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娘を亡くした寂しさとの向き合い方

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はじめまして。自分の心の中でまだ整理しきれずにいることを想いのままに書かせていただこうと思います。まとまりのない文章になってしまうかもしれませんが、どうぞよろしくお願いいたします。

昨年の年末、第4子となる私の可愛い可愛い娘が亡くなりました。生後3ヶ月でした。

娘は妊娠20週頃の検診で心臓に異常が見つかり、その重症度から「この子は生まれることが出来ない」と言われ中絶を勧められた子でした。
それでもお腹の中で元気に動く娘を私はどうしても諦めることができず、小児心臓の専門病院を受診。そちらで、生後すぐに手術が必要になるが元気になる可能性もある、との診断を頂き無事に出産することができました。昨年の9月のことです。

妊娠中に中絶を勧められた時のあの絶望感を、、、心臓に異常を抱えながらも、なんとか元気に生まれてきてくれた娘を抱きしめながら何度も思い出しては、何度も泣きました。
なんて重い、なんて尊い命なのだろうかと。

その後、生後2ヶ月の小さな小さな体で、3度の心臓手術を受け、懸命に闘ってくれたのですが、奇跡は続かず、生後3ヶ月と2日で娘は旅立ってしまいました。

1度目の手術から亡くなるまでの1ヶ月間はずっと眠っていたので、元気に動く娘と過ごせたのは2ヶ月間だけでした。

先にも書きました通り娘は第4子です。上の子たちにとっても妹の誕生は楽しみでしかなく、子どもたちが抱えた悲しみの大きさを思うと張り裂けそうです。
また主人もとても子供たちを大切にしてくれる人なのでその悲しみを思うと…

ですが本当は、私自身の悲しみの感情がうまくコントロールできずにいるのです。
他の誰でもなく、こんな私を母として選んで来てくれた娘。10ヶ月間私のお腹の中で一緒に過ごし、一緒にお産を乗り越えて生まれてくれた娘。病気を抱えている事は分かっていたから、心のどこかでいつかはお別れが来るかも…と覚悟はしていたけれど、でもやっぱり寂しい。悔しい。会いたい。もっともっとたくさん抱っこしたかった。もっとずっと一緒にいたかった。成長する娘を見守りたかった。
上の子たちや主人の前で、いつまでも泣いてちゃダメだと、いつも気持ちに蓋をして、娘が亡くなった事さえも納得しているかのように振る舞ってしまいますが、本当は今でも寂しくて悲しくて、辛くて仕方がないのです。この気持ちとの向き合い方を教えて頂きたいです


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

厳粛な問いを娘さんから頂いている。手を合わす中で出会い直す。

どれほど、辛い事かと思います。その悲しみは、私には想像しようとすることは出来ても本当には分からないと思います。子供が亡くなるほど親にとって辛いことは無いと思います。ただ、娘さんに手を合わせることしかできません。一緒に悲しもうとすることが唯一出来ることなのかなと文章を読ませて頂き思いました。
まず、私たちはどうしてこうなったんだと考えたり、運命だったんだとか、理由を探そうとしたりしますが、それは誰にも分りません。色々な縁が重なった。それだけです。本当は私たちの命は明日をも分からない命です。最近私も、コロナにかかったら本当に今日にも消し飛ぶ命なんだなという事が実感されます。

ですから、娘さんはとても大切な命の事実を私達に教えてくれたのではないでしょうか。それはあるがままの事実です。

その上で、仏教では、長く生きたから意味があったとか、早逝だったから価値がなかったなどということは言いません。どんな命も、厳粛な命を生きられたのです。命は私たちの想いを超えたものですね。なぜ私たちがここにこうして生きているのかも分りません。だから、娘さんはたった3ヶ月と思うかもしれませんが、厳粛な命を生ききった。すごい事です。さっきも言いましたが、それはより長く生きた私たちと本来的に何も変わりません。

