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どうしたらいいですか。

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有り難し有り難し 6

私は、なるべくというより極力虫を逃がしたり助けたりします。
ですが・・、逆に死なせてしまう事も多々あり、自分が助けようとして逆に裏目に出てしまう事もあります。
それは、人でも一緒です。自分の自己満足なのかそれとも自分の性格なのか昔から人には優しくしています。ですが逆にそれが裏目に出て辛い事になったり、相手を傷つけてしまう事もあります。

話は戻りますが、虫さんは苦手です。苦手だけどでも自分のお節介が虫さんたちの為になっているかどうかは分かりません。
不意の事故で死なせてしまう事もあります。殺意は全くありません。
ただ、自分のお節介な優しさで勝手にやっているだけですが、

別の質問サイト等で助けてやりたいですと質問をいうと、答えとして、自然の摂理だから手を出すのはよくないと言われます。
ですが、困っている人がいたら手を貸すのは、当たり前とまでは言いませんが、放置するのはよくないとは思っています。

ただ、自分のこの行いが行き過ぎて、ストレスになっています。
なので、自分はどうしたらいいですか・・、異常に敏感になっているのも
分かっています。

お坊さん的には私のやってる事は偽善ですか、それともいい事をしていると思いますか?

追記:虫さんが死んでいた時に土に埋めたりする行為は罰当たりですか?(これも質問サイトで言われたことです)
虫さんの事で近所の方にご迷惑をかけたこともあります。やりすぎにもほどほどにしたいとは思いますが、辞められません・・。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

いつもありがとう。

たとえば、浄土真宗には『一念多念文意』というお書物が伝わっているのですが、ここには念仏は【一念】一回でいいのか、やっぱり【多念】たくさん唱えたほうがよいのかという議論が展開されていきます。しかし、念仏を一回も唱えないという無念などは論外です。

同様に、自分のやっていることが「至誠」なのか「偽善」なのかという葛藤も当然出てくるとは思いますが、難癖つけて「無善」になってしまうよりは「偽善」でもまずは上等だと思いますが。それが、いらぬお節介だったとわかったなら、その時はその時点であなたの行いをストップすればいい。余計なお世話だと言われたら、素直に謝罪すればいい。

【愛の反対、無関心】とは、マザーテレサの言葉です。どうぞ、そのまま愛のある優しい女性でいてください。

"土に埋めたりする行為は罰当たりですか?"
アリさんに代わって言わせてもらうよ。
その節は、アリガトウ。

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おきもち

【公認心理師】 【レンタルお坊さん】活動中。 とりあえず何でも相談して...
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質問者からのお礼

ありがとうございます。
そうですね、自分の行いをやめればいいですよね。

「今を生きる・自分の生き方」問答一覧

人生後半戦の生き方

久々にご相談させていただきます。42歳になり、遅ればせながら授かった子供を育てつつ復職し、日々ドタバタながら楽しく過ごしています。 産前はなんとなく、仕事はある程度やり切ったな〜という気持ちもあったのですが、不思議と今は、社会人として人としてもっと成長したいという意欲でいっぱいです。人生後半戦ということで、生きる心構えについてお聞きしたいです。 先輩から、何歳までにこうなってやる!と目標を立てて、逆算して行動する大切さを幾度も説かれてきました。ただ自分は、これまで公私共に大きな目標はなく、常に、その時その時、自分がしたい事、成し遂げたいことにまっしぐらに進んできた、という人生です。その結果今があり、不思議とあまり後悔はしていません。 人生後半戦も、このようなスタンスで生きていいものでしょうか。それとも、これからはある程度大きな目標を持って進んだほうがよいのでしょうか。 これまで運やご縁、もしかしたら若さと勢いでなんとかしてきたので、難易度が上がる今後も自分の生き方がこれでいいのか、それとも着地点めがけて頑張った方がいいのか悩んでいます。 ご教授いただけますと幸いです。

有り難し有り難し 23
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『今』を生きる事に集中したい

幼い頃から負の情報にとても影響を受けやすいです。 家族間や学校、職場での出来事はもちろん、特にメディアでの情報やニュースにはとても敏感です。 東日本大地震で被災してからは更に過敏になったように思います。 戦争や災害、陰謀論、気候変動、ワクチン、政治問題など。 こればかりは自分の影響力の範囲外の事ですし、先のことは誰にも分からないので悩んでもしかたない事だと理解はしているのですが怖くて苦しくて潰れそうになります。 そういった情報が目に入らないように使用機器の設定をしたり、テレビをつけずに過ごしたりと対策はしているのですが、たまたま目に入ってしまった時に呼吸が苦しくなってしまうのです。 恥ずかしい話ですが、北朝鮮のミサイル発射の速報を見て小学校や中学校だけでなく仕事を休んでしまったり、公共交通機関に乗れなくなったこともありました。 共感疲労というのでしょうか。 いつか家族が、愛する息子が、自分が、と次々に想像してしまい止められません。 そして実際に家族を失ったような喪失感に襲われます。 夢に出てくることもあり、正直それが一番辛いです。 残虐な殺され方を目の当たりにして現実で起きたような衝撃と感情で目が覚め、気持ちがリセット出来なくなります。 毎日何かに怯え、家事育児中もずっと頭の中が不安しかないのです。 常々『死』を連想してしまいます。 立て続けに身内を3人、急性の癌で亡くしているのでそれも関係しているのかもしれませんが。 こんな世の中に息子を産んでしまった事を後悔してしまいます。 この世は生きるに値しない気がします。 でも生きていくしかありません。 どうしたら今を生きられるようになるでしょうか。 まとまりの無い文章で申し訳ありません。 ご返答いただけると幸いです。

