心境の変化に戸惑う自分について
長年、自分の完璧主義と自己嫌悪感や自信のなさから心をすり減らしてきました。
完璧でないと「だめだな」と言われるような育ち方をしました。
また、「お前はだめだ。そんなふうに一度でも迷惑をかけると、社会では二度と許されない」というようなこともたびたび言われてまいりました。
何か失言をしたのではないか?これで人から妬まれたり、さげすまれたり、拒絶されてしまうのではないか?
今日も怒鳴ってしまった。私のような人間に子どもを育てる資格があるのだろうか。家族から愛される資格があるのだろうか?
働いてもいない自分に(専業主婦です)、社会で生きる価値はあるのだろうか?
そのような思いをずっと感じてきました。
ですが、最近なぜか急に心境の変化がありました。
ずっと年下の人から悪口を言われていたようなのですが、腹が立たないどころか、そんなことで悪口を言ったつもりになっているのがむしろかわいらしく笑ってしまったのです。
そして、それは大人にもあてはめていいことなのではとふと思いました。
すると、今まで人生を高い山の頂にかかる平均台のように細いつり橋を渡ることのように感じていたのが、ただ近くの通りやすい道路を運転するように、状況に応じて右にも左にもぶれてもいいもののように感じ始めました。
好ましい人とは優しく付き合い、そうでない人とは縁遠い人かな?とあいさつ程度にお付き合いする選択肢もいいのかなと思うようになりました。
すると、だんだん肩の力が抜け、楽しみも増えてまいりました。
このような心境の変化を好ましく思う自分がいる一方で、私はどんどん自分勝手な人間になろうとしていると懸念している自分もおり、少し混乱しています。
お坊様は私のこのような心境の変化をどうお感じになるか、教えていただけると嬉しく思います。
ご多忙な中恐れ入りますが、よろしくお願いいたします
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
すばらしい変化
仏教は『世間の価値観』という虚偽を打ち破る智慧を与えてくださるものです。
今までのあおむしさんが
抱いていた『平均台のように細い吊り橋』を渡るような生きづらさや、緊迫感の正体はまさにこの『世間の価値観』によるものです。
この虚偽の価値観によって、『資格があるのだろうか』『価値があるのだろうか』などと、悩み、苦しめられる私たちです。
しかし、そんな人間のこしらえた価値観の中で、必要以上に悩み、苦しまなければならないことなど、ありません。狭い狭い平均台のような吊り橋を渡る必要はありません。
私たちは堂々と
『状況に応じて右にも左にもぶれていい』のです。
世間のものさしと仏様のものさしは違います。
仏様のものさしは
『みな可愛い』というものさしです。
優劣、長短、美醜、大小。
これらの相対を超えたものさしではかられています。
そしてそんな『仏様のものさし』を
世間のものさしがはびこる私たちに示してくださる仏法です。
話があっちこっちですいません笑
私はあおむしさんは
『世間の価値観(ものさし)』を少し手放された証拠だと思います。
喜ぶべきことですよ^ ^
あなたの人生が豊かな実り多いことを
拝読させて頂きました。あなたのご心境の変化は客観的に大変望ましいと感じました。人は完璧ではありません。好き嫌いも得意不得意もあります。経験もそれぞれ違います。そう胸にストンと落ちて合点がいき、無理なく生きることができる境地もありますね。又もしかしたらこれからの人生で気がつく別の境地もありますよね。
仏教は完璧なる完全なる人格を目指し仏となることを目的とした教えです。どうぞあなたもご自分の人生でこれからも様々なご経験を積んで頂き、ご成長なさって頂きます様にお願い申し上げます。あなたの人生が豊かな実り多いことをお祈り申し上げます。
質問者からのお礼
お忙しい中、丁寧で慈愛に満ちた回答をいただき、本当にありがとうございます。
大乗様
喜ぶべきことですよ。とのお言葉に涙が出ました。
おっしゃる内容の全てが心に響きました。
今まで、私は他人の目や世間体などに縛られすぎていたのかもしれません。
こうあらねばならない!という考えはちょっと横に置いて、本当に自分に必要なものを求め、本当に自分が大切に思うものを慈しみつつ、日々を暮らしたいと思います。
kousyo Kuuyo Azuma 様
ありがとうございます。お坊様から望ましい変化とおっしゃっていただけると、とても安心いたしました。
仏様は完全で完璧な人格をお持ちなのですね。
いつか私の命の灯が消えるときには、そのようになれることを願いつつ、完全で完璧でない自分や他人を人間らしいなぁと許せる人間でありたいと思います。