お釈迦様の時代にキサーゴータミーというお母さんがいました、最愛の息子を亡くし死を認められず、生き返らせてと走り回ったそうです。お釈迦様は「生き返らせるからケシの種をもらってきなさい、ただし一度も死人が出ていない家からですよ」と言いました。キサーゴータミーはあらゆる家を周り、人は必ず死ぬという事実を受け止めました。その後彼女は「人が必ず死ぬということは分りました、しかしこの辛さを抱えてどう生きていったらいいのかわからないのです。」と言いました。キサーゴータミーは正しい問いを得て、道を歩んでいったそうです。生き返らせるというのは問いの方向が間違っていました。仏陀は正しい問いを持たせ共に悲しんだのです。

浄土真宗では、亡くなられた方は仏様として私たちを見守ってくれていると考えます。手を合わせる時にいつでも娘さんと出会い直すのです。あなたは娘さんから、厳粛な問いを頂いていると考えて行くことができるのではないでしょうか。
あなたもまた厳粛な命を生きています。またいつでもハスノハに相談して下さい。

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有り難し
おきもち

浄土真宗本願寺派の僧侶です。 産業カウンセラーの資格を持っています。...
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時間はかかるかもしれませんが、ご一緒に、がんばりましょう。

わが子を亡くされた悲しみ。
 わたしも、この1月に、中学一年生になる息子を亡くしました。
 私も、頭では、「息子は、お浄土で菩薩となって、阿弥陀仏の御仕事のお手伝いをしている」「私たちといつも一緒である」とは、理解しているつもりです。
 でも、やはり、「どうして亡くなってしまったのか」「可哀そう」「息子が死んで、どうしてこの自分が生きているんだろう」という思いも、同時に沸き起こっています。
 そんな私が、アドバイスできるかどうかわりませんが、一言、お話させて下さい。
 先ほどのように、今の私は、「お浄土で菩薩となっている息子」という、息子の死を受け入れた「これから」の思いと、「なんで死んじゃったんだろう」という二つの思いの間を、行ったり来たりしています。
でも、「可哀そう」という思いを抱えながらも、少しでも長く、「お浄土に居る息子」の方に心が向けられたなら、それは「死を乗り越えられた」ということになるんだと思います。
 実際には、私も、家族の前では気丈に振る舞っています。子どもたちに悲しい顔を見せるわけには行きません。
 しかし、息子の祭壇に手を合わせる時には、一対一で対話をします。その時は、色々な事を話しかけたり、時には涙することがあります。
 親より先に子が亡くなるのは、そうそう多くはないけれども、しかし、実際に、厳然と、必ず起こり得ることなのです。
 私のお寺の檀家さんに限っただけでも、我が子を亡くされた方は、結構いらっしゃいます。
 その方々は、幼い我が子を亡くされてから、ずっと亡き子に手を合わせることで、「子亡き後」をしっかりと生きてこられました。
 その方々は、私にとっては、人生の「先達」だったのです。
 どうぞ、お子さんに手を合わせることを習慣にして下さい。そのことで、徐々に、「正気」を取り戻して行きましょう。
 時間はかかるかもしれませんが、ご一緒に、がんばっていきましょう。

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有り難し
おきもち

ごくふつうのお寺の住職をしています。
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質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます。3ヶ月というとても短い時間でしたが、それでも懸命に生き、私たち家族にたくさんのことを教えてくれた娘を本当に誇りに思います。
ずっと自分の思いと素直に向き合う事を避けてきたので、想いのままに気持ちを言葉にし、その思いを受け止めていただけたことで少し気持ちが軽くなったような気がします。もしも来世というものがあるとするならば、その時にはまた娘と親子になりたい、その時には元気な体で産んであげたい。そう思いながら今日も娘に手を合わせ出会い直したいと思います。
ありがとうございました。

ご回答ありがとうございます。3ヶ月という短い時間ではありましたが、私の子として生まれてくる事を選んでくれた娘には感謝しかありません。娘も同じように、私の子として生まれてきて良かったと思っていてくれたら嬉しいです。
娘の死を乗り越える、という事ができる自信は正直ないのですが、確かに私の娘として力強く美しく生きた娘と共に、今後の私は生きて行かなければと思っています。
ありがとうございました。

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