努力できず、生きるのが苦しいです。
小説家を目指しています。
しかし、読書もやらず、ノートやパソコンも開かない状態が長く続き、自分が憎いです。
最近、自分はやはり小説家になどなれるはずがないという気がしてきました。
元々才能もなく、努力もできないのなら「目指している」ということすら恥ずかしくてたまりません。
その問は全く無意味なことであり、考えている時間が無駄だと理解しているのですが、少しでも前に進みたく質問させていただきました。
生きるために小説家になりたいのに、その夢が自分を苦しめている場合、その葛藤をどう昇華したらよいでしょうか?
以下は返答してくださるときに加味していただけるとありがたい色々です。
私は少し前まで自分のことをFTM(女性の体で生まれ心が男性の人)だと思っていました。
しかし、女性のなかで孤独感があるからといって男性的だと指摘されたことはほとんどありませんでした。
昨日、その違和感が自分が「快」という体感・気持を重要視できないためだと言うことに気が付きました。
世の人は価値尺度の一つとして自分が心地よいから、というものがあるようです。
私にはよくわかっていなかったと思います。
ただ、私が唯一充足感を覚えるのが小説を書いているときであり、私が小説家を目指している理由です。
(なので、人が心地よいことを求めて決断するのもわかっていると思います)
※補足になりますが、趣味で書きたいわけではなく、食べていきたいと考えています。理由としては社交スキルはあるもの他人のためにそのスキルを使いたくなく、自分の作品にだけ責任を負いたいからです。
最近、書けていない時間が長く、文章も気に入らないし、自分の書いた話も面白くありません。
なので、書く行為自体が苦しく、そこにつながる努力を何一つできていません。
それとは別に、
品行方正に生きたく、善い人のための話を書きたいと思っていたのですが、そんな話を誰が読みたいのかターゲットも定められません。
正しく生きていきたいと思っている私ですら読みたいと思えないのに。
話が散らばってしまいましたが、私がお尋ねしたいことは以下です。
・小説家を目指し続けるべきでしょうか?
・努力できない自分を、どう叱咤激励すればよいでしょうか?
どうかご回答よろしくお願いします。
小説家を目指しているのに努力できず、他人と比較して死にたくなる。私にはなんの価値もなく、悲しむ人さえいなければ死にたいと思っているのにその実行すらできない自分が憎い。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
続けることよりやめない事
拝
そうですか
好きなことがあるとは素晴らしい事ですね
それは特別な事です
現代で誰もが羨む才能とは
何かを好きになれる事なのかもしれません
さて、私も好きな事が沢山あります
そして、好きなことは音楽でも釣りでもスノーボードでも映像でも木工でも仏教でも仕事としてきました
今もね
お坊さんやりながら雪板っていうスノーサーフボードブランドもやりながら映像もプロモーションで撮ったり
仕事柄釣りはしないけど
同じく釣り好きな息子を良いポイントに連れて行ってあげたりもできる
どれも仕事にしてしまったなら最後
初めの頃のようなワクワクはなくなってしまうのだけど
人が喜んでくれた時の嬉しさは
いつも色褪せないものです
色んな世界を見てて思うのですが
どの世界も辞めない人が残っているんですね
意外と才能は二の次かもしれません
才能に溢れただけの人は残らなかったりするんです
主観ですよあくまでね
ですからこれは辞めるのが良い悪いの話ではありません
楽しみが苦しみに変わってもやめない強さというのが鍵かと思います
ただし結果が欲しくば、ただ今のようになんとなく続けていてもダメですがね
それでは環境に流されてしまうからです
明確に目標を立ててクリアしていくタフさも必要です
勿論諦める事も悪いとはいいません
私が最初に心を奪われた音楽も
最近になって自分の音を見つけたりして
それは誰に評価してもらうつもりもない大した事ないものだけど
それも最終的に結果的にやめなかったから苦しみから再び喜びに帰すことができたんです
これも一度諦めはしたけどやめなかった成果
正解はないんです
だからこそやめないと面白い
仏教で言うなら嘘をつかないと言うことかな
自分で決めた夢や目標があるなら嘘にならないようにしないとね
決意して始めたばかりの頃はね
その苦しみを友とするか
敵として嫌うのかは自分次第
もし辞めなかったなら
いつか読んでみたいな
貴女の作品を
合掌