依存するというのはどこからでしょうか?
知人に、人に依存して甘えるなとお叱りを受けました。
私はそのお叱りを受けるまで、自分は純粋に相手を尊敬をして慕っていて、それに向き合おう耳を傾けようとしているだけだと思っていました。
俗に言うメンヘラのように、死んでやる!とか貴方がいなくちゃ生きていけない!ということも無いですし、自分は自分、他人は他人だと理解してはいましたが、歩み寄ろうとしすぎて自他境界を曖昧にしすぎてしまいました。
反省をして、依存することについて考えていたらその依存というものが、一体どこからなのかがわからなくなりました。
誰も受け入れず、全ての人に壁を作ってしまいそうです。
たとえばですが、人と遊びに行く約束などを心の支え(ご褒美だと思って)にしてなにかを頑張ったりすることや、友人と遊びに行ったりすることでストレス発散をしたりすることは人に甘えているのでしょうか?
上のような、ストレスや悲しみや怒りに気が狂いそうなときに自分の気分転換や精神的なマネジメントに他人を利用したいこと(慰められたい、褒められたい、話を聞いて欲しい、意見を聞きたい等)は他人に依存し自立を出来ていないのでしょうか?
また、そういった感情や欲は誰にでもあると思うのですが、それに応えたいと思うのは相手の為にならないのでしょうか?
他人のことを全く考えずに、自分が依存しないことだけを考えるとそれは冷たい上辺だけの付き合いしかできない人間になってしまいそうで不安です。そうは思われたくもないし、なりたくありません。
尊敬している、仲良くしたい、歩み寄りたい、優しくしたい、理解したい、そう友人に思うのにそれを深く考えすぎると依存になってしまうならば、人間社会で他人と生きるうえでどう心構えをしたら依存にならず、冷たい人間でも無く居られるでしょうか?
ご意見聞かせていただけたら幸いです。よろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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頻度と距離感
こんにちは、初めまして。
前回も同様の質問をされていますね。
回答僧の回答にあなたは返信をされていませんが、同様の問題についてあなたはその後どう考えたのかが分かりません。
前回では、次のように書いていました。
「友人」と「ほぼ毎晩電話をして、ゲームをしたり、くだらない話をしたり悩みも話したりしておやすみをします」、「友人にも友人の生活や私以外の友人が居るのはわかっているのですが、、、私にかまってほしいという独占欲のようなものが出てきてしまっていて、なりたく無い自分になっていくのを自覚してとても苦しく思います」と。
これに対して、前回の回答僧さんは、毎日という頻度とつきあいの距離感の見直しが必要では、と書かれていました。あなたはどう考えましたか?。今回の質問文にそのことを示唆する文章は見当たりません。
今回の「知人」と「友人」が同一人物かは、当方には情報がないので知り得ません。しかし、本質的には同一人物かどうかという問題よりも、前回に指摘された内容をどのくらい考えて今に至っているか、というところが最大の問題です。毎日という頻度と距離感の見直しをした上での今回の質問なのか、そうでないかは回答する側には大きなポイントです。
自分の現状をよく知った上で回答が希望ならば、きちんと返信することや、前回の回答を受けて今回はどう質問したいのか、ということを明らかにしたほうがいいと思いますよ。
依存か、そうでないかの重要なポイントは、やはり頻度と距離感は大きいです。その「知人」とのお付き合い具合(頻度など)がほとんど文中にないこと自体も回答を難しくしている原因です。ご再考ください。
質問者からのお礼
回答をありがとうございます。
今回は、特定の人物や行動に対してでは無く前回のことを踏まえて別問題としてこれからの精神的な対人関係の考え方や心構えについて聞きたく、詳細な内容は省略しました。返信を怠っていたこと反省します。申し訳ありません。