有り難し有り難し 11
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専業主婦に憧れます

こんにちは。 以前新婚時に相談したものです。 新婚時は夫どの関係に自信が持てず悩んでいましたが、昨年第一子を出産してからは全く気にならなくなり、それどころか家族との日々を過ごせることをとても幸せに感じています。 今回ご相談したいことは、私の仕事のことです。 私は公務員で役所勤務しています。育休や子育て支援制度も充実しており、今は週3日勤務で子供を保育園に預けながら働いています。 平日休みの日は子供は保育園に行くので、私の時間ももらえ、とても恵まれているのはわかっているのですが、子供が熱を出したときなど急な休みをもらわないといけないときなど、仕事をやめてしまいたくなります。 急に仕事に穴を開ける罪悪感、子育てがあるため仕事に全力を注ぐことができない罪悪感、仕事のことを気にしながら子どもと向き合っているもどかしさ… 私は両立が苦手のようです。 どちらにも100%の力を注げないもどかしさもありますが、何より子供を育て、家族のことを一番に考えながら平和な家で家事育児をして過ごす日々が幸せすぎます。 なので、いっそ仕事をやめてしまって家事育児に専念し、余った時間で今流行りの在宅でできるお小遣い稼ぎでもしたらいいんじゃないかとか思ってしまいます。 でも、やっぱり今の仕事は本当に恵まれているのも承知しており、そこまで高給取りではありませんが、長い目で見れば金銭的にも大きな差が出てきて、将来の子供の学費などの資金にも影響が出てくると思います。夫はやめるのは私の保障がなくなる意味でもったいないといいますし、私の親は辞めたとしても、専業主婦になっても辛いこと嫌なことはあるから変わらないといいます。 今の私はどのように気持ちの整理をつければいいでしょうか。

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敢えてバランスを崩す

人生において、何事もバランスを取ることが大切だと良く聞きます。しかし何事も二面性(バランスを取ることによる弊害)がある中で、なぜその重要性が真理のような言い方をされるのでしょうか。 例えば、食生活のバランスを意図的に崩してみること(ときに、野菜のみ/肉のみ/炭水化物のみ、暴食/絶食、新鮮な食材/悪くなりかけの食材、普段食べない料理にチャレンジ等)は、自身の体の変化への対応力を身につけるためには有用である(むしろ健康を増進する)との考え方もあるでしょう。 また、常にバランスの取れた食事よりも、その時々で食べ物の美味しさ、有り難みに気づけるのもメリットでしょう。 意図的にバランスを崩すことは、仕事や学業や趣味、恋愛など様々なことにも有用と考えております。 何事もバランスが重要との言葉、信じて良いのでしょうか。(上記の例でいくと、長い目で見ると食生活のバランスが取れているとの見方も可能だと思いますが) 仏教ではどのような考え方をされるでしょうか。バランスは時間の経過とともに自然と取られるとの見方や、そもそもバランスを取るなど幻想、私の問い自体がナンセンスとの考え方もあるかと思います。是非お知恵を拝借させてください。

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今を生きる=悩む暇がないこと?

以前より、死の恐怖についてご相談させていただいております。いつもありがとうございます。 今年から仕事をはじめ、毎日必死に慣れない仕事をこなしています。以前と違って少なくなった休日は、友人との交友や趣味を詰め込んでいます。 そのような生活をしばらく続けていましたら、以前悩んでいた「死の恐怖」について悩む物理的な時間が殆どなくなっている事に気が付きました。 しかし、死の恐怖がなくなった訳ではなく、今でも偶に恐怖で叫び出してしまう事はありますし、将来のこと(今後のキャリアやライフプラン)について考える時にも、「死ぬ時、恐怖に震えながら死ぬのだろう」ととても悲しく、またとても恐ろしくなります。 これは、「今を生きている」のでしょうか?確かに、目の前のことに必死で、死について考える時間がないので精神は健全です。以前より充実していると思います。 ですが、人生の本質のようなものを蔑ろにしている気もします。今の生活はなんとなく、さまざまな問題から逃げている現実逃避のように感じます。人生は死からの逃避、という言葉をどこかでみました。私の人生は今、逃避なのでしょうか。 そこで、「今を生きること」と「現実逃避」の違い、「今を生きること」と「何かに夢中になり、悩む余裕がない」ことの違いが知りたいです。 また私の今の様な生活は、仏教やお坊さんのお考えからはどのように思われますか? 死に怯えるだけだった過去から、今の生活になったことは進歩でしょうか?これは、私の望む「死は悪くない、怖くないと安心して死ぬこと」に近付いていますでしょうか? お忙しいところ恐れ入りますが、知恵をお貸しいただけますと幸いです。よろしくお願い致します。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