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信頼を失ってしまったら

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有り難し有り難し 10

初めまして。よろしくお願いいたします。

会社の同期の信頼を裏切ってしまいました。
私はどうしたらいいのでしょうか。

職場に女性の同期がいまして、その同期とは最近メールのやり取り等頻繁に行い、会えば愚痴を聞いたりしていました。
それまでの彼女の私への評価は、そこそこ高かったのだと思います。

しかし、月曜日の職場の飲み会でその信頼を裏切ることをしてしまいました。
彼女も、その飲み会にいて色々と話していたのですが、私は相当飲み過ぎてしまい、帰りに彼女と別れたあと、大好きだとか手を握りたいだとか、セクハラまがいのメールを送ってしまいました。

その時は返信をしてくれていたのですが、翌日職場であったときには目すら合わせてもらえず、拒絶のオーラが漂っていました。本来であれば面と向かって謝るべきでしょうが、とても話しかけられる雰囲気ではなかったので、熱が冷めるまではと思いメールで謝罪をしました。反応は、以後の約束していた予定をすべてキャンセルされてしまいました。

実を言うと、酔っぱらってこの手のメールを送ってしまうのは、私の悪い癖で、過去に他の人に3回ほどこのようなことをしてしまっています。さすがに今回の一件で懲りました。酔っぱらってのことなので、大好きだったお酒は飲まないと決め今日に至次第です。

人からここまで拒絶されたことがないので、なおかつ数時間前までいい信頼関係を結べてた人からの拒絶なので、お先真っ暗というか絶望の縁に経たされたような気分で毎日つらいです。

今は彼女に対して何を言っても駄目だろうと、熱が冷めるまで極力触れないようにしております。
間接的にでも、自分の評価をあげようと仕事も今まで以上にがんばるようにしております。
お酒はもちろん飲みません。

長文になってしまいましたが。ご意見賜りたいと存じます。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

最後にもう一度ちゃんとした謝罪を

謝罪にもレベルがあると思います。
人間それぞれが一軒家であると致しますと、質問者様は立ち入ってはいけない所まで立ち入ってしまった、心の家屋侵入罪と考え、それはお酒に酔った勢いとはいえ不法侵入は不法侵入です質問者様側のお気持ちを考えると適切なたとえではないですが、それは純愛、でしょうか。
もし純愛ならばすべてを投げ打ってまでしても相手に素直になれると思います。
もし単にお酒に酔った勢いで誰でもよかった的なアプローチでは相手に対しても失礼です。
ですから、ラインやメールなどのお詫び分ではなく、手書きの文章で最後にお詫びすることをお勧めします。
昨今、各業界人の謝罪記者会見の多い中、謝罪する側に求められているのは、本当に誠実に謝る事ではないでしょうか。
「本当に申し訳なかったです。①この件に関しては謝りますが、②でもあれはそもそも…」
のように②を付け加えてしまいますと、謝られる側もスッキリしません。
とことんすべてを投げ打って、かけひき、見返り、条件なしのお詫び、謝罪をお勧めします。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下 覚元様

回答を拝見してしまいましたが、誤解を持たぬよう一度頭から消し去ります。
真摯に回答を考えてくださり、誠にありがとうございます。

丹下 覚元様

回答していただき、本当にありがとうございます。
誠実な気持ちを持ち、謝罪したいと思います。

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