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何しても報われません

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有り難し有り難し 14

私は数年前に大好きな両親を亡くしました。
それからコロナ禍になりましたが、有難いことに仕事は忙しくさせてもらっています。ただ、友人と会う機会もなければ恋人もいなく、出会う機会もございません。
兄弟がいますが皆恋人がいて幸せそうです。それは私にとって嬉しいことなのですが、本音は孤独感で押し潰されそうです。
最近、好きだった職場も環境が変わっていまい、人間関係もいまいち上手くいっていません。それに加えとても忙しくて寝る時間も休む時間も少なく、気が狂ってしまう日があります。そんなとき両親が支えてくれていたのを思い出しては泣いて、の繰り返しです。
昔から自分を追い詰めてしまうことが多く、苦しさのあまりそれを他人に当たってしまうこともありました。ただ、両親を亡くしてからは自分も性格が穏やかになり、人に当たらなくなりました。弱音も吐かず、人一倍努力してきたつもりです。
でもどうして報われないのでしょう。仕事を頑張っても、恋人をつくる努力をしても、何も変わりません。頑張っていないからだ、まだ未熟なんだと言い聞かせますが、それに苦しむ日々の繰り返しでもうおかしくなってしまいそうです。
両親の死を経験し、生きていることの幸せに感謝する日々を送っていますが、どうしても周りがキラキラしているのを羨む自分がいます。
友人に相談したことがありますが、時には逃げ出したらいいと言われました。
その勇気も大事だとは思いますが、その勇気もありません。逃げ出す=だめな自分というイメージになりまた苦しむ予感がするからです。
惨めなのは分かっていますが、相談する相手もいなくここに書かせていただきました。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

何かをしたらたまたまそういう結果だったというだけ

手ごたえのない結果であってもそれは結果。
私も境内に畑を作ろうとしましたが、土が難くて建物の日かげになり「不毛地帯」。
近所のおっちゃんが、
「ここは昔、山だったからね。畑には向かねぇよ。ハハハ!(*´▽`*)」
最初からその地は不毛地帯だったのです。orz
それでも求めれば変わる。
「もみ殻をまくと土は柔らかくなるんだよ。有機体。👴」
オラはそこで近所のJA「あぐれっしゅ」でもみ殻サ買うてきたダ。
トラクターを借りてもみ殻と土を混ぜて数か月たちました。
この春、昨年撒いた種がひょこひょこ出てきましただ。
植物識別アプリでこれは何じゃろな?としらべたら、ホウレンソウ、カラシナ、小麦が生えてきているではありませぬか。(*´Д`)
一方で、ニワトリが生む卵はすぐにカラスに持っていかれています。
何を言いたいのか。
報われないという気持ちは、最初から自分の思い描く報いを決めつけているのかもしれません。うちの畑もまだまだ土は固いのです。
ですが、縁を加えることで進化した。
あなたも、後ろ向きな考えという土壌にちょっと土が柔らかくなる「もみ殻」有機物質=ほとけのたねを植えてみることです。自分の心の土地、心地、境地が進化する。新地になる。
いちいち何かあるたびに荒れ地になるような「残念な土地(境地)」ならば、ならばこそお釈迦さまと同じように出家的な志で、この心、変えようと思うことですよ。有り難いことにお釈迦さまも出家するまではニート、鬱状態だったのです。
そこから、この心を変えようと、志された。
我々もそうするべきです。
四月の八日。
あなたもお釈迦様の誕生日と共に新たな誕生を志してください。
六道という負のループを超えるのが七歩目を歩みだす菩提心。
天上…のぼせ
人間…優劣 勝敗 損得の世界
修羅…ケンカ あらそい
餓鬼…やさぐれ 自己中心的
畜生…心の乱れ 非人道的心理
地獄…やまぬ苦しみ
人間は個々の世界をぐるぐる回っている。
そこからもう一歩を踏み出して七歩目を歩んで完全に独立する心が天上天下唯我独尊の精神です。
過去のあなたからも脱却をすることこそが新しい誕生です。
負の結果しか生み出さない心であれば握っている必要がありましょうか。
目は昨日を見ていない。過去を見る目はアタマだけ。
今日、あらたに仏の活きた有機物質をこころにタネマキしてください。🌱

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございました。

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