足るを知るということについて
以前から足るを知るという言葉を誤解していたように思います。心の持ちよう考えの持ちようで、まるで子供のおもちゃにいつしか成長とともに見向きもしなくなるようにスッと離ていけるようなことなのかと思ってたのですがなかなか抜けない。
ことにアルコールであったりスマホゲームであったり依存してしまいます。
なんでこんなことにかまけてるんだ、と自分を殴打したこともありました。欲望とはなんだかゲームのオートプレイが勝手に始まって乗っ取られてくみたいで。
ここ最近はそれでも、足るを知るよりも前のステップで満ちたらないのが人生って割り切るというような、手放すみたいな感覚になってみる、そうしたらお酒を飲まずにスーパーの前をコンビニの前を離れて酒を買わずに済みました。
満足、でなくて知足なのか、と今書いてて思いました。でも足るの語感からすると足るを知ろうとするのも諦めるの方が現実的に立ち直るにはいいかもしれません。
いよいよ無理なら他人の力を貸してもらう必要もあるかもしれませんが少しよい流れなのでこのままどう過ごせるかひとまず様子を見てみたいと思います。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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『知足』=そのぐらいで満足しよう(?)
おっしゃるとおりではないかと思いました。
「足りない」と思うことがいけないんじゃなくて
「足りている」と知るってどういうことなの?
って話だと思うんですよ。
私たちは、
「足りてない」と思うことには目を向けるくせに
「足りてるな」と思うことには無頓着すぎるんじゃないでしょうか。
「足るを知る」ってそういうことだと思うんですね。
はじめから不公平なんですね。
私たちは
今、足りているなと思うものに目を向けているのでしょうか?
目は横につき、鼻は縦についている。
寝る場所、三度の食事、空気、水、
これらを満足に得られない人もいるでしょう。
むしろこれらが足りている人々は何をやっているか?
「足りない」「足りない」とずっとやって
怒りに任せたり戸惑ったり悲しんだり、
苦しんでらっしゃる方も多い。
なんとむなしいことでしょう。
繰り返しますが
「足りない」というのがいけないのではないと思うんです。
『いよいよ無理なら他人の力を貸してもらう必要もあるかもしれませんが少しよい流れなのでこのままどう過ごせるかひとまず様子を見てみたいと思います。』
私も見習ってそのようにいたしたいと思います。
南無釈迦牟尼仏 合掌
質問者からのお礼
少しずつ自分が目を向けていない、足りてることに意識的に目を向けていくようになりました。人間てどうして不足しているものばかりに目がいってしまうのか、それはもうそういうものだったらもしかしたら考えても仕方ないのかもしれないけれども少なくともそうなりがちだよねと言う事は肝に銘じておこうと思っています。
大きく視点を変えることができました。
ありがとうございます。