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共依存について

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有り難し有り難し 21

共依存についてなんですが、共に依存し合うことが何故マイナスなことで捉えられてしまうのかとふと思い、御意見をいただけないでしょうか。

普段、心理学を学んでる身ですが、依存することが何故一般的には前向きな意味で捉えられないのかいつも疑問を持っております。

佛教でも、帰依三宝とありますよね。帰依することは依存することはまた別物なんでしょうか。

帰依仏、帰依法、帰依僧、、と三宝に帰依することで人として生きれているということであれば、人に依存して生きるのも正しいことではないでしょうか。

私の意見が間違えていたら是非御指摘ください。

共依存の話に戻りますが、依存することで現在を生きていることを見い出せれるのであれば、素晴らしいことなんじゃないでしょうか。

三宝礼(一心敬禮 十方世界 常住佛 一心敬禮 十方世界 常住法 一心敬禮 十方世界 常住僧)と浄土勤行を毎日する読経する度に、三宝に帰依しても、実際にパートナー等に帰依し合うこととなれば、否定的な意見しか出てこないと思います。

南無阿彌陀佛、と申し阿彌陀さまへ帰依し、阿彌陀さまの御慈悲により極楽浄土へ往生できると説かれているのに、

現在、友人恋人に依存するとなれば、仲を切り裂くようなことをされたこともあります。

なぜ、友人恋人に依存することはこの人道では許されないことなんでしょうか。

御意見を頂戴してもよろしいでしょうか。

長文になりましたが、御拝読ありがとうございました。

合掌十念


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「依存」と「帰依」はベースが違う

こんにちは、初めまして。

私は浄土真宗の立場から回答します。
私も学部だけですが心理学科卒です。

端的に言って、「依存」は煩悩をベースとした依拠で、「帰依」は信心(菩提心)を基礎とした依拠という違いがあります。

煩悩は、身を煩わし心を悩ますものです。
現代でも子煩悩という言葉があります。
どちらかと言うと、子供がかわいい親の微笑ましい愛情の姿を言う場合が現代では多いですが、子を思うその心でさえ煩悩であるというところに本来は注目すべきです。

煩悩は自己中心の心であり、自分を基準にし、自分の都合の良いものをかき集め、都合の悪いものを排除する心です。「依存」「共依存」しようとする心も例外ではありません。「依存」して、相手を自分の都合、思い通りにしたいと思う。その心は、往々にして相手をコントールしようとしたり、束縛しようとしたりして働くものです。「依存」はどこまでいっても、自分を中心に行われる心の働きです。

しかし、信心は違います。
仏様から授かった(つまり自分で作るものではない)、仏様由来の心です。
このゆえに、極楽往生、成仏道を志向した心です。
阿弥陀如来様に依拠した、清浄心であり煩悩が一ミリも混じっていない心です。

「依存」は自分で作った、煩悩ベースの心で、自己中心を満たそうとする心。
「帰依」は仏様が作った、清浄心であり、生死を超え、極楽往生、成仏せんとする心です。

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釋 悠水(しゃくゆうすい)
浄土真宗本願寺派報恩寺住職(兵庫県三木市) 本願寺派布教使 元本願寺布...
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質問者からのお礼

釋悠水 住職へ

とてもわかりやすい御説明をありがとうございました!!心にストンと何かが落ちた感じがして、スッキリいたしました!!

合掌十念

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