います。
ありがとうございました。