踏みにじられたいという欲求について
誰にでも、こだわりや真面目に取り組んでいること、話題にしたく無いことなどの他人に土足で踏み込まれたく無いゾーンってものがあると思っています。
私自身、他人のそういうのを察すると避けますし、大体の人達は何も言わずに見守ってくれたりします。
親しき仲にも礼儀ありと言うのか、タブーに触れて相手を傷つけない為に、そして自分も嫌われないように、そうするのだと思います。私はそうです。
私にもそういったどんなに親しい友人にも触れて欲しく無いものごとが有ります。
いい意味でも、悪い意味でも、本気だから茶化されたく無いし、自分による自分の為のものだから、と感じます。
ですがその一方で、他人にそれを指摘されたい、話題にされたい、踏みにじられたいと思います。
話題を避けてくれたなと思う瞬間があると寂しさを感じることもあります。
これは承認欲求なのでしょうか。
他人から自分という存在を知ってもらっていることを明確に確認したいのか、と考えたりします…
本音でぶつかりたい、とはまた違うような気もしますし、なんでも話せる友人に一度言ったことがあるのですが、友人からの私を傷つけないようにという優しさを無碍にしてしまっているような、困らせてしまっている罪悪感を感じました。
私も大切な友人にそういったことをしたくは無いと強く思いますが、私はされたいのです。結果自分は傷つくだろうむかむかするだろうもしかしたら嫌いになるかも、とは思いますが…
自分でもよくわからない感情にモヤモヤしています。あまり人には共感されにくいと思い他人には話せずに寂しさを感じています。
皆さまの視点からのお話を聞かせていただけたらと思います。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
お互いを尊重なさってくださいね
拝読させて頂きました。
あなたのお気持ちわかりますね。あなたが抱くそのような人への感情や欲求も私たちの心の中にはあるかと思います。
様々な形やコミュニケーションにより人とつながりながら自分をわかってほしい、自分の存在を知ってほしいという思いはありますからね。
あなたのその思いも一つのありようかと思います。
そしてその思いへの反応についてはいろいろあるでしょうし、言葉にしても度合いもあるのではないかと思います。
ほんの一言言ってもらうことで充分な場合もあるでしょうし、コテンパンに言われて立ち直れない程でないと実感がわかない場合もあるかと思います。或いは具体的に暴力を振るわれて体感して満足するかもしれません。
とはいえ人それぞれの尊厳がありますから状況により大いに異なると思います。
自分が存在している生きていることへの実感や渇望が根底にあるでしょうから、それには様々な理由もあるかと思います。
私たちの感情というのは摩訶不思議なものです、とらえどころのない部分もありますからね。
そのような自分もあることを自分でも知っておくことはいいかと思います。
とはいえあなたもとても尊い存在です。そして周りの皆さんも尊い存在ですからね。
お互い敬意を持って幅広くお付き合いしてコミュニケーションを深めていけばいいと思います。
あなたがこれからも皆さんと一緒にお互いを尊重なさり仲良く充実して毎日を生きていかれますようにと心より祈っています。
質問者からのお礼
お礼が遅くなり大変申し訳ありません。
「あなたが抱くそのような人への感情や欲求も私たちの心の中にはあるかと思います。 」「あなたのその思いも一つのありようかと思います。 」という言葉にとても心が楽になりました。ありがとうございます。
感情というのは本当に不思議で相手のことも、自分のことすらよくわかっていないことが多いです。よくわからないなかでも自分も他人も尊重して生きたいと強く思います。ありがとうございます。