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妹のことです

回答数回答 1
有り難し有り難し 4

妹のことでご相談です。
私の家は変なところにあり、自分でも家の中に霊道があるんだろうなと思うほどおかしな家です。
少しでも改善したくて、パロサントのお香を焚いたり、パロサントのジェルを身体に塗ったりしていたのですが、
その度に妹が臭い臭いと大騒ぎします。
パロサントを嫌がる人は悪霊に取り憑かれているとネットで読んだ時はバカバカしいとおもっていたのですが、
実際に自分の妹が大騒ぎして嫌がると、
この女は本当に何かおかしいんじゃないかと心配になります。
何か見極める方法はありますでしょうか。
よろしくお願いします。

2024年10月14日 1:02

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

そのように思える思いのフレーム、ワクを外してみる。

DISCOVER=発見するという単語は、DIS=取る・外す、COVER=カバー、覆いということに由来するそうです。
人間の肉眼、目、眼玉は、ただそのまんまの映像や状況をそのとおりに見ているだけなのです。
そしてその見ていることに思いを添えるということを「観る」とも表現します。それは肉眼での直視ではなく、何らかのモノ、イメージ、考え、意味づけを観ようとしている姿でもあるわけです。
もともと、妹さんや家の構造にもそういうことを思っていなかった時は、その通りの事実をその通りに見ていただけではないでしょうか?
そこにネガティブイメージも、悪く観ずる「つけたしごと」はなかったはずです。
人は一体いつ元々なんでもなかったこの世の中に対して、自分のアタマで考えた自分限定の色付けをし始めるようになったのでしょうか。
今日は今日で昨日までのことはどこにもありません。今は今で過去、さっきまでのものは残っているような気がするかもしれませんが、今は今でリフレッシュされた無常という永遠のフレッシュな世界があなたを待ってくれています。
どうして、人は自分流につけた古いイメージのペイントごしに世界を観ようとしてしまうものでしょうか。
たとえ床や建造物、車、物をピカピカの鏡面仕上げするワックスがあったとしても、それは覆い、カバー、塗装でしかありません。いつか廃れるものです。
あなたも妹さんとの関係だって、いつ、なにが原因で、だれがそのことを引きずって、関係が良好ではなくなってしまったのでしょうか?
ん…?そういえば、いつからだろう…?一度立ち止まって見るべきです。

実は、全部それらは思いの塗装、膜、カバー、バリア、塗りたくりなのではないだろうか?という問いを持つべきです。あなたはつい習慣でそう思いたいという心理が起こるかもしれませんが、人間というものは、ついついそういう風に思いたくなってしまう所があるものです。そして、その思いというものはこの世の絶対的な真実や真理でもないものかもしれません。いつこの世界には、かつてどこぞの本やネットページでたまたま読んだ何らかの独自のイメージが前面に押し出されるような姿になったのでしょうか?
ちなみに香料、香木も人には好みがあるものです。
あなたも妹さんが何やらよくわからない料理を作っていれば、臭いと思ったりすることはあるでしょう。臭うというだけの事でしょう。

2024年10月14日 8:16
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

バカバカしい相談に答えていただきありがとうございました

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