生まれ持った才能でその人の限界が決まる?
質問させて頂きますハルソラと申します。
人間の能力は生まれつきの才能で限界が決まってしまってるような気がしてなりません。
最近見たサイエンスの番組でIQ(知能指数)は生まれつきで決まっていて、IQが高すぎる子供は小学校から群を抜いて勉強が出来すぎて先生も嫌がるくらいなので、別の専門学校に通わせたり、アメリカではIQごとにクラスわけをしていて、経営や発明で大活躍した人間はことごとくIQが高いらしいです。
身体面では例えばオリンピック100m走で日本人が金メダルを獲得したことはありませんよね。
私の人生もスポーツ、勉強、仕事、思想宗教といろいろ学びかなり努力してきましたが、どうも並みか並み以下くらいの能力と性質しか身につかないような気がして絶望しております。
お坊さま方は同じお寺で同じ修行をしていても成長の度合いが違うと感じたりすることはありますでしょうか?
能力が高い事が必ずしも幸せに繋がるとも限りませんし、自分の能力を見限って諦めて努力しないのも間違ってると思いますが、私の人生も折返すような年齢になってこれだと生きる気力が減退してやる気が起きません。
どのように考えたら良いのでしょう?また禅や仏教的にはどのように解釈されていたりするのでしょうか?
ご教授よろしくお願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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持たされたお役目
修行の中で、成長の度合いが違うと感じることがないわけではありません。
しかしながら、それはIQというよりもむしろ、願心、すなわち己を高め衆生済度するのだという強い目的意識によるところが大きいのではというのが正直な感想です。
全てがそうではありませんが、寺に生まれて既定路線として修行道場にくる者と、在家出身で自ら発心してくる者とでは、日々の生活を見てもモチベーションに差があることが多いです。
私自身の修行道場での経験から申し上げましても、「あと何年、あと何ヶ月」と引き算するような修行よりも、1日1日積み重ねていく修行の方が身になるのは至極当然であると感じます。
人には、この世に生を受ける上で持たされた役目があると考えています。
輪廻転生があると考えるのならば、今世を生き抜くこともまた、魂を磨く修行の期間であると考えられます。
当然、人により得手不得手があって然るべきで、得意なところを伸ばすも、不得意を克服するもその人次第でしょう。
僧侶と一口に言っても、人前で法話をする僧侶、地道に修行に生きる僧侶、寺を守り受け継ぐ僧侶と、様々な形があります。
焦って早く自身の人生の目的を見つけようとする気持ちは大いに分かります。
しかしながら、それはそう簡単に見つかるものではありません。
ゆっくりと時間をかけて、人生の中で見つけていけば良いのです。
私自身がそうですが、人生の途中で発心し、年を重ねてから仏門に入るというのもまた1つの人生の在り方であると考えます。
「回り道に見えても、後から振り返れば真っ直ぐな道であった。」
これは以前、熱心に坐られた檀信徒さんに教わった言葉です。
人生というのは、そういうものではないでしょうか。
p.s.『無門関』に、「巌喚主人」という公案があります。
瑞巌彦和尚は、毎日自分に「主人公、主人公」と呼びかけ、また自分でそれに応えていたという逸話です。
ハルソラさんもまた、ハルソラさんの人生の主人公です。
生きる気力、生き甲斐が見つかりますよう、ご祈念申し上げます。
質問者からのお礼
大心さま、ご回答ありがとうございます!
願心のくだりは全くその通りですね。自分が真に何を求めているのかという真剣味が大切だと思います。
また自分の特性を上手く活かすこと、回り道で経験したことの有意義など忘れていた事を思い出させて頂きました。
最近は物事が上手くいかず少し憂鬱になっていたのだと思います。
大心さまの言葉で気が付かせて頂きました。しっかり自分の人生を歩んでいこうと思います。ありがとうございます。合掌。